シャッター音
つま先のしびれるような痛みがついに限界を迎えた。
思わず足を崩し、ポケットからハンカチを出す。
制服のスカートのひだが崩れるが気にしない。
見栄えのしない薄黄色のハンカチを額に当てると汗が吸収され、小さな染みを丸く作った。
百人一首、すなわちカルタの九州大会個人戦が行われたのは、六月の終わり、私達が住む隣の県の、とある公民館の大広間でのことだった。本来フローリングであるはずの床は畳で敷き詰められ、イグサの香りが私の鼻をくすぐっている。
結局膝の上の「新城高校 新聞部」というタグがついたカメラは、会場に入ってから一度も音を立てずにそこで試合の経過を見守ることになった。競技かるたでは耳を非常によく使うのだ。
シャッター音は競技者にとって耳触りな雑音でしかないらしい。
『競技かるたっていうのは、百人一首と呼ばれる札を使った一対一で行う試合のことだ。それぞれ二十五枚ずつ札を取り、左右三段に並べる。それを十五分間暗記した後取り合うっていう感じだ。……何よりこの競技には礼儀が欠かせない。開始前と終了後、相手と読み手にしっかり礼をするのが決まりだ』
今目の前でありがとうございました、と頭を下げている幼馴染、浩太の言葉を思い出す。個人戦の一回戦が終わったのだ。
「またその一礼は、彼の青春が終わりを告げた瞬間でもあった……か」
自分でも驚くくらい平坦な声でつぶやき、メモを取る。彼はあまりの悔しさに涙し、その場に伏した……っと。
素晴らしい、とは言い難い試合だった。かるたに関してあまり知識を持ち合わせていない私でも分かってしまうほどの負け試合だ。浩太は相手の方に並べられた札どころか、自分の札すら守り切れていなかった。試合中はずっと、額に汗が浮かんでいた。
『試合中、読み手は五、七、五、七、七音で構成される歌を読む。僕らはその歌が書かれた札を取るわけ だが、並べられた札には後半の十四音しか書かれていない。暗記力と俊敏性の両方が試されるっていうわけだ。才能ももちろん必要だが、努力が無ければ勝ち残れない』
今となってはむなしいだけの、自慢げな声が心の中で木霊する。暗記力も俊敏性も、浩太は一回戦の相手に劣っていた。
別に、浩太が努力を怠ったわけではないだろう。隣の家からは遅くまでお経のような、百人一首の歌を読み上げるCDプレイヤーの声が響いてきたし、見せてもらった学生鞄の中にはいつも歌の暗記表が入っていた。部活から帰ってくるのは、もちろん浩太の方が遅かった。
そうであるとはいえ、浩太がカルタを始めたのは中学生の時であるから、もし相手がそれより先に始めていたのであれば、その差はあるのだろう。もちろん、才能という線もある。
「自分の方に向けられた…自陣だったっけ、そこの札を取れば取った札を脇に置いてそのまま次の歌を待つ。ただし相手の札、つまり敵陣の札を取ったら自陣の札の中から好きな札を一枚相手に送る。先に自陣の札が全てなくなった方が勝ち……なんだよね」
呟いてみるも、微笑んで「正解」と言ってくれる者はいない。
私にとっても彼にとっても高校最後の夏。取材する上で必要になるだろうと必死でルールを覚えたというのに、もう使う機会は無いのだ。総合文化祭の取材をするにあたって、浩太の所属するカルタ部に割り振られたときは確かに嬉しかった。
しかし、誰が知人の散々な負け試合を見て喜ぶだろうか?
来なければよかった。
そう思った。
しびれる足を右手で揉んでいると、最後の組が頭を下げ、一回戦一組目の全ての試合に決着がついた。
礼儀はわきまえながらも小さくガッツポーズをする者、次の試合に備え早々とその場を去る者、額を畳につけたまま動かない者など、反応はさまざまだ。
一目で勝者が分かってしまうのが、悲しく思えてくる。
風で札が飛ばないよう、また防音をするために窓が閉まっているため、室内は熱気がこもっている。
一回戦二組目が始まるまでにはしばらく時間がある。校内で九州大会まで上り詰めた者が幼馴染だけであるため、今会場を出ても文句を言う輩はいないだろう。最後に写真を撮らせてもらって帰るかと考え、まだしびれを残している足に力を込めた。
『百人一首のなかにさ、《ながらへば》から始まる歌があるんだけれど、知ってる? ……知らないか。《ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見しよぞ今は恋しき》っていうんだけれど。藤原清輔作、三字決まり。意味は、自分で調べて欲しいな。僕の一番、好きな歌』
中学生の時、聞いた言葉を不意に思い出す。その頃は丁度浩太が百人一首に熱を上げ、私にも強引とも言えるほど勧めてきていた頃だ。記憶力に自信が無かった私はやんわりと断り続けた。そういえば、まだその浩太が好きだと言った和歌の意味を知らない。
鞄の中に、記事を書こうと持ってきた電子辞書があるはずだ。後で調べてみよう。
……そうだ、県大会までは良かったのだ。他の部員が次々と倒されていく中、一瞬で札を射抜いていく彼を見るのはすがすがしかった。記事にするためのメモを取るシャープペンシルの動きも素早かったし、何より他の部員が明るかった。
しかし今はどうだ、一回戦負けした彼を慰めることのできるものは誰もいなかった。
「おしかった」の一言さえ、彼を傷つけてしまう可能性があったのだ。
……否、一人だけいた。試合中他の部員と同じように彼を見つめていた、副部長の女子だ。
歩くたびに、私と同じ学年の色をしたスカーフと長いポニーテールが揺れる。
そのたった一人は易々と彼に近づき、微笑んで見せた。
「頑張ったよ、コウ君。あたしはコウ君の彼女で良かったって思う」
その言葉に彼の涙をためた顔が上がり、ほんの少しだけ笑みが宿った。
ギリ、と奥歯が鳴った。
その音に鳴らした私自身が驚く。いつの間にそんな力を込めていたのだろう。
毎日幼馴染と一緒に帰宅する者がいる、それだけのことだ。競技かるた部の部長と副部長がそういう仲であったことはずいぶん前から知っていた事実であるし、今更何を嫉妬しているのだ。
変な思念を振り払おうと、小さく首を横に振る。
私は足のしびれを無視して彼の方に歩み寄る。
「あの、新聞部の池田と言います。大会の方、お疲れ様でした。……えっと、残念でしたね」
極めて冷静な口調になるよう、今度は意識して声にする。彼女に目から光線が出そうなほど睨まれたが気にしない。彼の方を見たまま、ただし目を合わせないよう努力しつつ口を再度開く。
「新聞の記事用に、写真を一枚撮らせて下さいませんか」
事務的な態度は崩さない。急激に会場の温度が上がっていくような気がした。一瞬座り込む彼の隣に目をやると、なるほど暑いわけだ、憎悪の感情を全身にいきわたらせた副部長の姿があった。
「あなたねえ、少しは思いやりってもんが……」
「こちらも部活ですので」
彼の方を見たままそっけなく返す。また少し室温が上がったようだ。
「……いいよマキ」
制したのは幼馴染本人だった。
続いて、涙で赤くなった目をこちらに合わせ、小さいころと何も変わらない、少し寂しそうな微笑みを向けて言う。
「見にきてくれてありがとう、池田さん。新聞部の取材、だよね。うん分かったよ、こんな僕でいいのなら」
誰よりも悔しいのは負けた本人のはずなのに笑顔を作って見せた幼馴染に、思わず喉が詰まる。言葉が一瞬、出遅れる。高校に入ってからずっと「池田さん」と呼ばれていたはずなのに、妙に胸がざわついた。夏とこの部屋の暑さにやられたのだろうか。
では、と何とか声を出し、カメラの電源を二時間ぶりに入れる。小さくモーター音がし、レンズ部分が飛び出る。写真部ではないのでカメラは小型のものを使っている。コンパクトで収納場所に困らない、しかも手ぶれ補正つき、初心者でも安心、が売りだ。今まで使われてこなかった灰色のボディが会場の証明に照らされ虚しく光る。
「では、畳を背景にして……」
会場が十分に明るいため、ストロボライトは必要なさそうだ。出場したわけでもないのに副部長が浩太の隣に並んだが、文句を言えば倍になって帰ってきそうなので無視することにする。
二人の位置をカメラの画面を見つつ調節し、補正つきとはいえぶれないようそっとシャッターボタンを押した。三年生最後の夏の写真にしては、手ごたえが軽く、シャッター音もどこかあっさりとしていた。
画面に映った幼馴染の顔は、やはり悔しそうではあったが笑顔だった。
「ありがとうございました」
機械的に頭を下げ、カメラの電源を切る。
今、私は取材中の新聞部員で、目の前にいる男子は、ただの取材を受ける、同情しかつ九州大会まで上り詰めたことを賞賛すべき敗北者だ。
自分でもひどいことを言っていると自覚しつつも、言い聞かせる。
「いっちゃん」
急に小さい頃のあだ名で呼ばれ、心臓が跳ねた。
は、はい?
変な声が喉から発せられる。顔が赤く染まっていくのを感じる。
「ありがとう、わざわざ見に来てくれて。……こんな結果になって、ごめん。でも、僕は後悔していないから」
目が合った。
長時間札と向き合ったせいで少し充血している白目の中で、真っ黒な瞳が私を見つめる。
全身が発熱しだす。
違う、と必死に首を振る。
浩太はただの幼馴染だ。ただの取材すべき存在で、写真を取りおえた今となっては早々退室するべきなんだ。
浩太にはすでに大切な人がいるし、私には関係ない。
「ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見しよぞ今は恋しき……だよ。ごめん嘘ついた、やっぱり少し、悔しいかな」
いつぞやの和歌を口ずさみ、浩太は私に背を向けた。
表情が見えなくなる。
副部長の女子がこちらを一睨みし、やはり背を向ける。浩太に追いつき、会場を出て行く。
一回戦二組目開始まで、後十分です。司会のスーツを着た男性が大きな声で呼びかける。私も会場を出なければならない。残念ながら、これ以上は集中力が持たないのだ。
変に折れてしまったスカートのすそを気にしながら鞄を拾い上げ、出口へと向かう。
左手に持ったデジタルカメラには、幼馴染の青春が詰まっている。
そう思うと、カメラの重みが増した気がした。
出口の方では、浩太と副部長がなにやら話をしている。これでは二人の前を通らなければならず、とても出づらい。
時間をつぶそうと、私は鞄の中からおもむろに電子辞書を取り出し、付録としてついていた百人一首の項目を呼び出す。《ながら》と打ちこむと、意味が画面に映し出された。
《出典、新古今、雑下。歌意、もしこの世に生きながらえていたなら、将来このつらい今のことがまた懐かしく思い出されるであろうか。つらいと思っていたかつての日が、今では恋しく思われることだ》
「憂しと見しよぞ、今は恋しき……」
口に出し、味わってみる。彼女を持ち青春を謳歌する浩太が、こんな湿っぽい歌を好んでいたなんて思わなかった。確かに、試合に負けてしまった今なら怖いくらいに似合う歌だ。
では、私は? 私はつらいことが将来懐かしく感じられるくらい、何かをやっただろうか?
「つらい、こと」
私にとって、つらかったことは、何だっただろうか?
空気の入れ替えだろうか、スタッフが室内の窓を開けた。
熱気の中を涼しい風が切り裂き、私の元へと届く。
不思議と、出口の方へ目線が行く。
そこにいたのは、取材した敗北者でも、彼女のいるただのクラスメイトでもない、一人の幼馴染だった。
私は駆け足で出口へと向かった。副部長が、こちらに気づき睨みを聞かせてくる。一度赤く染まった頬が急激に冷えていく。大丈夫、別に浩太をあなたから取り上げたりなんてしません。思いを込めて、口元を上げてみる。
どうしようもないことは分かっている。
浩太には既に思い人がいる。大切に思っていることも十分理解した。だから、これは私なりのけじめだ。つらいことを、懐かしさに変えるための、儀式だ。
私は自然に浩太の前に立つと、持っていたカメラの電源を入れ、すぐにシャッターを切った。かしゃり、と腑抜けた音が二人の間を通り抜けていった。デジタルカメラの画面には、アップの幼馴染が映っていた。照れ隠しと言わんばかりに、肩を竦め微笑んでみる。
そして、言葉を届ける。
「かっこよかったぜ、こーた!」
浩太の目が大きく見開かれた。昔の口調で話したのは、一体いつぶりだろう。浩太はしばらく固まった後、軽めの口調で
「だろう?」
と返した。真夏の太陽のような、晴れやかな笑顔だった。
私は浩太と副部長の二人に頭を下げ、公民館を出る。まだ涼しい風が吹いているものの夏を感じさせる太陽が、じりじりと肌を焼いた。
これでいい。
今日の日がきっと将来、良い思い出になることを想像して、私は初夏の道を歩き出した。