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少女のまぶたが微かに羽ばたくように動いた。そのまま目を開かずにいたのは、まどろみの余韻の中に何かを見つけようとしていたからなのかもしれない。軽く身をよじるのと同時に、小さな吐息がその口元から漏れる。
しばらくを置いて、うっすらと開いた瞳は、自分自身の手のひらをぼんやりと、何か不思議なものに相対したかのように見つめていた。
何度か握りを繰り返した後、少女は未だ眠りの中を手探りするように、緩慢な動作で自分の首の後ろを弄る。
「……っ」
初めての声と、表情らしい表情だった。
引き抜いた端子を床に無造作に落とし、そのまま身体を預けていた肘掛け椅子の上で、少女はその小柄な肢体を大きく伸ばす。
小さくぽきりと、強張った背骨の鳴る音がした。
凛とした空気が、かすかに揺れて動く。
依然と何も変わらない有様を晒しつづける部屋の中には、少女の横たわる寝台代わりの椅子の他には何もない。そこから延びる幾本もの配線類が、ところどころひび割れた冷たい床の上を無造作に走りまわって、複雑な端子部品の中継を経た後、四方の壁の中へと消える。
無機質な、けれど、どこかさらりとした壁の表面には、埋め込まれた管の跡が、うっすらと僅かな凹凸の陰影を文様のように浮かび上がらせていた。
そして、椅子の右手に位置する壁だけはひどく特徴的なまでに例外で、ほぼ壁一面を用いた嵌め殺しの大きな窓が設えられていた。
少女は未だ光に慣れない目を細め、手のひらで顔を覆いながら、その窓の向こうに眼差しを投げかける。
実際のところその窓というのは、古い時代の意匠を模した、ただの照明装置でしかない。
それ自体が発光するわけではなく、どこからか取り入れた光を室内まで誘導し放射する。
人工の明かりでは為しえない、柔らかな光で室内を浮かび上がらせるためだけの、凝り性極まるその仕組みもまた、この場所を、あるいはその住人までも作り出したであろう何者かが固執した幻想の体現であるのかもしれなかった。
だから、その作り物の窓辺の向こうに何が見えるというわけもない。あるとすれば、この光の先が外につながっているかもしれないという、淡い予感くらいのものではないか。
それでも少女は、床の上に降りる窓からの影の、明るくなった部分との境を素足の裏で撫でながら、ぼんやりとした視線をどこともない場所へと向けて、椅子に腰掛けたままでいた。
不意に少女の首が動き、そのまなざしが部屋の四隅のひとつへと向いた。遅れてなびいた長い髪のさらりと鳴る音すら聞こえるような静寂を、次いで、見た目どおりの幼げな、しかしどこか大人びたようでもある明瞭な声が破る。
「ねぇ、あなたはどう思う?」
唐突な、文脈を喪失した言葉は、彼と彼女、異なるふたりの間に既に通じるものが生じていることの証なのだろう。
言葉の投げかけられた部屋の隅の暗がりには、いつの間にか一匹の獣が静かに佇んでいた。
ぴんと立った耳と、精悍に伸びた鼻筋。
少女の矮躯よりもひとまわりほど大きなその身体を覆った、白と灰の交じり合った毛並みが、時折、光の加減によって銀色に誇らしげに輝いている。四肢を綺麗に揃えた姿は、一見すると精巧な調度品と見紛いそうでもある。
おいで、と少女は腕を広げる。
それに応えて、彼はうつむき加減に小さく顔を逸らしながら、不機嫌そうに短く鼻を鳴らした。
そんな狼の彼のふるまいにも、古い友人とまみえたときに浮かべるような親しげな笑みを浮かべる少女に対して、僅かに嘆息したようにも見えた彼は、そのまま音もなく立ち上がり、しとしとと少女の元に近寄ると、その頬にそっと自分の鼻先を摺り寄せた。
「どのくらい経ったのかな」
狼の彼の前足を手に取り擦りながら、少女はぽつりと呟く。
今では毛並みの整ったその綺麗な前足が、半ば千切れ、潰れ、赤黒い循環液に塗れていたことを思い出したのだろうか。それとも、あれだけ陰惨だった光景すら、もはやおぼろげにしか思い出せなくなっていることを改めて思い返していたのか。
先ほどまでの笑顔とは対照的な、遣る瀬無いような影を帯びた声音だった。
「ここは」と、少女は再び何も映さない窓を見遣る。
「ここは、何も変わらないのにね。私もあなたも、何も変わらないままでいられれば――」
その後に何を続けようとしたものか、開きかけた唇はしかし固く結ばれる。
狼の彼の首を抱く少女の腕にわずかに力が篭った。彼もまた、そんな少女の細腕から伝わる感情をただ静かに受け止めた。
刻々と続く沈黙の最中、やがて窓からの明かりが室内の奥まで深く差し込む。
ふたりの影が長く、朽ちた床の上に投げかけられた。
先に身を捩ったのは狼の彼の方だった。
少女も自然とその腕を緩め、そっと手のひらの甲を彼の背中の上で名残惜しげに滑らせる。
床に降り立った彼は、一度だけ少女のほうに振り向くと、獣然とした無駄のない動作で、窓の向かいに位置する通路の奥へとしなやかに消えた。
何も纏っていなかった素肌に残る微かな彼の熱を離すまいとするように、少女は、傍らに無造作に置かれていた衣服で身を包むと、全身をゆるやかに覆った布地の裾を翻し、ひらりと床の上に降り立った。
場違いに咲いてしまった白い花のような、その後ろ姿が彼を追う。それはまた、迷い込んだ羽虫が燐粉を煌かせながら羽ばたく様にも似ていた。
不意に、室内が陰る。
斜光が再びゆっくりと角度を変えるのに合わせて、また部屋は息をひそめ、静謐に還る。
訪れるものも戻ってくるものも、誰もいなくなくなったとしても、この部屋はいつまでも、暖かな光を窓の下の陽だまりの中に切り取った絵画のごとく湛え続けていくのかもしれない。
残り香もやがて消える。
駆けていく少女は振り向かなかった。




