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私は慎重に見ようと思います。でも、慎重とは何ですか?私は私ではない何かの慎重を知り得ないのに、私は私の慎重を知り得るのでしょうか?私は私の慎重を、いつどこで覚えたのでしょうか?私は私ではない何かから慎重を教えられて私の慎重としたようですが、私の慎重は私ではない何かの慎重と同じではないので、私は私の慎重をも知り得ないのではないかと思います。だから私は、慎重とは何かを知らないまま、慎重に見ようとしていたように思います。「慎重」はただの便宜上の言葉らしいと考えます。ですから私は、自分が慎重なのか分かりません。そもそも自分とは何かが分かりません。もうこれ以上言葉など遣いたくないと思っています。言葉はいつも私を嘘つきにさせるので、もう言葉を遣うのを止めにしたいのです。慎重など誰も知り得ないと考えているのですが、誰もが慎重を知っていると言います。言葉など遣いたくはないのだけれど、昔から私は言葉を遣っていて、これからも私は言葉を遣っていくようです。でもいつかは、無言の行に。
いつかどこかで知らないうちに私は言葉を覚えてて、そしてここにいてもまださらなる言葉を探している。とてもうんざりさせられることです。私は私に言葉を教えてくれる誰かではないのですから、言葉を誰かのように正しくは遣い得ないと考えています。「正しい」という言葉の中身も私は知り得ないのでしょう。「知らない」も知り得ないのでしょう。私には感情を表す言葉が伝えようとしているその言葉の中身がうまく伝わって来ないようです。
扉の裏側に何があろうとも、何も考えないようにしたいと思います。そのままの景色を見るだけにして、私は心を揺るがされることのないようにしたいと思います。想像を膨らませることのないようにしなければと思います。私は右の扉に近づいて行きます。
子供が倒れるのを見てから私は扉に近づいて行って、黙ってその扉を開けます。子供が私よりも先に少し開けていたので、自分で扉を開ける前から大体の想像はついてしまっています。扉を開ける前から扉の向こうが想像つくものには今まで散々遭って来たから、ここまで来てそんなものはもういらない。子供の目に映った光景と私の目に映った光景とは違うものであって欲しい。そう思いつつ私は扉を開けます。開けてすぐに分かります。想像は決して裏切られてはいませんでした。この扉は舞台の張りぼてと同じです。ここには張りぼての扉がお花畑の中に置いてあるだけです。
私は扉を通り抜け、次に西の方を見ます。そちらを見て私は今までになくさみしい思いになります。西の扉もただの張りぼてです。人々はその扉を通るずっとずっと以前から、その扉の向こうに何があるのかを知っていたかのようです。だからその扉がただの張りぼてだと分かったところで、何も驚いたりする様子はありません。だから余計さみしい気分になります。人々は長い長い行列になってまでも張りぼての扉のところにはるばる西の彼方から長い道のりを歩いてやって来て、そしてただの張りぼての扉を大した感慨もなく通り抜け、その後はまた元来た長い道のりを同じように歩いて帰っていくようです。なぜか人々は悠然として楽しそうで、でも私には居たたまれないのです。
私の知らないうちに、あの子供も扉を通ってこちらに来ています。子供は座って西の行列を見ています。私もそばに座って行列を見ます。でも私は、その子供とは口を利かないようにしています。目を合わせないようにもしています。私はただ、行列を見ます。草の上に座って黙って見ています。座って自分が息をしていると感じられるだけでとても心地よい、座り心地もとても気持ちのよい草原です。ただ静かに座っているだけで、私の内面もすっきりと静かで透明で波のない海面のように穏やかになっていきます。でも、そう思えるのもほんの束の間の事です。私は行列を見ます。すると、しばらくは普通の長い行列のように見えています。普通では考えられないくらいにその行列は長いと言うだけで、それ以外は普通の行列だと、ついさっきまではそう思って見ています。けれどもしばらく見ていると、行列の周りには何か影のようなものがいるのが見えてきます。夜の森の中をすばやく飛ぶ鳥の影のような感じです。それはとても速いので、おぼろげな影にしか見えません。少し止まって影のようなものが見えたかと思うと、またすぐにどこかへ飛んで行って見えなくなってしまいます。私の動体視力がその速さについていけません。その影のようなものは行列に近づいたりすることもありますし、遠くから離れて観察しているような動きをすることもあります。そしてその影のようなものは、一つだけではないようです。かなりたくさんいるように見えます。行列の人たちはその影のようなものがいるのかどうかを分かっていないようです。私はそれでますます居たたまれない思いになります。もう私には分かるのです。影のようなものが見えてないように感じられるあの行列の人々ですが、人々は十分知っていると分かるのです。急にそれは分かるのです。それまでは誰も知らないのでと私は思っていたかったのです。でも私が考えているより、彼らはよく知っているのです。けれどもそのことについては、もうこれ以上考えない。思いを揺らされないようにしていたい。そのことをただ単に知っている、という状態に留めておきたいと思う。これから起きることについて、予想を立ててはならない。このことについてはこれまでもすでに知っていたのであって、何も新しいことなど起きていないことにしなくてはならない。
私の父や母はこのようなことを知っていたのだろうか?そんな疑問がふと沸いて来ても、私にはもうその答えを聞く機会を得ることはできません。この光景について、少なくとも父や母からは私は何も聞かされていません。私の方も父や母に何も尋ねることなしに、ここまでやって来てしまいました。このような光景については、聞くだけ野暮なことのようにされていたのです。きっと世界中の多くの地域で。
私はいたたまれない気分で走ります。走れば何かが新しくなるのだと心臓に魔法を掛けながら走ります。とにかくそこから離れようとします。北の方のここより暗い方へと。扉から離れるほどに辺りは暗くなっていき、星だけが明るく輝いて見えます。そこにはもう花もなく、夜露に濡れた丈の短い草たちが素足にさほど心地よくはありません。星明りの下では、海岸の砂浜も私が今ここで見ている草原も暗くて同じように見えるのでしょうが、草原の方が星明りの下の砂浜よりも好ましくありません。足元の草の中に得体の知れないものがいるように思えるからです。
地球は球体なので、静かで周りに何の障害物のない場所では、例えば海の上のような所では、せいぜい4キロ先までしか見えないのですが、ここは球体なのか平面なのか?上っているような下っているような、砂漠のような起伏はないですし、走っても走ってもずっと不思議な光景が続いています。なぜここへ来たのかも分からない。必然と思えたものもそうではないように感じています。段々疲れが出てきて速く走れなくなってしまう。それでもまだまだ走り続けていて、遅くてもいいから歩かないようには走り続けていて、とにかく走り続けて自分を疲れさせ疲れによって思考する事を抑制させようとします。疲れ切ってしまって、ほとんど歩けなくなるくらいになるまで疲れ切ってしまって、そしてあまりにも疲れ切ってこの先に何が待っているのかについてはもう何も考えられないくらいに疲れ切っている、そんな状態になりたいと考えながら走ります。
私は記憶にある中で一番長い距離を走ります。そしてもうこの辺りでいいと思って、草の上にゼーゼー言って倒れこみます。汗を大量にかいてはいますが、この星明りの下では大量の汗もさらさらとした清らかで心地の良い岩清水のように思われてきます。
ふと、倒れた私のそばに誰かが立っていることに気づきます。でも、もう少しこのまま倒れたままでいて、何も考えたくありません。私のそばに立っている人が、なぜ、いつからそこにいるのかなど考えないようにしたいと思っています。それに考えたところで無駄なのです。
そうしてそこに大の字になって、草の上に気持ち良さそうに倒れています。そして、しばらくあって辺りを見ると、悲しくも、自分が気付かないうちにまた元のお花畑に戻ってきているのが分かります。私は元のお花畑の中にあった右側の扉の近くにいます。必然性の崩れが起こって連続性の必然が効かなくなった、とかなんとか、あまりよく意味の通らないことが頭の中をよぎります。
クリスマスの夜、寒空の下で湖の向こうから吹いて来る風に身を任せて、風の浮力に遊びながら湖の畔で一人焚き火を燃やして体を温め、真冬のオリオン座を見上げている。そんな訳も分からないが深いしみじみとした寒さが体の表面だけすっとぜんたいを包むように広がって、波の音と冷たい風が体の表面を走るけれど、体の内側は逆に焚き火の明るさが温めていてくれる、そうしてそこに私はいる。
私はかつて湖の畔に住んでいて、湖の対岸から吹いて来る冷たい風には、体の内面にある汚れた部分を削り取って行くような、そんな不思議な力があることを知っている。夏の暑い日の風より、冬の寒い時期の風の方に、より強くその不思議な力を感じたものだった。昔はよく体に風をまとって、少しだけ私は私自身から軽くなっていた。
この草原のような場所でも軽くなりたい。ここならば昔よりもっとそうなれるのかもしれない。
魔法の力を失った人魚姫のようなマッチ売りの少女のような深いカタルシス、例え様もなく訳もなくしみじみとしたカタルシスが体中の皮膚の表面を伝わって行って、そしてこのカタルシスもいつかは消えてなくなってしまうことを自分で分かっていて、それが消える時には自分もいっしょにそれに包まれてなくなってしまいたいと考えています。どうせ消え行く身ならば、この空っぽの状態のままで消えてなくなりたい。そのようになくなってしまえれば、消え行く身の痛みと苦しみへの恐怖が、素直な心地良さと無邪気な安心に消されていくはず。満足した私とはきっと、そのように消されていく私なのだ。
カタルシスに包まれた私は全ての思いを消し、心も体も静かにして待っています。私は静かにまぶたの裏に、いつまでも消え失せない永遠の深い悲しみへの憧れを秘めて、祈りを潜めているのです。祈りが祈りではなく、私が私ではなく、祈りが私で私が祈りで、そしてやがては祈りも私も何もないようになることを待っているのです。
でも、そんなふうに思っていても、やはり私だけが悲しみに取り残されてしまいます。映画で見たときのようにカタルシスからはいつか覚めてしまいます。
私はまたここで一人で何かを見つけに行かなくてはならない。この旅をここで消して終わりの映像に私を溶かし込んで、この私をも終わりにしたい。でももう少し飛んでいく。なぜなのか?ここから先に何か興味深いものが待っている。でも、だからそれが何だと言うのか?興味があるから行くのではない。何の興味もないから行く。何も考えないでいられるから行く。何も考えていないのであれば、うれしくても悲しくても何があっても、もうどうでもいい。何をしようがどうせ同じで、ここで終わってももう少し行っても同じことで、元に戻るという選択肢だけはありえない。
いつから飛んでいたのでしょうか。かなりたくさんの距離を飛んでいたようです。そしてその飛行はこれまでになくとても楽しかった。でも、その飛行ももうここで終わりなのです。私の知らないうちにいつの間にかたどり着くべき所にたどり着いてているのです。
見渡せば辺り一面の淡い桜色の平原、雲のようなふうんわりとしたマシュマロ感に包まれたこの場所は、淡い色の桜色。春のような温かさ、そして優しさ、そしてこの静けさ。音が何も聞こえてこない。
この静けさにもかかわらず、ここには私だけがいたのではありません。数は少ないのですが私よりも先に何人かは到着していて、それぞれ何か目的を持って歩いているようです。好き勝手に歩いているのではなさそうです。人々を見ている私は、私がどこか好きなように行きたいとしても、それはとても難しいと思われてきます。人々はとても静かに歩いていて、行くべきところをみんな心得ているように見えます。しかし私には行くべき所が思い浮かびません。私は歩いている人の手に切符を見つけます。もう一度辺りの人々をよく見ると、かなりの人が手に切符を持って歩いています。切符を売っている一人の駅員らしい人と、その人から切符を買っている人もいます。私も切符を買うべきなんだろうな、と思います。私は駅員の方をチラッと見て少しだけ駅員に近づき、そこで立ち止まってまた見ます。そして不安げながらまた少しずつ近づいていきます。
なぜそんなに不安?私にはお金がないのです。