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人生はゲームと誰かが言う。私はそのゲームとやらを楽しめない。人生はゲームだという考え方を楽しめないし、その考えを聞いて人生の見方が少しでも変わったかと聞かれれば、もし変わったとしても空しさがあるだけ。
空しさよりも慰めか何かを探す。思えばいつも、よりましな慰めを求めて生きていく。望んで死んだ人もいる。大勢いる。
空虚な慰めでなく、何か中身のあるものがないかと思う。そんなものないのかもしれないとも思う。
神様という目に見えない存在でなく、目に見える何かを思っていないと楽しみがない。
知らない人が知っていて、知っている人は知らないものとは何なのか。
幸せや善や悪や、そういった言葉が便宜のためだけの言葉なら、一体誰の便宜を図るためなのかを知りたいと私は思うようになります。きっとずっと前から、私はそれを知りたかった。でも、私はそう思ってここに来ているのさえ知らないうちに分からなくなって来ていたようです。ここに来てふとそんな思いが私にやって来ます。これからは上辺だけの考え方でなく、誰もが納得できる分かりやすい答えを求めて先へと進もうと思います。
これまではほとんど何も見えていなかった。でもこれからは違います。何となく敵が見えてきています。敵が見えてきているからには、もう扉は開いているということです。これまではずっと暗い中を飛んで来ていたのですが、もうこれからは大丈夫、少しずつ明るくなっていきます。扉から出る光が体に当たって、今まで真っ暗で自分の体も目で認識できなかったものがこれからは違ってきます。その扉に向かってさらに近づいて行くと、白い光がその扉から溢れ出ていて、その扉の色は赤錆びた鉄の色にも似ていて、大きさはありふれた物と同じだけれど、それでもかなりの重さがありそうで、けれどもその色や形からは温かみが伝わってきて、清潔感が感じられる扉です。
さあ、もう扉に手届きます。扉は大きく開いています。さっきよりもさらに大きく開いています。扉から少しだけ顔を出して向こう側をのぞくと、光で曇っていた扉の向こう側の光景がサッと晴れて、お花畑が広がっているのが見えてきます。私はここで何かを探すようになるらしいのです。
私は扉を開けて中を見ます。見ると、その扉の向こうのお花畑の中にも扉が置いてあるのがすぐに分かります。お花畑には扉が二つあります。建物は何もなくて、扉だけが空間に浮き立つように二つ置いてあるのです。左の扉が開いていて、右の扉はまだ閉まっています。そして、とてもとても大勢の人々が遠くの方からやって来ています。終わりなど全く見えない、とてもとても長い行列です。こんなに大勢の人はテレビでも見たことがありません。一番乗りではないのが少し残念です。
人々は左の扉の方へと入って行きます。こんなに大勢の人が列を乱さずにちゃあんと順番に並んでいるのも不思議です。扉の色は宮殿の絨毯などに使われていそうな、深紅の色です。人々は扉の先に何があるのかを知らずに並んでいるのではないようです。ちゃんと分かって並んでいるのです。
一つ目の扉を抜けてすぐに、新しい別の扉が二つも置いてあった。そして、そこにはもうすでにたくさんの人々が来ていた。私が一番最初にここに来たと思っていたのに、先を越されたようで少しがっかりです。
たくさんの人々の存在と新しい二つの扉の存在がとても不思議に感じられます。でも、驚くのは決して好ましくないのです。驚きなどの感情ではなくて、ただ何かそこに物があるといったような察知のみに感情を留めておく必要があります。思いを膨らませていくのではなくて、そこに一瞬浮かび上がった思いを心のページに書き留めて置いて、書いてからその思いをすぐにでも消すような気持ちでいなければ、また今まで辿って来た様な過ちを繰り返すことになると感じています。
たくさん人々の行列を見ていて、いつになってもどこへ行っても私は一人切りにはなれないのだろうか、と考えたりもします。でも、開いている扉の方には行列ができていますが、まだ閉められた扉も開いている扉の隣に見えています。その扉には誰も入って行こうとはしていません。
このお話の中身はかつてすでに起こったことでもあるようですし、今この時現在の私と一緒の経過時間で話が進んでいるようでもあります。待っていると何かが見えて来て、見えてくる何かについてすぐ文章を組み立てる必要があります。そうしないと、その景色はすぐにでも消え去りそうで、一刻も早く走り書きでもいいのでそのイメージを書き留めて置かないと、もしそのイメージを書き留めないでそのままにしていれば、そのイメージが消え去った後はもう二度と絶対にそのイメージは私の許にやって来ないのではないかという切迫感があります。でももし、その景色をうまく書き留めることができたなら、おそらくその文章は絵画のように明快で、絵画以上の説明力を持つと思われます。美しい景色ではなく、景色の美しさを描 最初の扉を出て正面には星空があります。星空は真っ黒な空ではなくて、黒い中にも少し青い色があるなと感じます。私は星座までは見ていないと思います。でも、多分この正面の方角が北なんだろうなと見当が付きます。心がそう感じるのです。そして行列がやってくる方角は西で、西の空は橙色に染まっています。夕焼けなのだろうと思います。私の生家の柿の実の色を思い浮かべます。
南には黄色の空があります。その色は幼い頃私が描いた太陽の色です。東では青の色と白の色が、青は白に、白は青の色をお互いの陣地に入り込ませないようにしながら、お互いの進む速さを競い合っているかのように見えます。青と白の線が渦を巻いたり、斜めに真っ直ぐ伸びたりしています。けれども、色は混じり合うことはありません。昔、誰かが描いた絵画のような・・・思い出せない。
ここは上り坂なのでしょうか、下りなのでしょうか、それとも平らなのでしょうか。地球上では凪いだ海の上でもせいぜい4キロ四方が見渡せるくらいですが、ここでは地球以上に遠くまで見えているのではないでしょうか。
これまで私が見てきている扉は、最初の扉と、お花畑に着いてからの2枚の扉と、全部で3枚の扉がありますが、3枚はみんな平行に並んでいます。お花畑にある2枚の扉を1本の線で結ぶと、きっかり西と東を指し示している直線です。遠く西の方から人々が一直線になってやってきて、向かって左の扉へと入っていきます。誰も見た人がいないくらいの、長くて終わりの見えない、きれいに真っ直ぐ伸びた直線です。きれいな行列ではありますが、軍隊のようにきびきびとした、固くてかしこまった行列ではありません。和んだ様 とても広く美しい庭の中に立っているよう。星、美しい夜の星空。全体に濃く青く深く、心落ち着かせる世界。限りない地平。
誰も行かない右の扉。左の方には大行列。さっきまで誰もいなかったように思われた右の扉。
今見ると、右の扉の前には一人の子供。
右の方の扉の表面は、油絵の表面のようにゴテゴテ、色はサマルカンド廟のような目にも鮮やかな青。塗装が剥げかかったところから、ブロンズを磨いたような金属光沢。
一人の不思議な服を着た子供が右の扉に向かって行きます。子供が重そうな扉を押して、少し扉が開かれます。私はそれを遠くから見ています。
子供は扉をちょっと開けて中を覗き込むようにしますが、光に押し戻されるようにして仰向けに倒れてしまいます。その時にその子の顔が初めて見えたのですが、目は細く、顔はふっくらとして丸く、できたてのあんまんのような顔です。深い青色のセーラー服とセーラー帽をしています。幼くて無垢な子供には見えません。猜疑心に満ちた、あまり好ましくない感じの子供です。
私には何かを思考するという行為が怖い。周りをなるべく見たり観察したりしないで、向こうから何かが来て自分を連れ去ってくれるのを待っていた方がいいに決まっている。その方が危険が少ない。何かを見ると何かを思う。その思う内容が怖い。周りの景色に対して悪い評価ばかりしてきた今までだから。子の人も、疲れた表情を隠さずにいる人もいます。でも、こんなに人が多くても私のように行列から離れて一人でポツンといるのは、私だけなのです。