そんなにお好きなら、馬車と結婚なさってはいかがですか?
「おい、気を付けろ、メルセ」
「え、何がですか?」
メルセが馬車のステップに足をかけた瞬間、カールが金切り声を上げた。
「そんな雑に足をかけたら、車体に傷がつくだろうが!」
「……あっ、はい」
特注の立派な馬車だった。無類の馬車好きであるカールの趣味……というより、執着ともいえた。
メルセは慎重に乗り込み、カールも乗り込むと、御者が鞭を打ち、馬車は力強く走り出す。
「いい加速だ。さすがは2頭立て。サラブレッドを選んだだけあって、すごいパワーだ」
カールは景色などには目もくれず、うっとりとした表情だ。
「ちょ、ちょっと揺れませんか? カール様」
「サスペンションはビルステイン製でスポーツ仕様だからな。これは我がカタリスト家が出資している工房の製品なんだぞ。それぐらい我慢しろ」
「は……はい」
路面のわずかな段差で座席が小さく跳ねる。揺られながらも、メルセは懐から包みを取りだした。
「カール様。お菓子を焼いてきましたの。一緒に食べませんか?」
「……!? 菓子だと! メルセ、お前、なんてことを!?」
カールの声が裏返った。メルセは思わず包みを握りしめる。
「え、え? 今度は何です?」
「馬車の中で菓子なんか食べて、粉がこぼれたらどうするんだ! シートも特注なんだぞ!」
「あっ……は、はい、失礼しました」
メルセはそっと包みをしまった。
そうこうしているうちに、馬車は小高い丘に着く。そこから遠くの街並み、山々、彼方まで続く広野が一望できる。
カールは馬車を止め、2人とも降りて景色を眺める……が。
「いい天気ですわね、カール様。雨もあがって。……カール様?」
「……ん、ああ、そうだな」
カールは、景色に一瞥をくれただけで、すぐに背を向け熱心に馬車を眺めている。
「素晴しい景色ですわよ、カール様。ご覧になりませんか?」
「……ん、ああ。なんていいボディだ。金貨1000枚をかけた甲斐があったな」
カールは景色よりも馬車を眺めていた。その目つきは、いつもメルセに向ける冷めた視線とは違っていた。
「カール様、そろそろ行きませんか?」
「ん-、そうだな」
その時、別の馬車が勢いよく走ってきた。メルセたちの近くを通り過ぎるとき、水たまりを踏み、盛大に泥水をはねた。
「きゃっ!」
「ああ!」
メルセとカールは同時に声を上げた。馬車のはねた泥水が、見事にメルセのドレスにかかってしまったのだった。泥が白いドレスにぶち模様をいくつも作った。
「な、なんてことを!」
カールが喚いた。
「どこのどいつだ! あの馬車は。こんな目に遭わせて」
「カール様、かまいませんのよ。しかたのないことですわ」
泥水がメルセの顔にも少しかかっていた。それでも彼女は微笑んで見せた。
「いや、許せん。よくもこんな目に!」
「私はいいんですよ。怪我はありませんし」
「は? メルセ、お前、何を言ってるんだ?」
「え?」
「俺は馬車のことを言ってるんだ。見ろ、車体に泥がかかってるだろう」
見ると、泥が車体にほんのわずかな染みを作っていた。メルセのドレスのひどい有様とは比べ物にならないほど小さな染みだった。
「あ……」
カールはハンカチを取り出すと、狂ったように車体を拭いている。婚約者には目もくれない。
「あの、カール様」
「なんだよ」
「私をご覧になって、何か感じませんか?」
「何だ、はっきり言えよ」
「私にも泥がかかったのですよ」
「あ~ん? 洗えばいいだろう。そんなことより、あの馬車を追いかけて、洗車代を払わせてやる!」
「あの、カール様」
「だから、なんだよ!」
「そんなに馬車が大事なのですか?」
「あ~ん? 当たり前だろ。この馬車には今までどれだけ手をかけたと思ってるんだ」
「カール様」
「なんだよ! さっきから」
「私よりも大事なのですか?」
「わかりきったことを言うな! 金貨1000枚で買って、そのあともいくらかけたと思ってるんだ」
メルセの中で、何かが音を立てて切れた。婚約して以来、いつもこうだった。メルセはゆっくりと息を吸い込んだ。
「……そんなに大事なら、馬車と結婚なさっては?」
「……は? メルセ、お前、何を言っているんだ」
「婚約者の私よりも馬車が大事なのでしょう?」
「ふーん、メルセ。お前、俺に意見する気か。よし、決めた。じゃあ、俺は馬車と結婚するぞ」
「……え?」
「ああ、結婚するとも、馬車とな。だから、お前との婚約は破棄だ! 破棄」
メルセは黙った。口をとがらせあごを突き出しながら喚くカールに、もはや怒りすら感じなかった。あきらめと、呆れ……むしろ解放感すら覚えた。
「それで文句はないだろう! あ、そうだ。それどころじゃない。さっきの馬車を追いかけないと。おい、御者!」
言うが早いか、カールは馬車に乗り込み、さっきの馬車を追いかけた。
走り去る馬車を、メルセはただ立ち尽くして眺めていた。
取り残されたメルセの頬に付いた泥が、ちょうど涙のように見えた。
────
置き去りにされたメルセは、とぼとぼと1人で石ころとぬかるみの道を歩き出した。
歩きにくい道とヒールの靴に、足が悲鳴を上げ始める。
1台の馬車が通り過ぎ、泥をはねた。
「きゃっ!」
すんでのところで泥をかわしたが、かかってしまっても大した違いはなかっただろう。
もはや失うものはないのだから。
通り過ぎた馬車が停まった。御者の腕がいいのか、スムーズな停車だった。
降りてきたのは、馬車や身なりからして貴族のようだった。仕立てのいい上着をまとっている。心配そうにメルセに歩み寄った。
「すみません、怪我はありませんか」
「いいえ……大丈夫ですわ」
「いや、これは、まことにあいすみません。ドレスが泥だらけだ」
「……あ、いえ、これは」
「ともかく、とりあえず馬車にどうぞ。送りましょう」
メルセはちょっと迷ったが、歩いて帰るのは無理だった。それに、この見知らぬ令息にはどこか安心感を覚えた。
「すみません、ではお言葉に甘えて」
────
「私はロイス。ロイス・ルノアール侯爵令息です」
「私はメルセ・インテークです」
ルノアール家の名は知っていたが、子爵家であるメルセたちにはこれまで縁がなかった。
「ドレス代は弁償させてください。ひとまずは私の屋敷にいらしてください。着替えをご用意しましょう。」
「いえ、ほんとうに……」
「なにより、怪我がなくてよかったですよ。万一、あなたのような美しい方に……」
「え?」
「……い、いえ、なんでもありません。では、お送りしましょう」
ロイスは慌てたように視線をそらした。
「すみません、何から何まで」
◇ ◇ ◇
「素敵なドレスですね」
ルノアール家に寄って着替えを終えると、今度はメルセの屋敷に向かう。
「よくお似合いですよ。母の形見なんです」
ロイスにそう言われて、メルセはあらためてドレスを見た。デザインこそ流行からは外れているが、大切に保管されていたであろうことが感じられた。
「そんな大事なものを……」
「かまいませんよ。ドレスが役に立つ方が、母も喜びます。……それより、なぜあんなところを1人で歩いていたのです?」
「……実は」
メルセは先ほどの出来事を淡々と語った。ロイスは時折わずかに眉をひそめながらも、黙って聞いていた。
「……そうでしたか。いや、実は私も馬車は好きですがね。それは理解できませんね」
ロイスは苦笑いした。同じ『馬車好き』でもカールとは違う角度らしい。
「そういうわけなので、泥が付いたのはロイス様のせいではありませんわ。すみません、言い遅れてしまって」
「いいんですよ。レディが困っているのを見過ごせません」
──馬車がメルセの屋敷に着くころには、すでに日は傾き始めていた。使用人が敷地内のランプに灯をともしているのが遠くに見える。
「ありがとうございました、ロイス様。このドレスは洗ってお返しします」
「ええ、それより、メルセ殿……」
「『メルセ』でけっこうですよ」
「……メルセ、また会えるかな?」
「……はい」
「……よかった」
「だって、ドレスをお返しするときに、またお会いするでしょう?」
「あ、ああ、そうだったね、メルセ。それじゃあ、また」
ロイスは照れたように笑い、馬車に乗り込んだ。窓から手を振るロイスに、メルセも手を振り返した。
──数日後、メルセはルノアール家を訪れた。ドレスと、お礼の菓子箱を持って。
「ロイス様。ありがとうございました」
メルセが菓子箱を手渡すと、ロイスの顔がほころんだ。
「あっ、私ったら」
「どうしたんだい?」
「ドレスについていた飾りがあったでしょう? 洗う時に外していたんです。忘れてきてしまいましたわ」
ロイスが見ると、確かにドレスの飾りがない。
「もしかして、メルセが自分で洗ったのかい?」
「はい。ロイス様の大事なドレスですから」
ロイスは感心したように黙った。メルセも黙る。奇妙な沈黙が流れ、やがて2人とも照れたように吹き出してしまった。
「また、お返しに参りますわ」
メルセが笑いながら振り返ろうとすると、外で待機していたメルセの御者が、慌てて駆け込んできた。
「メルセお嬢さま、大変です」
「どうしたの? ハミルトン」
「馬車が故障してしまって。今、使いの者に迎えの馬車を呼びに行かせていますが、時間がかかります」
「まあ……どうしましょう」
「メルセ、なんならうちの馬車でお送りしようか?」
「え……でも」
「どうぞ遠慮なく。ぜひ送らせてくれ」
「すみません」
──故障した馬車をルノアール家にあずけ、メルセはロイスの馬車で帰路に就く。
道中、ほとんど馬車の揺れを感じないことにメルセは気付いた。
「ロイス様、この前は気付きませんでしたけど、この馬車、いいサスペンションですね。乗り心地がよろしいですわ」
「すごい。よくわかるね。馬車にくわしいのかな?」
「はい、もともと馬車は好きですから」
メルセのインテーク家も馬車製造事業に出資しており、そのせいかメルセも子供のころから馬車好きであった。それゆえ、同じような事業をしているカタリスト家のカールと婚約したのだった。
「メルセ、お菓子でも食べようよ。珍しくチョコレートが手に入ったんだ。メルセと食べようと思ってさ」
ロイスが包みを取り出した。
「……でも、お車が汚れてしまいますわ」
「え? 汚れたら拭けばいいじゃないか」
ロイスが不思議そうな顔をする。その何気ない態度と一言で、メルセの中で何かが変わっていくのを感じた。
ロイスが包みを広げ、メルセの前に差し出す。メルセが1つ摘まむと、ロイスも口に入れた。
「うん、うまい」
「ロイス様、甘くて、おいしいですわ」
口の中のチョコレートとともに、メルセの心もとけていくようだった。
──突然、ロイスの馬車を、猛スピードで別の馬車が追い抜いて行った。土埃が舞い、窓がビリビリと震えた。
「誰だ、危ないなあ。うん? あの車体の家紋は……」
カタリスト家の馬車だった。乗っているのはカールに違いない。
「あんな運転をしていると、いつか事故を起こすぞ……」
ロイスは眉を寄せ、メルセはため息をついた。
たぶんカール自身が手綱を握っているのだろう。ああやって馬車を暴走させるのも、以前から彼の趣味だったのだ。
その趣味に付き合わされて、メルセも何度も怖い思いをした。
◇ ◇ ◇
──これ以来、2人は週に1度は馬車でのドライブを楽しむようになった。もともと馬車好きな2人は気が合った。
ロイスとのドライブは快適そのものだった。道中はおしゃべりをし、一緒に景色を楽しんだ。
ロイスが神経質でないことを知ると、メルセもお菓子を焼いて持参した。聞けば、ロイスの馬車も特注らしいが、彼が気にかけているのはいつもメルセだった。
──そして数か月後のある日。
「ねえ、ロイス様」
「なんだい?」
「ロイス様は、結婚をお考えになったことはおありですか?」
「う……ん、あるにはあるけど、こんな馬車好きな私を気に入ってくれる女性はなかなかいなくてね」
ロイスは鼻の頭をかいて、照れたように笑った。
「ロイス様は、婚約者と馬車、どっちが大事とお考えですか?」
「……え? 婚約者に決まってるよ」
ロイスは即答した。
「そうですか?」
「そりゃそうだよ。いくらいい馬車でも、しょせんは物じゃないか。女性とは比べられないよ」
ロイスは続けた。いささか熱がこもってきたようだ。
「馬車はいくらでも買うことができるが、ほんとうに素晴らしい女性に出会えるのは、一生に一度あるかないかだよ、違うかい?」
「さあ……どうでしょう、わかりませんわ」
「私にはわかるよ」
「え?」
「私はね、メルセ、まさか馬車のことで気が合う女性と出会えるとは思っていなかったんだ」
「ロイス様……」
「……メルセ。折り入って話があるんだ」
◇ ◇ ◇
──数日後、ロイスはインテーク家の屋敷を訪れていた。執事とともにメルセも出迎え、応接室に案内した。
「よくいらした、ロイス殿」
快活な声で応じたのは、メルセの父、ヴィルヘルム・インテークだった。
「インテーク卿、お初にお目にかかります」
「君のことは娘から聞いているよ。さ、座ってくれ」
3人はそれぞれ、紅茶と焼き菓子が用意された席に着いた。ロイスはわずかに緊張しているように見えた。そのせいか、焼き菓子には手を付けない。
「それにしても、メルセがこんなにうれしそうにしているのを見るのは久しぶりですな」
「……もう! お父さま、余計なことをおっしゃらないで。デリカシーがありませんわよ」
メルセの言葉にインテーク卿が笑った。場を和ませようとする父親の気遣いだった。
「インテーク卿、お願いがあります」
ロイスが唐突に立ち上がった。
「なんなりと、ロイス殿」
「メルセと私の婚約をお許しいただきたく存じます」
インテーク卿はすぐには返事をしない。考えていた。前回の婚約のことを。娘のことを。しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「……ロイス殿、わしが決めることではない。メルセ本人に聞いてみてはいかがかな?」
「はい」
ロイスはメルセに向き直ると、息をゆっくりと深く吸った。
「メルセ、私と結婚してほしい」
メルセは父の顔をちらりと見てから、静かにうなずいた。
「……はい」
メルセはロイスをまっすぐ見ると、片目をつむってみせた。父親からは見えない。
実は、すでにロイスは婚約を申し込み、メルセもそれを受け入れていた。あとは父の承諾だけだったのだ。
◇ ◇ ◇
──澄んだ青空、軽やかに走る馬車が1台、いつものドライブを楽しんでいるメルセとロイスだった。
ロイスの馬車の後ろに、いつのまにか別の馬車が2台、追走している。そのうちの1台は、以前見かけたカールの馬車だ。
もう1台はカールの馬車仲間だろうか。競争しているようだった。2台はどことなく不穏な雰囲気を感じさせる。
「後ろの馬車、ずいぶん煽ってくるな、マーティン。先に行かせなさい」
ロイスは御者のマーティンに命じた。
「若さま、道幅が狭くて追い越させるのは無理ですよ」
「うーん、……そうだな」
しかし、カールの馬車はスピードを上げ、ロイスの馬車に並ぼうとする。
「強引に追い越す気か?」
「危ない! 若さま、このままじゃあ事故になりますよ」
「よし、マーティン、私が代わろう」
ロイスはキャビンから身を乗り出すと、御者台に座り、マーティンに代わって手綱を握る。マーティンはキャビンに引っ込んだ。
「ロイス様、この道は走ったことはおありなのですか?」
「いいや、初めてだよ。だが、やってみる」
メルセの問いにロイスは冷静に答えた。それを聞いてメルセもキャビンから飛び出すと、ロイスの横に座った。
「どうした? メルセ」
「私、この道はよく知っています。この先のコースがどうなっているかも」
カールは好んで領地内のこの道を走っていたからだ。メルセはその時のことを思い出した。
ロイスを先頭に、3台の馬車は狭い道を疾走する。
「ロイス様、次は右カーブです!」
メルセの指示で、ロイスは一瞬早く判断ができる。
「次は左です。気をつけて!」
やがて道幅が少し広くなると、カールはスピードを上げてロイスを追い越そうとする。2台は並走する。だが、道の先に岩があり、そのせいで道幅が狭くなって1台分しか通れない。
「あれは、落石でしょうか……。以前はありませんでしたわ」
だがカールの馬車は速度を緩めない。道をゆずる気はないようだ。
「ロイス様……このままじゃ、こっちがぶつかります……!」
このまま並走して走れば、ロイスの馬車は岩に激突する。後ろにはもう1台の馬車が迫り、止まることもできない。
「つかまれ! メルセ」
ぶつかる直前で馬が地面を蹴り、ロイスの馬車がジャンプした。車体が宙に浮き、岩を飛び超える一瞬、時間が止まった。
メルセはロイスにしっかりと抱きつき、着地にそなえて身を硬くしたが、意外にも衝撃は少なかった。特製のサスペンションのおかげだった。
着地後に停車すると、もう1台が追い越していった。カールたちはまだ追いかけっこを続けるつもりらしい。
メルセたちはその様子を眺めていた。
下り坂にさしかかると、スピードを出しすぎたカールの馬車は制御できずにいるようだった。
馬車のシャフトが悲鳴を上げる。カールは、軽量化と称してこのシャフト1本だけで馬と馬車を繋いでいた。
そして、オーバースピードでカーブを曲がろうとした時、シャフトがガシャンと音を立てて外れた。馬はそのまま走り去り、カールを乗せた車体だけがあさっての方向に走っていく。下り坂なのでスピードが落ちない。
運の悪いことに、その先には馬車の列があった。紋章の付いた旗が揺れている。
「あ……あの紋章は……」
「王族の馬車ですわ……!」
前後を護衛の馬車で挟まれた列のど真ん中に、カールは突っ込んだ。轟音と悲鳴、馬のいななきがメルセたちのところにまで届いた。
「大変だ……!」
メルセとロイスたちも、あわてて駆けつける。壊れた馬車を覗き込むと、乗っていたのは王女だった。
「姫さま、ご無事ですか!?」
メルセが馬車から王女を助け出す。突然のことに動揺しているが、どうやらケガはないようだ。
護衛たちが続々と駆け付ける。
「王女殿下、よくぞご無事で!」
「いったいどこの不届き物だ!? よくも姫君をこんな目に」
辺りを見回す護衛に、ロイスは少し離れた場所を指した。そこには、バラバラになった馬車とカールが横たわっている。
もう1人のカールの仲間は、とっくに逃げてしまっていた。
◇ ◇ ◇
後にメルセたちが社交界で耳にしたところによると、カールの突っ込んだ王族の馬車の値段は金貨1万枚だったとか。さらに、はずみで壊れた王女の王冠についた緑柱石は、1個でカールの馬車1台分の価値があるとのこと。
これらの莫大な賠償金により、カールは馬車に興じている余裕などなくなってしまった。
王女は軽傷、というより、あざが出来ただけであったが、王女を溺愛する国王は激怒したそうだ。国王の不興を買うと、もはやカールに社交界での居場所はなかった。
さらに、カールの事故が知れ渡ると、カールの馬車と同型の馬車に不具合があるといううわさが広まり、カタリスト家が出資している工房の馬車が売れなくなってしまった。
結果、カタリスト家は、赤字から多額の借金を抱えたという。なんでも、カールは借金を返すために貴族の地位も売ってしまったらしい。
──3か月後
メルセとロイスは結婚し、かねてから計画してあった通り、新婚旅行は馬車で各地をめぐることにしていた。
最初に訪れたのは、王都から遠く離れた都市、ポリスピアだった。石造りの建物が並び、大通りは人や馬車が行き交っていた。
「すてきな街ですわね、ロイス様」
「メルセは、ポリスピアは初めてかい?」
「はい」
メルセは楽しそうに窓から景色を眺めた。
「あ、あれはタクシー馬車ですわね?」
広場には何台かの馬車が並んで停まっている。
「そうだね。いやあ、さすが都会の馬車は立派だなあ」
「ロイス様、乗ってみたいです。よろしいですか?」
「もちろん。マーティン、ちょっと馬車を頼むよ」
2人は馬車を降りると、先頭のタクシー馬車に近づき、声をかけた。
「御者くん、2人だけど、いいかな?」
意外に御者は粗末な服装で、帽子を目深にかぶっていた。ロイスの声で目覚めたように顔を上げた。
「へい! 旦那、どうぞお乗りください。さ、奥さまも」
御者は卑屈に笑った。
その顔を見て、2人は驚きを隠せなかった。すっかり変わり果てていたが、それはあのカールであった。破産して借金を抱え、御者のアルバイトで食いつないでいるのだった。
カールは、メルセたちに気づいているのかいないのか、口上を続けた。
「へへ、旦那。どこへ行きましょうか。丁寧な運転をしますから、チップをはずんでくださいませんかね」
メルセとロイスは顔を見合わせ、ほほえんだ。メルセは首をかしげ、ロイスは肩をすくめる。
「じゃ、街を見たいから、適当に回ってもらおうかな。出してくれ」
馬車は都会の石畳の上を走りだした。蹄の音が響き、窓の外には街並みが流れていく。
「ロイス様」
「なんだい? メルセ」
「この馬車……すごく、乗り心地がよろしいですわね」
メルセはそっとロイスの肩に頭を寄せた。
馬車のせいで失った幸せが、馬車のおかげで彼女のすぐそばにあった。
(おわり)
お読みいただきありがとうございました。




