Children of Sanuma 〜はじめてのおつかい in summer〜
朱里の母は、朱里には小さい頃から努めて近所の店店へとおつかいに行かせた。
話ができないことを隠し立てすることなく、そのまま地域の方々に受け入れてもらえるように。親がいなくなっても、この町でちゃんと生きていけるように。議員を輩出する家柄として見栄やのプライドはそこにはなかった。それよりも朱里が将来一人でも生きていけるようにすることが肝要だった。
朱里も3歳から字が少しずつ書けるようになり、いつもポケットにはメモ帳とペンを入れていたので、いつでもどこでも簡単な意思疎通はできるし、見知らぬ大人たちも皆「ああ、あの鈴木先生のところのお孫さん」と可愛がってくれていたので、おつかいは好きだった。中でも一番好きだったおつかいは、パン屋へのおつかいである。
朱里の祖父はその年齢にしては珍しく朝にパンを食べたがったので、週に二、三度は食パンを買いにいく必要があったのである。
祖父に母が「こらあシェリーちゃん(注・朱里の愛称)がおつかいさ行って買ってきたパンだど」、と報告すると「どうりで格別うまいはずだべ!」と頭を撫でてくれて小遣いなんぞもくれるので、朱里はそれが嬉しいということもあった。でも一番うれしいのは「好きなパンがあったら買ってきていいど」と母から余分にお金を渡してもらえることだった。
朱里のお目当てはチェリーパイ。赤くてキラキラしたチェリーが載っているチェリーパイは、朱里の一等のお気に入りであった。
朱里は食が細いので、食事もなかなか進まないし、食べ残しも多い。しかしチェリーパイだと美味しそうにいつもきれいに完食したので、母は栄養バランスについては留意しつつも、朱里が美味しそうに食べる姿が嬉しく、おつかいのお駄賃代わりとしてチェリーパンの分のお金を上乗せして渡すのである。
朱里の家からパン屋までの道のりは、4歳の朱里の脚で十分程度であるが、途中に大地の家がある。
朱里の姿を見かけると、大地は決まって「しゅりー! どこさ行ぐんで?」と尋ねた。
朱里はそれをわかっていて、わざと大地の家の前をのんびり歩くこともある。大地の家をぼうっと眺めてみることもある。足を止めて帽子をかぶり直してみることもある。
朱里にとって大地は大切な大切な親友だった。大地はいつも元気だ。声も大きい。じっと目を見る癖があって、それで言葉を発しなくても思いを汲んでくれる。
今日も大地は庭に作ってもらったビニールプールの水を、思い切り零しながらばっしゃん、ばっしゃん、大暴れしている。
「くじらだべー!」両手を広げて飛び込む。
「イルカだべー!」水の中から飛び上がる。
「わにだべー!」アヒルのおもちゃをぷかぷか浮かせて遊んでいた大河を無理やり抱き抱えてプールに飛び込む(そして大河が泣く)。
そんな姿を見ると、朱里はなんだかわくわくした。
今日も大騒ぎしながらも、大地は朱里を見つけるとすぐに走ってやってきた。
「どごさ行ぐんで?」
朱里はパンの絵のついたエコバッグをぐい、と見せる。
「粉クリだな!」
粉とクリーム、地元では有名な老舗パン屋である。
「俺も行ぐから、ちっと待ってろ!」大地はさっさと家に戻ると、Tシャツに短パンを着て走ってくる。「母ちゃん! しゅりとおつかい行ってぐる!」
「はいよー、気つけでなー!」
二人は歩き出した。
「おつかいはいづものじいちゃんのパンか?」
朱里は頷く。ーーチェリーパイあるかな? 真っ赤なチェリーが載ったパイが脳裏に浮かぶ。
「おめのチェリーパイも、あるどいいな!」
朱里はぱっと笑顔になって大地を見つめた。大地とは心が繋がっている。言わなくても通じる。
大地は朱里の手を握って、大きく振りながら「おやつの時間だよ♪ アップルパイひとつ♪」と幼稚園で習ったお気に入りの童謡『アップルパイひとつ』を歌い出す。
大地がそばにいるだけで元気になる。大地はまるで太陽のよう。手を繋いでくれるし、おつかいが重くなったら代わりに持ってくれるし、虫だって魚だって何でも掴める。朱里は蝉は少し怖い。カブトムシははっきり、怖い。ブラックバスはもっと、怖い。
「ぼくたちみんなでふたり♪ 真ん中からはんぶんこ!」
童謡を一通り歌い終えて気が済むと、「帰りうぢ寄ってスイカ食うべ。さっきな、新宅のおばさん持っできてくれだんだ。母ちゃん冷やしてくれてっかんな」
朱里は頷く。
別にスイカが食べたいわけではない。ただ、大地と一緒にいられることがうれしいのである。
「うぢのスイカはカラスに突っつかれぢまって、だいなんだ。カラスもスイカ好きなんだべ。うめえかんな」
朱里はまた頷く。帰りは気を付けなければならない。チェリーパイは食べられたくないから。
パン屋に到着する。
大地は扉を開けて「こんにぢはー!」とご挨拶。
「いらっしゃいませ」
小さなお客の姿に思わず店員も笑顔になる。
「いい匂いだべ! ……じいちゃんのパンどごだべ?」
朱里はいつも母がやっているように入り口付近に積まれたトレイを取り、それから店内をきょろきょろ見回して、食パンを発見する。両手でそっと丁寧に持って、トレイに置き、それからガラスケースへと進む。
「チェリーパイあったべ!」大地が朱里の代わりに感嘆する。
朱里はそっと両手でチェリーパイの入った箱を取り出し、トレイに食パンと二つ並べた。それは完璧な造形だった。
そして大地の顔を見る。一緒についてきてくれた大地の分も買おう。大地が好きなのは、……さっきアップルパイの歌を歌っていたから、そうだ、アップルパイ!
朱里はチェリーパイの隣に置いてあったアップルパイの箱を取り、トレイに置く。三つパンが並んだ。おじいちゃんのぶんと、じぶんのぶんと、だいちのぶん。胸が温かくなる。
背伸びをしてトレイをレジに差し出す。
そしてお財布から千円札を一枚手渡す。
「ありがとうございました」
店員の声を背に、二人は店を出る。朱里は微笑みながらアップルパイの箱を大地に渡した。
「これ、くれんのが?」
うんうん、と笑顔で頷く。
「おだちんか? ありがとう! じゃあ、はんぶんこして食うべ! 真ん中からはんぶんこ!」
『アップルパイひとつ』を口ずさみながら大地は手にシロップが付くのもお構いなしにぎゅっとアップルパイを掴んで、半分に千切った。
「ほれ、しゅりはこっち。えがいほう呼ばれてくろ(注:大きい方を食べて)」
リンゴがはみ出たパイは、形こそ崩れているもののキラキラと輝いて朱里の目に映る。ほう、と思わずため息が出た。
大切そうに受け取って、一口かじる。
「うめ!」
大地が頬張ったまま、うふふと笑った。
「やっぱ粉クリだべ! どう考えてもうまいべ! たまげっちまう!」
朱里も思わず笑みをこぼす。
どうして大地とはんぶんこするとこんなに美味しいのだろう。手も洗っていないのに。ちゃんとお座りしてもいないのに。
二人は店先でぺろりとアップルパイを平らげると、
「おつかいはもうおしまいか?」
朱里は首を横に振る。
「柳屋さん(注:和菓子屋の名)か?」
再び首を振る。
「じゃあ、くりにんぐが?」
首を振る。
「どじょう屋(注・川魚屋の別称)さんか?」
首を振る。
「わがっだ! じゃあ、お肉屋さんだな!」
大きく頷く。
朱里のおつかいは大抵この五つのどれかなのである。それは、子どもの徒歩圏にあるのがこの五店だからである。
「お肉屋行ってんべ!」
大地は再び朱里の手を取って元気よく歩き出す。大地の手はアップルパイのせいでべたべたしていたが、いやな気はしなかった。
信号もなければ横断歩道もない。時折すれ違うのはヘルメット代わりにほっかむり一つ頭に載せて原チャリに乗ったばあちゃんや、畑へと向かうトラクターに威風堂々と乗ったじいちゃん。
「おお大ちゃん、朱里ちゃんと一緒にお散歩か?」そう、今日も農協印の帽子の凛々しいじいちゃんに声を掛けられ、
「おつかいだべ!」
大地が大声で答える。
「ほらあ、大したもんだべ」
大地はますます胸を張る。
「おお大ちゃん、今日ナスいっぱい取れたがら後で母ちゃんどこ、持ってぐなー」畑で農作業中のばあちゃんが腰を伸ばして声を上げる。
「ありがどー!」
道には新たな発見がいっぱいだ。大地は畑の端で巣作りに励むアリの行列を辿ったり、木の葉の後ろで休んでいる蝶を観察したり、せわしなくせわしなく歩いた。
「こういにひん曲がっちまったら売れねがら、うぢで食うんだ」ほとんどU字を描いたキュウリを発見して、大地はそう気の毒そうに朱里に呟いた。
「でも味は変わんね。ちゃんとうめえ。ばあちゃんにキュウリのきゅうちゃん作っでもらって、おれ、まいんち食ってんだ」
朱里にはキュウリのきゅうちゃんがなんなのかはよくわからない。でも大地が曲がったキュウリにも優しさを持っていることだけは伝わっている。
大地の講義は続く。
「あ、梨畑だべ」
網に覆われた低木の並んだところを目ざとく見つけて、大地は指さした。
「ちゃんと網かぶせてんな。あれも手間だけどな、そうしねどカラスに喰われっちゃうんだ。うぢもちゃんとかぶせてる。おれらが食う前に喰われぢまったらせやけっぺ(注・腹立つだろう)?」
朱里は神妙に頷く。
「おれ、大きくなったらでっけー梨作っがら、そしたらしゅりにも食わしてやっかんな?」
朱里は笑顔で頷く。
「でっけくするにはカラスに食われねえようにしなきゃなんねし、ちっちぇえ実は取っちまわねどいげねくって大変なんだべ! 蝉取りばっかしてるわげにはいがね」
そう言ったのは蝉取りばかりして虫かごをぎゅうぎゅう詰めにしたのを、母に昨日咎められたからだ。しかしそう語る大地の横顔はこの上なく凛々しいものとして朱里の目には映る。
やがて肉屋に着いた。
ドアを開けるが、誰もいない。どうしよう、朱里が困惑の表情を浮かべるや否や、
「こんにぢわー!」大地が絶叫する。
奥からおばさんが手を拭き拭き出て来た。
「あら大ちゃん朱里ちゃん、いらっしゃい」
朱里はほっとしてメモをレジ台に置く。肉屋のおばさんは大仰に目を丸くして見せた。
ーーころけ5こ
「あんれま! 上手な字だごど。こら、朱里ちゃん書いたのか?」
朱里は頷く。
「賢い子だべー。いぢばん上のあんちゃんより賢いな、こらあ(注・朱里の長兄は東大生)。……コロッケ5個ね、ありがとう。何コロッケにする?」
そこは朱里に任されている。
「今日はねえ、肉じゃがにカレーにお野菜、チーズに蟹もあるよ」
朱里は目を瞬かせてメモに文字を書いた。
ーーぜんぶ
「あはは、それがいいべ! じゃあ、全部1個ずつ。みんなでどれにすっか相談して食べな。どれもうんめえがら」
おばさんはコロッケを一つ一つ紙で包み、袋に入れると朱里に差し出した。
朱里は大切そうに受け取る。ずっしりと重い。
「おれが持ってやる」大地は笑顔で袋を抱き抱えた。
「あらー、大ちゃん優しいごど。……そうだ、今日は二人ともお使い頑張ったから、一つずつコロッケあげっから。食べながら帰りな」
そう言って二人分のコロッケを差し出す。
「ありがとう!」大地が大きな声で言って、その隣で朱里はにこりと微笑みお辞儀をする。
「気を付けて帰んな」
「うん! ばいばい!」
大地と朱里はコロッケを食べながら来た道を戻っていく。ほんのりと甘い野菜コロッケ。とうもろこしも入っている。
「うんめ! ……うんめえな?」
朱里は頷く。大地と同じ味を大地と一緒に味わっているのが、とても素晴らしいことのように思える。
防災スピーカーからお昼のチャイムが鳴る。遠くから、砂沼サンビーチで楽し気に騒いでいる声が聞こえてくる。この風景を、大人になっても忘れたくないとふと朱里は思う。
「今度おつかい行ぐ時もおれんち寄ってからにしろよ? おめの代わりに『こんにちは』って言ってやっから」大地は得意である。「あどな、重いのも持ってやっから」
大地は「およめさんにしてね」、と前に手紙に書いて渡したことを覚えているのだろうか。およめさんだと思っているから優しくしてくれるのだろうか。
そんなことを考えながら、大地の家へと戻る。
「ただいま、母ちゃん! スイカ冷えたがー?」
大地の母は台所から「いいあんべ(注:塩梅)だべ」と答える。「朱里ちゃんおづかいできたのが?」
「できた!」大地が答える。
庭でプール遊びをしていた大河もやってきて、縁側に三人並びスイカを待つ。その間、朱里は大地から今日採ったばかりのカブトムシを見せられ、講釈を受ける。
「こいづ、今朝父ちゃんと八幡神社で採って来たやづ。でっけくってかっこいいべ!」
そう言って大地は、ケースからカブトムシをつまみ、眩しいような顔をして高々と掲げた。脚がバタバタと動いた。朱里は神妙に頷く。
「昨日の夜あの、神社の真ん中にあるでっけえ木のどごにハチミツさ塗ってきでな、今日朝行っだらな、虫いっぺえたかってたんだ。こーんなに! クワガタもいた! あと、……なんだかわかんねえこういう黒い虫もいっぱいいだ! でもそういうのは取ってこねがった。……カブトムシはな、スイカの皮んとここん中入れといてやると食うんだ。食い終わったらここ、入れんだど? ポイしちゃだいだ」
再び朱里は頷く。
すぐに三人の前には麦茶とスイカが出された。
「はいどうぞ」
「うわあ」と言って、大地は二人にスイカを渡しつつ、すぐにかぶりつく。「甘い!」
朱里も同じくかぶりつく。大地の母の顔を笑顔で見上げる。
「甘いか?」
朱里は頷く。
「よぐ冷えてうまかっぺ」
今日はアップルパイを食べ、コロッケを食べ、そしてスイカを食べてもうお腹はとうにくちている。いつもだったらこんなには食べられないのに、大地といると何でも美味しく食べられてしまうのはなぜだろう。それは大地が王子様だからに違いない。朱里はじっとスイカを食いながら、頬っぺたまでスイカの汁で赤く染めた大地の顔を見つめた。
「朱里も大河も、食い終わったらカブトムシのご飯にすっかんな。ここさ入れろ」
「カブトムシもほっだに喰えねえべよ」母は呆れたように言う。
「食う! おれのカブトは食う! かっけえもん! かっけえやづはいっぺえ食うんだ!」
そう言って大地はもう一つスイカを手に取った。
ーーなんでもない日。
このなんでもない日の思い出を、朱里は大切な宝物としてずっと心の中に持ち続けている。
二十歳になった大地はリビングのテレビで、夕飯を食べながら「はじめてのおつかい」なる番組を見ている。四歳の女の子が道端で転んで泣きながら、それでも必死に店に向かっているのである。
「大したもんだっぺ! この子たった四歳で泣きべそかきながらおつかい頑張ってんだど!」
妻となった朱里が、その隣で目を細めて同じ画面を見つめる。そしてふと思い立ち、メモを書いた。
ーー昔おつかいにつきそってくれてたの覚えてる?
一瞬、大地はきょとんとしたが、「ああ、もちろんだっぺ!」と言って膝を叩いた。
ーーパン、コロッケ、お花
朱里はくすくす笑いながら書く。
「ほだほだ! おめ、幼稚園の頃っからしょっちゅうしょっちゅうおつかいお手伝いしてたな。この子にも負けねえ立派なガキだったべー」
ーー大地がお店であいさつしてくれて、にもつ持ってくれてうれしかった
「おれはたーだついてったばっかりだべ。なんだか、おめのごど放っておげなぐでな」
照れたように言う。
ーーあの時から王子様だと思ってた。
「ほっだらごどねえべよ。それよがおめが、四歳でしっかり字書いて、お買い物できで、あらあ大したもんだなあって思ってだ」
朱里はくすくすと笑う。
ーーこの前柳屋さん(注:和菓子屋の名)行ったら、むかーし私が書いたメモ見せられた。「みずよかん10こ」って。
「あははは!」大地は箸をおいて哄笑する。
ーー笑いごとじゃない
困ったように苦笑する。
「おめ、地元のみんなに愛されてんだよ。喋れねぐってもちゃんと自分の力で伝えようって思ってっから。気持ちが伝わってんだ。でもそらよお、母ちゃんがそういう育て方してくれたからだっぺ。母ちゃん、おめのごどちゃんと地元で生活さできるようにって思って、地元のみんなに喋れねごども、でも字ちゃんと書けで気持ち伝えることはできますっつうどごを、ちゃあんと全部隠し立てねぐ知ってもらうべって思って、そんでおつかいしょっちゅう行がせてたんでねえのが?」
朱里は目を瞬かせる。
ーー考えたことなかった
「おめんち夏休み、昼コロッケばっか食ってたっぺ」
ーーたしかに
「お肉屋のコロッケたしかにうんめえけど、おめの母ちゃんもあんちゃんも、そこまでまいんち食う程コロッケ好きでねえど思うんだけど……」
たしかに。頷く。
ーー今度ママに聞いてみる
「別に聞かねぐたっていいべよ。おめは母ちゃんにも地元の人らにも大切に大切に、思われてんだ。それだけだべ」
朱里は地元にいると、体の隅々まで行き渡るような呼吸ができるように感じる。その要因がはっきり今、わかったような気がした。東京の大学で学び、東京のライブハウスで必死にステージをこなしていても、地元に帰ってくると体も心もすっかり弛緩して頭がぱっとクリアになるように感じるのは、決して思い込みではなかった。ここでは家族も、地元の人たちも、みんながみんな、話のできない、男として生まれながら女として生きたがった自分を、そのまんまの姿で受け止めてくれる。大切にしてくれる。そうして自分は大人になった。大人に、なれた。だからこそ今の自分がここに、いる。
ーーありがとうっていいたい
「言ってっぺな。おめの音楽、おめのギター、何が何でもここで生きでえって、人間が大好きだってちゃんと言ってら」
朱里は涙ぐんだ目で笑った。




