第5話:毒蛇の誘い(ハニー・トラップ・マネー)
「……これ、全部頂けるんですか?」
千尋の指先が、テーブルに置かれた分厚い封筒に触れた。
窓のないマンションの一室。安っぽい芳香剤の匂いに混じって、教育ジャーナリストと名乗る男の、脂ぎった呼吸音が耳にこびりつく。
「ああ、全部君のものだ。……君の苦労に比べれば、安いものだよ」
男の手が、千尋の肩に触れる。這いずるような不快感。
千尋は、その手を振り払うことができなかった。
彼女の脳裏にあったのは、病院のベッドで小さく丸まった祖母の背中だ。
(……これだけあれば。おばあちゃんに、美味しいものを。……私、これくらい我慢できる。私なんて、最初からこの程度の価値しかないんだから)
自虐が、彼女の唯一の防衛線だった。
「……さあ、脱ぎなさい。君が受けた『傷』を、記録に残さなきゃならないんだ」
カメラのレンズが、銃口のように自分を狙う。
千尋が震える手で制服のリボンを解こうとした、その時だった。
――ズゥン!!
地響きのような衝撃とともに、鉄製のドアが蝶番ごとねじ切られ、床に転がった。
「……うるさくてよ、野良犬。その不細工な喘ぎ声、広島の海に沈めて差し上げましょうか?」
舞い上がる埃を扇子で払いながら、九条院麗華がそこに立っていた。
その横には、氷のように冷たい瞳をした河野さくらが、慣れた手つきでスタンガンを起動させている。
「なっ、何だお前ら! 不法……!」
「お黙んなさい。三流が声を出すと、大気が汚れますわ」
麗華は男を一瞥もせず、千尋の前に歩み寄った。そして、テーブルの封筒を扇子で弾き飛ばした。
床に散らばったのは、粗悪な印刷が施された、ただの紙屑。
「……っ! 嘘……嘘、よね?」
千尋が膝をつき、紙屑を掻き集める。
「これが、あなたの値段ですわ。千尋さん。……あなたは、このゴミと引き換えに、自分の魂を安売りしようとした。……違いますか?」
「だ、だって……私には、これしかないから! 才能もない、家も貧乏。……私には、これくらいしか……!」
千尋の叫びを、麗華の平手が遮った。
乾いた音が、静かな室内に響く。
「……自分の価値を、他人の物差しで測るのをやめなさい。あなたが貯めていた小銭の重みは、あなたの『生きようとする意志』の重さだったはず。……それを、こんなゴミで汚すなんて。私に対する、最大の侮辱ですわ」
麗華は千尋の顎をくいと持ち上げた。
「私がお貸ししますわ。……あなたの祖母が必要とする全ての費用。そして、あなたがこれから手に入れる、本物の『富』への授業料。……ただし、利子は高くつきますわよ?」
麗華はさくらに目配せをした。さくらが無言で踏み込み、のたうち回る男のハードディスクを物理的に粉砕する。
「千尋。……立てる?」
さくらが、震える千尋に手を差し伸べた。
「……私もね、先生に同じこと言われた。……私たちは、もう『駒』じゃない。自分の足で、地獄を歩くレディなんだよ」
千尋は、さくらの手を強く握りしめた。
床に散らばった偽札は、もはやただの紙屑にしか見えなかった。
翌朝。
教室の扉を開けた千尋の背筋は、定規を当てたように真っ直ぐだった。
「九条院先生。……2年B組の『裏帳簿』、整理が終わりました。誰がどの業者と繋がり、誰の親がいくら寄付金を着服しているか。……すべて、ここに」
千尋が差し出したのは、彼女がこれまで培ってきた「情報の網」の集大成。
「あら、随分と良い仕事。……利子の第一回分として、受け取っておきますわ」
麗華は扇子を広げ、不敵に微笑んだ。
「さて、みなさん。……ゴミ掃除の時間は終わりです。これより、この学園を『更地』にするための、真の統治を開始いたしますわよ」




