第35話:『明日への願書(ラスト・アプリケーション)』
窓の外、岡山の空は抜けるように青い。
藤ヶ峰高校の進路指導室。机の上には、全国の名だたる大学の名が並ぶ「願書」が、整然と積み上げられていた。
プラチナの生徒たちが、自身のスコアを「確実な未来」へと換金していく中、アイアン・クラスの保は、白紙の書類を前に立ち尽くしていた。
「……先生。俺、これ、出しません」
保の声は、震えていた。しかし、その瞳にはかつての怯えはない。
「受験はやめます。……俺、就職します。……地元で、すぐ働ける場所を探します」
進路指導の教師が、驚愕で眼鏡を落とした。
「何を言っているんだ保! 君の今のスコアなら、地方の国立だって狙えるんだぞ! 雪乃さんのこともある。学歴がなければ、家族を養うことなど……!」
「お黙んなさい」
麗華の声が、室内の動揺を断ち切った。
彼女は、扇子で保の肩をそっと叩き、真っ直ぐに彼の目を見つめた。
「……保さん。……その決断、不細工な『諦め』ではありませんわね?」
「……違います、先生。……雪乃のお腹、もうあんなに大きいんです。……あと一ヶ月で、俺は『父親』になる。……大学で四年間、親の金でモラトリアムを貪る暇なんて、俺にはない。……俺は、今すぐこの手で、二人を食わせる力が欲しいんです」
保の言葉は、F高が重んじる「将来の期待値」という数字を、一瞬で叩き潰した。
そこに宿るのは、綺麗事ではない、土の匂いのする**「覚悟」**。
「……ほう。……ええ顔になりましたわね、保さん」
麗華の広島弁が、慈愛を伴って響く。
「おんどれ、ええか。……学歴いうんは、ただの飾りに過ぎん。……じゃが、働きに出るいうんは、社会という名の『巨大な戦場』に、裸一貫で飛び込むいうことじゃ。……その戦場で、あんたはどんな『王』になるつもりなん?」
「……俺は、世界一泥臭い、でも、雪乃と子供が一番安心して眠れる場所を作る『王』になります」
麗華は、優雅に扇子を広げた。
「……よろしい。……ならば、その『就職希望届』こそが、あなたにとっての最高ランクの願書ですわ。……ただし、中途半端な職場など、この私が許しませんわよ。……加藤さん、準備はよろしいかしら?」
扉の影で、履歴書を丸めて持っていた加藤が、ニヤリと笑って現れた。
「……へっ。……俺の知り合いの、広島の建設会社の社長に話は通してあるぜ。……あそこはキツいぞ、保。……『女王の庭』の過酷な草むしりに耐えた根性がなきゃ、三日で音を上げる」
「……望むところだ!」
保が、白紙の願書を力強くゴミ箱へ捨て、加藤から渡された求人票を握りしめた。
しかし、その光景を廊下の監視カメラ越しに見ていた雅人が、冷酷な指先でスマホを操作した。
『――ふん。……感動的な茶番ですね。……ですが、保君。……君が就職しようとしているその会社、一時間後に「九条院不動産」による合併・解散を決定しました。……お姉様、あなたの「守ろうとする未来」は、すべて私の手のひらで握りつぶせるのですよ』
女王の庇護vs本家の殲滅。
保の「新しい命への誓い」が、九条院家の巨大な資本力によって、無惨に踏みにじられようとしていた。




