第20話:傷跡の証明(エビデンス・オブ・ペイン)
放課後の無人の武道場。
西日が差し込み、埃が光の粒となって舞う中、麗華と戌亥は数メートルの距離を置いて対峙していた。
戌亥の呼吸は荒く、その手袋をしていない拳からは、先ほど壁を殴りつけた際の血が滴っている。
「……更生だぁ? 説教だぁ? 虫酸が走るんだよ」
戌亥が自嘲気味に笑い、特攻服を脱ぎ捨てた。
露わになったその背中と腕には、無数の「不細工な傷跡」が刻まれていた。それは刃物によるもの、根性焼きの跡、そして……幼い頃に受けたであろう、熱水による火傷の痕。
「見てみろよ、これが俺の『履歴書』だ。親にはゴミのように扱われ、社会には『不良品』だと弾き出された。……この傷がある限り、俺の人生はどこへ行っても泥の中なんだよ!」
戌亥の叫びは、魂の慟哭だった。
彼は、自らの体を呪いの象徴として差し出し、麗華の「気高さ」を否定しようとした。
だが、麗華は表情一つ変えず、ゆっくりと戌亥へ歩み寄った。
「……ほう。それが、あなたの誇るべき『勲章』ですのね」
「……勲章だぁ? ふざけんな、これは汚点だ! 消えることのない、一生の恥だ!」
麗華は止まらない。戌亥がナイフを構え直すのも構わず、その間合いへと踏み込んだ。
パァン!!
麗華の扇子が、戌亥の構えた腕を鋭く叩く。ナイフが床に落ち、乾いた音を立てた。
驚愕する戌亥の胸ぐらを、麗華は細い、しかし鉄のような力を持つ指先で掴み、引き寄せた。
「おんどれ、ええか」
至近距離で放たれる、広島弁の重圧。
「……傷があるけぇダメなんじゃない。その傷を『恥』思うとるその根性が、一番不細工なんじゃ!」
麗華は戌亥の背中の傷跡を、汚れ一つない手袋越しに、慈しむように、しかし強く撫で上げた。
「……この火傷も、この切り傷も、あなたが地獄のような日々を『生き抜いた』という、何よりの証明ではありませんか。……死なずに、腐らずに、今日までその命を繋いできた。……それは、そこいらの生温いガキ共には一生手に入らん、極上の『キャリア』ですわよ」
「……な、何を……」
「不細工な過去など、この世に一つもありません。……あるのは、過去を『言い訳』にして、今を汚しとる弱虫だけじゃ」
麗華は戌亥を突き放し、優雅に扇子を広げた。
「戌亥さん。……その傷跡を隠して吠え回るのは、今日でおよしなさい。……明日からは、その傷を『自分を律する盾』に変えなさいな。……九条院麗華の庭で、傷物として卑屈に咲くことは、私が許しませんわ」
戌亥の瞳から、初めて「虚無」が消えた。
代わりになだれ込んできたのは、生まれて初めて誰かに「生きていたこと」を肯定された、耐え難いほどの熱い感情。
彼は膝をつき、武道場の床に拳を叩きつけ、声を殺して泣いた。
「……う、あぁ……あぁぁぁ……!!」
麗華はそれ以上何も言わず、日傘を差して武道場を後にした。
廊下には、いつの間にか状況を見守っていた堂島や不破、そして岩木の姿があった。
彼らは、自分たちの「狂犬」が、一人の女性の言葉によって「人間」へと戻っていく光景を、息を呑んで見つめていた。
「……さて。不細工な泣き言は、夕陽と共に沈めてしまいなさい。……明日は、T校の『美化作業』ですわよ。……まずは、その汚れた特攻服から、雑巾に仕立て直して差し上げましょうか?」
女王の統治は、ついにT校の最深部まで到達した。
だが、平穏は長くは続かない。
麗華のスマホが鳴る。発信者は、千尋。
『――先生。……九条院家本家から、広島の全教育機関に「命令」が出ました。……先生を、この地から完全に抹殺する、公式な「粛清」ですわ』




