第2話:共倒れのワルツ
第2話:共倒れのワルツ
「……市川さん。あなたの秘密、大切にお預かりしています。明日はよろしくお願いしますね」
深夜一時。市川真由のスマートフォンの画面が、暗い自室で白く光った。
送信者は、河野さくら。
真由の指先が、凍りついたように止まる。添付された画像には、彼女が長年、誰にも言えない毒を吐き散らしてきた裏アカウントのトップ画面が映っていた。
真由の喉が、ヒュッと鳴る。
彼女にとって、学級委員という「清潔な仮面」を維持するための代償が、そのドロドロとした言葉の排泄場所だった。それが暴かれることは、彼女の社会的な死、そして、教育に厳しい両親からの絶交を意味する。
「……やるしかない。やるしかないのよ」
真由は震える手で、安芸奈々美から届いた「指示書」を握りしめた。
翌日、二時間目の休み時間。
教室に、真由の計算し尽くされた悲鳴が響き渡った。
「学級費の封筒が、ないわ!」
教壇には、九条院麗華が立っていた。彼女は手にした扇子をゆっくりと閉じ、その先端で教卓をトントンと叩く。
「市川さん。騒々しいですわね。あなたの管理不足ではありませんの?」
「すみません……でも、でも! さっきまでここにあったんです!」
真由の視線が、窓際のさくらへと向けられる。それは合図だった。
中央に座る奈々美が、獲物を追い詰める愉悦を隠そうともせずに立ち上がる。
「市川さん、あんまり自分を責めんでええよ。……ねえ、みんな。河野さんが、さっき市川さんの席をじっと見よったん、誰か見とらんかった?」
クラス中の視線が、さくらに突き刺さる。冷たく、粘り気のある、集団心理という名の暴力。
「河野さん、鞄を見せて。疑いを晴らすために」
真由が震える足取りでさくらに近づく。さくらは無言で、ボロボロのナイロン鞄を差し出した。
真由がその中に手を突っ込む。
――昨夜、麗華に指示された通り、さくらの鞄の底には、真由自身の手で「証拠」を忍ばせておいた。
指先に触れる、茶封筒の感触。
真由はそれを引き出し、高く掲げた。
「……あった。河野さんの、教科書の間に……」
瞬間、教室は嘲笑と罵詈雑言の嵐に包まれた。
「泥棒!」「親も親なら子も子じゃね!」「お好み焼き屋なんか潰れろ!」
その嵐のただ中で、奈々美が麗華を見つめ、勝ち誇ったように笑う。
「先生。これが、あんたが庇った女の正体よ。……広島の恥、学園のゴミ。ねえ、今どんな気持ち?」
麗華は動かない。ただ、さくらの顔をじっと見つめている。
さくらは俯いていた。その肩が微かに震えている。
だが、その震えは、真由が知っている「恐怖」のものではなかった。
「……ふふっ」
低く、地這うような笑い。
さくらがゆっくりと顔を上げた。その瞳に宿っていたのは、奈々美さえも気圧されるような、濁った、しかし強靭な「意志」だった。
「市川さん。……その封筒の中身、今ここで確認してもらえますか?」
「え……? ああ、わかったわよ。そんなの、お金に決まって……」
真由が封筒を開け、中身を机の上にぶちまけた。
パラパラと落ちてきたのは、一万円札ではない。
それは、安芸重工のロゴが入ったメモ用紙――そこに記されていたのは、あまりにも無邪気で、あまりにも残酷な、奈々美の自筆だった。
『市川さんへ。学級費は私が抜いた。あんたは河野の鞄にこれを入れなさい。バレても親が揉み消すから。言うこと聞かんかったら、あんたの裏垢、親に送るけ。 奈々美』
教室内から、引き潮のように音が消えた。
奈々美の顔が、瞬時に土気色へと変わる。
「……な、何よそれ! 知らない! 私、そんなの書いてない!」
「あら。安芸重工の特注メモ。この学園でこれを使えるのは、理事長のご親族だけではなくて?」
麗華が流れるような所作で歩み寄り、メモを拾い上げた。
「そして、市川さん。……昨夜、私の元に届いた『自白』の録音データによれば、あなたは奈々美さんに脅されてこの計画に加担した……そう仰いましたわね?」
真由の心臓が止まりかけた。昨夜、さくらから届いたメッセージ。
『市川さん。先生にすべて話しなさい。そうすれば、あなたの秘密は守ってあげる』
真由はそれに縋ったのだ。さくらを売る代わりに、自分が助かる道を選んだ。
「そ、そうです! 私、奈々美さんに無理やり……! 裏垢をバラすって脅されて……!」
真由の叫びが、教室に響く。
その瞬間、クラスメイトたちの視線が、奈々美へと向けられた。「女王」から「容疑者」への転落。
奈々美は、震える唇を噛み締め、真由に掴みかかった。
「この裏切りもんが! 誰のおかげで委員長になれたと思っとんね! この、SNS中毒の嘘つき女!」
「うるさい! あんたなんか、親の七光りがなかったら、ただの性格の悪いブスじゃない!」
床に転がり、髪を振り乱して取っ組み合う二人。
上品に整えられた制服が泥に汚れ、剥き出しの広島弁が飛び交う。
その醜悪な光景を、さくらは無表情で見つめていた。
昨日の自分を嘲笑った連中が、今は自分たちの醜さを晒し合っている。
スカッとするはずだった。なのに、さくらの胸にあるのは、吐き気を伴うような、虚無感だった。
「ごらんなさい、河野さん」
麗華が、さくらの肩に手を置いた。その指先は、驚くほど冷たい。
「これが、美学を持たぬ者の末路。……共倒れのワルツですわ」
麗華は扇子を「パァン!」と鳴らし、室内を静粛させた。
「さて。市川さん、奈々美さん。……私は、嘘つきが大嫌いです。そして、『約束を破る者』は万死に値すると思っています」
麗華はタブレットを操作した。
「市川さん。あなたが奈々美さんを売れば秘密を守る……というさくらさんとの約束。……あれは、さくらさん個人の約束であり、私の知ったことではありませんわ」
「え……?」
「今この瞬間、あなたの裏アカウントのログは、学園の掲示板と、あなたのご両親のメールアドレスへ送信いたしました」
「……あああああっ!」
真由が絶叫し、床に突っ伏した。彼女の「世界」が、音を立てて崩壊していく。
麗華はそれを一瞥もせず、今度はガタガタと震える奈々美を、ゴミを見るような目で見下ろした。
「安芸さん。お父様への報告は、私から直接行いますわ。……あなたのこの、安っぽい『粛清』が、安芸重工の株価にどれほどの損害を与えるか。楽しみにしておきなさい」
教室は、死の静寂に包まれた。
放課後。準備室で、麗華はさくらにアールグレイを差し出した。
さくらの手は、まだ震えていた。
「……先生。私、これで良かったんでしょうか」
「良かったか、悪かったか。それを決めるのは、勝利した者だけが持てる特権ですわ」
麗華は、震えるさくらの手を、自分の白い手で上から静かに押さえた。
「……痛いでしょう? 誰かを踏みにじる感触は」
さくらは、麗華の顔を見上げた。
そこには、いつもの冷徹な仮面ではなく、ほんの一瞬だけ、同じ地獄を見てきた者だけが共有する、深い、深い悲しみの色が混じっていた。
「その痛みこそが、あなたが『人間』である証ですわ。……泣きなさい、さくらさん。涙を流した分だけ、あなたの盾は強くなる」
さくらは、麗華の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
窓の外、広島の空は、血のような夕焼けに染まっていた。
泥の中に咲く薔薇は、まだ蕾のまま、激しい雨を待っている。




