第1話:泥に咲く薔薇、泥を蹴る令嬢
第1話:泥に咲く薔薇、泥を蹴る令嬢
九月の広島は、肌に張り付くような湿り気を帯びている。
路面電車が軋む音、遠くで鳴る工場の汽笛。活気に満ちた街の呼吸から切り離されたように、私立安芸学園高等部2年B組の教室だけが、酸素の薄い水槽へと変わっていた。
河野さくらは、その水底で、自分の爪先だけを見つめていた。
机に刻まれた「シネ」の三文字。それは彫刻刀で丁寧に、執拗に刻まれている。昨日まではマジックだった。今日からは、消すことのできない物理的な傷だ。
教室には、笑い声が満ちている。
「ねえ、昨日送った動画見た?」
「ウケる、マジで最高」
その輪の中心にいる安芸奈々美の、鈴を転がすような笑い声が、さくらの鼓膜を針のように刺す。誰もさくらを見ない。視界の端から、彼女という存在を丁寧に、外科手術のような正確さで切り取っている。
暴力よりも残酷な、徹底した「無視」。それは、さくらがこの教室で呼吸することを、誰も許可していないという証だった。
その沈黙の檻を、乾いた音が破った。
――パァン。
心臓が跳ねた。顔を上げると、教壇には一人の女が立っていた。
漆黒のスーツに身を包んだ、現実離れした美貌。夜会巻きに結い上げた黒髪が、外光を弾いて青白く光っている。彼女は、紫の漆が塗られた扇子を教卓に置き、ゆっくりと室内を「検品」するように眺めた。
「……酸い匂いがしますわね」
凛とした声が、澱んだ空気を切り裂く。
「お好み焼きの食べ残しを、真夏のゴミ捨て場に三日放置したような、卑屈で、醜悪で、腐りきった臭い。……鼻が曲がりそうですわ」
静まり返る教室。
最初に動いたのは、女王・奈々美だった。彼女はゆっくりと背もたれに身を預け、憐れむような笑みを浮かべる。
「先生、転勤初日から飛ばしすぎですよ。広島の空気に馴染めんかったんですか? 郷に入れば郷に従え。このクラスの『普通』を乱すんは、あまりお勧めしませんけど」
奈々美の言葉は、安芸重工という巨大な背景を背負った「命令」だ。クラスの空気が、一気に教師を敵と見なして凝固する。
しかし、九条院麗華は動じない。
彼女は教壇を降り、一歩、また一歩と、奈々美の元へ歩み寄る。高価なハイヒールの音が、静まり返った床に冷たく響く。
麗華は、奈々美の机に指先を這わせた。
「『普通』……? 随分と安っぽい言葉をお使いになりますのね。お父様の代でようやく形になった成金企業の令嬢が、貴族の真似事で社交界ごっこかしら。滑稽ですわ」
「……なんですって?」
「あなたのやっていることは、統治ではない。ただの『掃除』ですわ。気に入らないゴミを掃き溜めに追いやるだけの、稚拙で、創造性の欠片もない作業。安芸の名が泣きますわね。……私なら、もっと美しく、残酷に、この教室を支配してみせますけれど」
麗華の視線が、射抜くように奈々美を捉えた。
奈々美の瞳に、初めて狼狽が走る。自分のアイデンティティである「家」を、ここまで正面から踏みにじられた経験がなかったのだ。
麗華はそのまま、窓際で震えるさくらの前へ移動した。
机の傷。汚れ。そして、生気を失ったさくらの瞳。
「河野さくらさん」
「……っ」
「その傷、愛おしいかしら?」
予想外の問いに、さくらが顔を上げる。
「……え?」
「誰もがあなたを無視する中で、その『シネ』という文字だけが、あなたを認識している。だからあなたは、その傷にしがみついている。……違いますか?」
心臓を素手で掴まれたような衝撃だった。
さくらは、自分が被害者であることで、辛うじてこの教室に繋ぎ止められているのだと、この女は見抜いている。
「跪いて、嵐が過ぎ去るのを待つのは家畜の処世術ですわ。……でも、あなたは人間でしょう? 泥を投げられたのなら、その泥を固めて、相手の喉元を突き刺す弾丸になさいな。淑女なら、涙は武器を磨くために流すものですわ」
麗華は扇子を広げ、さくらの視界を塞ぐように掲げた。
「選びなさい。このまま泥の中で窒息するか。それとも、泥を蹴り上げ、私と共に地獄を踊るか」
さくらの視界に、麗華の緋色の瞳が映る。
それは救いなどではない。もっと過酷な、戦いへの招待状だった。
けれど、さくらの胸の奥、冷え切っていた場所に、小さな火が灯った。それは怒りですらなく、ただ「私を見てほしい」という、ひりつくような渇望だった。
「……教えて、ください」
震える声が、空気を震わせる。
「私、もう……透明なまま死ぬんは、嫌なんです。……やり返したい。この街の、熱い風を……もう一度、笑って吸いたいんです」
麗華の口元が、微かに、残酷なほど美しく吊り上がった。
「よろしい。……その覚悟、買い取って差し上げますわ」
麗華は教壇に戻り、折れんばかりの力で黒板に名を刻んだ。
――九条院麗華。
それは、この閉塞した箱庭に打ち込まれた、最初の楔だった。
放課後。準備室に呼び出されたさくらの前に、麗華は一つのティーカップを置いた。
湯気と共に立ち昇る、アールグレイの香り。それは、さくらが知る安っぽいティーバッグの匂いとは、決定的に違っていた。
「座りなさい。……明日、安芸奈々美はあなたの私物をすべて廃棄するでしょう。彼女の底は見えています」
「えっ……そんな……」
「喜びなさい。それは、あなたが彼女の脅威になった証拠。……河野さん、明日はわざと、一番大切なものを持ってきなさい。そして、それを彼女の目の前で捨てさせるのです」
麗華の瞳が、夕陽に染まって燃えるように輝く。
「奪われる痛みを、勝利へのガソリンに変える方法。……まずはそこから、始めて差し上げますわ」
さくらは、震える手でカップを取った。
熱い紅茶が喉を通る。それは、数ヶ月ぶりに感じた、自分の体の「熱」だった。
窓の外、広島の街を赤く染める夕陽は、昨日よりもずっと、激しく、痛々しく、そして美しかった




