4.目覚めの刻(とき)
シンデレラは、いつの間にか湯殿へ流れ込んでいる湯が止まっていることに気が付いた。これは湯が送られなくなっているという意味ではなく、文字通り静止してしまっており、この場の時間が動いていないことを示している。
「まさか!? おばあ様は時間を止めることができるのですか? こんな摩訶不思議な出来事がこの世にあるなんて思いもしていませんでした」
「なあに簡単なことじゃ。わしは『刻の魔女』、名の通り時をつかさどる存在なのじゃよ。と言っても巻き戻すことはできず、これから起こる出来事を見通すことと時間を止めることにあと少々の魔法が使える程度じゃがな」
「十分すごいことではありませんか! そんな魔女様がわたしになにを望むと言うのです? どんな願いも自分で叶えられそうに思えるのですけど?」
「おぬしはなにも覚えていないのだろうが、今のままではなかなか身が入らないと思うからのう。せっかく幸せな生活を手に入れたところをぶち壊すようで心苦しい面はあるが、これも世界のためじゃ。勘弁してもらおうかの」
「いったい何のことでしょう。申し訳ありませんが、魔女様と違いわたしはあまり賢くないようです。今少しわかりやすく教えていただけますか?」
「ひっひっひ、実はな? おぬしはすでに死んでいるんじゃよ。おっと、驚くのも無理はない。そんな自覚があれば今こうしてのんきに湯を浴びることはないじゃろうて。だがこれは事実なのじゃ」
「ではいったいわたしはどうやって今生きているのでしょう。現にここにいるのですから信じろと言うほうが無理だと思います……」
「夜会の直前を覚えておるか? そう、あの姉妹に突き飛ばされ気を失った時のことじゃよ。実はあの時おぬしは命を落としている。まああわてるでない。ならばなぜ今こうして生きているのかということじゃろう?」
シンデレラは刻の魔女が告げる言葉を信じることができず、動揺しながらうなずいた。念のため自分の胸に手を当ててみるが、そこにはしっかりと鼓動が感じられる。
「その前にもう少しわしのことを説明せねばなるまい。先ほどわしは時をつかさどると言ったな? それはこの世界、わしらはファンタジアースと呼んでおるんじゃが、それ以外の世界にも行き来しておるのじゃ」
「この世界? ナルオー国以外の場所があるのですか?」
「国ではない。世界そのものじゃよ。おぬしは考えたこともないかもしれぬが、ファンタジアースにはナルオーだけでなくほかの国もあるのじゃぞ? それは今関係ないが、とにかくほかの世界のひとつにアースと言う世界があるのじゃ。時を同じくしてそこでもひとりの優秀な者が命を落とすところじゃった」
「そんな偶然が…… でもいったいわたしと何の関係があるのですか? その方のことも甦らせたとかそういうお話でしょうか」
「ふむ、おおむねそのようなことだがちと異なる。おぬしの命が尽きてしまったのはほんの一瞬で救うことはできなんだ。しかしアースの男にはまだ息があったのじゃ。そやつをただ助けると言うのはすでに難しかったため、わしはその魂だけを掬い取ってこのファンタジアースの器へと移し替えたのじゃ」
「はあ、器に命を、ですか。ずいぶんと奇想天外すぎて理解が追いつきません。なぜそんなことをしたのかわかりませんが、その男性はきっと魔女様にとって特別なお方だったのですね」
「そうさなあ、わしにとってではなくファンタジアースにとって特別といったほうが間違いない。わかりやすく言えば救世主と言えるじゃろう。わしの使う魔法には相性というものがある。おぬしへかけた魔法も未来を先取りすると言うもので、今こうして王子の元へやってきた未来を前借りしたものじゃ」
「前借り? そんなことができるならやっぱりわたしは生きていたということではないのですか?」
「そういう未来もあったということじゃな。この世の時間はいろいろな可能性を持っておる。その中から最良を手繰り寄せるのがわしらの役目なんじゃ。もちろん個人個人を見ているわけじゃないぞ? 世界の行く末を見守っておると言うことじゃ」
「ますますわかりません。それならなぜわたし個人を生き返らせたのですか?」
「おぬしは生き返ってなぞおらん。その答えをこれから思い出させてやろう。もしかしたらわしを恨むかもしれん。だがこれも世界のため、ファンタジアースの滅亡を防ぐためなのだ。わかっておくれよ?」
「はあ…… 内容が突飛すぎて理解できていませんが、わたしにできることがあるならできるだけのことはいたしましょう。それが恩返しなのですから」
「わしに恩を感じることはない。まあそれもすぐにわかり考えを変えるだろうて。では参る、気をしっかり持つのじゃぞ?」
不穏な言葉共に、刻の魔女はなにやら呪文のようなものを唱えた。するとシンデレラはまるで過去へ戻っていくような感覚に襲われる。
だがそれは魔女が言ったように過去へ戻ることはできず、すでに起こった出来事を振り返って思い出すと言うことなのである。
いったいシンデレラの過去がどういったものだったのか。彼女自身も知らない出来事が頭の中へと戻って来るのだった。
◇◇◇
数えきれない扉が整然と並べられたこの場所ではあるが、その数と種類を正確に把握することがこの男の役目だった。
彼は灰賀振、そろそろ中年の足音が迫っているごく普通のサラリーマンだ。ただしごく普通と言っても人間的に普通だと言うだけで、境遇はあまりいいとは言えない日々を過ごしている。
大手商社へ入社し十数年、まともな休日もなくサービス残業や名ばかりの休日出勤という悪しき風習に悩まされていた。それは日本の企業によくある普通のことだ。
だが約半年前、灰賀は子会社の倉庫へと出向となっていた。社員は彼ひとりであとはシルバー人材センターから派遣されてくる年寄が数名の部署である。
灰賀は目標やノルマでがんじがらめにしひどい扱いをしている会社をコンプライアンス違反だと告発し、同時に労働基準局への通報をしたことで左遷されたのだ。当時の上司には業務量や勤務時間に不満があるのだから暇な部署へ回してやるなどと言われた。
こうして灰賀は毎日完全定時勤務となってサービス残業等からは逃れることができたが、毎日サッシやドアの数を確認、記録するだけでやりがいは皆無となった。
そのように残業もないがやりがいもないというないないづくしの日々を送る灰賀の身にアクシデントが襲い掛かる。
とある日、いつものようにサッシの数を数えていると、突然なんの前触れもなく中二階が崩落し資材が崩れ落ちてきたのだ。灰賀は逃げる間もなくその下敷きになってしまった。
意識を失いつつあった灰賀の目に見慣れない光る扉が映った。身体はもう動くはずがなかったが、意識の中ではその扉を開けて入っていったような気がしている。そして記憶はそこまでである。
◇◇◇
「わたし! 思い出した! わたしは―― オレはっ!」
「ようやく理解できたかね? おぬしが死ぬ直前にわしが魂を救いだしたのじゃ。すなわちシンデレラの肉体を受け継いで今ここに生きておると言うことじゃな」
記憶を取り戻した灰賀は、今現在十六歳の乙女が裸体であることを忘れ立ち尽くしていた。




