不思議な水晶玉
子どもに捧げる物語 第3弾
ぼく、太田琉斗は小学六年生。家はお寺――空華院っていう古いお寺だ。といっても、住職はぼくじゃなくて、もちろんじいちゃん。名前は日明っていう。
じいちゃんは七十をすぎているけど、しゃんとしていて、月に一回、本堂で「法話」っていうお話をする現役の和尚さんだ。お寺のことだけじゃなく、町の人とも顔なじみで、みんなから慕われている。
ぼくの両親はふたりとも仕事が忙しくて、塾の送り迎えは、いつもじいちゃんの役目だ。ぼくは週三回、駅前の進学塾に通っている。今日はその帰り道。
「どうだった、今日の塾は」
軽ワゴンの運転席で、じいちゃんがゆっくりとハンドルを回しながら聞く。
「……なんか、変だったよ」
「変?」
ぼくはシートベルトを引っ張りながら話し出した。
「西野先生、すごく機嫌が悪くてさ。いつもなら笑って許してくれることまで、全部怒鳴るんだ。『うるさい!』『集中しろ!』って。それで授業もほとんど進まなかった」
「ふむ」
じいちゃんは信号で車を止めながら、あごに手を当てた。
「人間というのは、機嫌のいい日ばかりではないからなあ。でも……そうか、それで琉斗は不思議に思ったわけか」
「うん。だって、ほかのクラスの子も言ってたし、なんかいつもと違う」
じいちゃんは少しだけ考えて、「不悪口」という言葉を口にした。
「ふあっく?」
ぼくは思わず聞き返した。
「そう。悪口を言わない、という仏の教えだ。口というものは、刃物より鋭く人を傷つける。だから、なるべく悪い言葉は口にしないようにするのがよいのだよ」
「でも、言いたくなるときもあるじゃん。むかつくときとか」
「そういう時こそ、自分の口を見張るのだ」
じいちゃんはにこりと笑って、ポケットから小さな布袋を取り出した。その中から、ころん、と透明な玉が出てきた。直径五センチくらいの水晶だ。
「これを持っていなさい。少し怪しいと思ったら、軽く相手に当てるんだ。痛くしないようにな」
「なにこれ?」
「まあ、お守りのようなものだ。琉斗に預けよう」
ぼくは半信半疑で水晶玉を受け取った。
次の日は土曜日で、塾の午前中の授業が終わったあと、自主ルームという勉強部屋に行く日だった。そこでは塾の先生が交代で見張ってくれて、質問もできる。
部屋に入ると……いた。
西野先生。相変わらず眉間にしわを寄せ、プリントをバサバサと机に叩きつけるように置いている。
「おい、ちゃんとやれよな。昨日の小テスト、半分もできてないじゃないか!」
誰かの答えをのぞき込んでは、「だから言っただろ!」と声を荒げる。
隣の席の女子なんて、びくっと肩をすくめて鉛筆を落としてしまった。
ぼくはため息をついた。
(じいちゃんが言ってた、不悪口ってこれか……)
その瞬間、ポケットの中の水晶玉が、すこしひやっと冷たくなった気がした。
……やってみるか。
ぼくはそっと立ち上がり、西野先生の後ろを通るとき、かばんの中から水晶玉を取り出した。そして――先生の背中に、軽くコツンと当てた。
と、その瞬間。
水晶玉の奥に、黒いもやのようなものがスルスルと吸い込まれていった。
そして玉の中に、金色の不思議な文字――梵字が、ふわっと浮かび上がった。
ぼくはあわてて玉をかばんにしまった。
西野先生は「ん?」と首をかしげただけで、気づいていない。
その日の帰りも、じいちゃんが迎えに来てくれた。車の中で、ぼくはさっそく水晶玉を見せた。
「じいちゃん! これ……」
玉は昨日よりもずっと輝いていて、中に金色の梵字がゆらゆらと揺れていた。
「ほう……これは見事だ」
「見事って?」
「これはな、人の口から出た悪しき言葉――つまり悪口が結晶化したものだ。仏の教えでは、不悪口を守ると心が澄み渡るが、逆に破れば、こうして形に現れることもある」
ぼくは息をのんだ。
「じゃあ、この玉は……西野先生の悪口が入ってるってこと?」
「そういうことだな。この水晶玉は、わしが昔、師匠から譲り受けた法具だ。悪しき言葉や想いを吸い取り、形にする。琉斗に預けたのは、わし一人では見られぬ場面があるからだ」
「じゃあ、この玉、いっぱいになったらどうなるの?」
じいちゃんはしばし黙ってから、「……まあ、それは、あまり溜めぬうちに浄化することだな」とだけ言った。
――このあと、ぼくは水晶玉を持って、塾だけじゃなく学校にも行くようになった。クラスでも、悪口をやたらと言う子に近づくと、玉は冷たくなり、黒いもやを吸い取っていく。
不思議なことに、玉を当てられた人は少しずつ落ち着きを取り戻し、以前より優しくなる。西野先生も、一週間もしないうちに怒鳴らなくなり、授業が前よりずっと楽しくなった。
でもある日、玉はほとんど真っ黒になり、金色の梵字がいくつも浮かび上がっていた。
ぼくは慌ててじいちゃんに渡した。
「おお……これは、もう限界だな」
じいちゃんは本堂にぼくを連れていき、ろうそくを灯し、静かに読経を始めた。やがて玉の中のもやはすっと消え、梵字も溶けるように消えた。
「琉斗、覚えておきなさい。悪口を吸い取る玉は便利だが、本当はそんなものを使わずとも、人が互いに言葉を選び、優しくなれるのが一番だ」
「……うん」
じいちゃんの声は穏やかだった。
その日から、ぼくは玉を持ち歩くより、自分の口を見張るようになった。だって――自分の悪口まで玉に吸い込まれたら、恥ずかしいからね。