【番外編】菊乃、渋谷に行く
目を開けた瞬間、世界は眩しかった。
光る板のような建物、空に浮かぶ巨大な広告、人の波――そこは、渋谷だった。
「えっ……ここ、どこ……ですか?」
菊乃は己の足元を見た。草履ではなく、どこかで見たことのあるスニーカー。手には“真彩のスマホ”が握られていた。
「ま、まさか……これは、真彩さまの記憶の中……?」
そう理解するより先に、横断歩道の信号がチカチカと点滅を始めた。
どっと流れ出す人の波。菊乃は吸い込まれるように、その中に踏み出した。
***
「お姉さん、インスタやってる?」「ギャル風、似合ってるよ!」
通りすがりの若者に声をかけられ、菊乃は戸惑いながらも軽く会釈した。
ふと、ショーウィンドウに映る自分の姿を見る。
――髪はいつの間にか金茶色に。爪にはラメが塗られ、耳にはキラキラのイヤリング。
「ま、真彩さまのスタイル……が、ウチに……?」
どうやらこれは、“真彩の記憶内での仮の姿”らしい。
それでも、菊乃は胸を張った。
「せっかくですし、真彩さまの世界、少しだけ見てみます」
***
センター街の端、古びた喫茶店に入る。そこはどこか懐かしく、落ち着いた空気が流れていた。
店内の壁に貼られたポスターが目に止まる。
《中学生いじめ自殺 SNSでの未読スルーが引き金に――》
菊乃は息をのんだ。
その隣には、制服姿の少女が微笑んでいる写真。
その下に書かれた名前は、こうだった。
「成瀬ユリナさんを忘れない」
真彩のスマホが震えた。未読通知は【59】。
何かが、そこから始まっていた。
***
渋谷駅前のスクランブル交差点。
人が流れる中、菊乃はぽつりと立ち尽くしていた。
「真彩さま……この世界、きっとすごく苦しかったんですね」
でも、彼女は笑っていた。
あのパラパラのステップも、厚底のブーツも、全部“光”だった。
「なら、私は……その光を、守りたい」
空に青白いひかりが走り、記憶世界の渋谷が崩れはじめる。
次の瞬間、菊乃の体は封印の空間に引き戻されていた。
――手には、真彩が中学時代に使っていた古いスマホのデータ片。
“未読のまま送られなかったメッセージ”が、そこに残っていた。
***
「ただいま、真彩さま」
菊乃の声に、真彩は振り返る。
「どしたん? ちょっと今、厚底改造で忙しいんだけど」
菊乃は微笑んだ。
「いえ。ただ、ひとつだけ……思い出のかけら、拾ってきました」
真彩のスマホが震える。
【未読:59】が【58】へ――音もなく、そっと変わった。