第3話「禁裏の鏡と“夜皇”の影」
鏡石が静かに沈黙し、夜の御所跡には微かな風だけが吹いていた。
桜の花びらがひとひら、地下の封印空間へ舞い込む。
真彩はスマホを見つめた。未読メールは【80】。
ただの通知じゃない。それは、忘れたくても忘れてしまった自分自身の一部だった。
その背後で、新兵衛と理久が話し込んでいる。
「封印が安定しても、完全に“夜皇”を止めたわけではない」
「次の封印地は、禁裏の本殿地下にある“主鏡”――都の結界の中枢だ」
菊乃が封印図を広げる。京の地下に走る地脈、それを押さえるように点在する鏡石の存在。
だが、本殿地下にある主鏡だけは、封印の中心であり、かつて誰も近づくことを許されなかった禁域だった。
「そこへ行くには、正式な夜警団の許可が要ります。でも今の夜警団は……」
「上層部が動かない。“夜皇”の名が、彼らの記憶からも消えかけているのだろう」
理久の言葉に、真彩はうんざりしたように息をつく。
「また“知らないフリ”の大人たちか。こっちは毎晩、通知地獄なんだけど」
***
夜。
真彩たちは御所外縁の“影門”にいた。そこは、正式な門ではなく、夜警団の一部が密かに使う抜け道だった。
「これ、抜け道っていうか、ダンジョン入口じゃん」
石畳は崩れ、苔がびっしりと生えている。だがその奥には、確かな空気の流れがあった。
理久が背負った双剣を下ろし、封印札を一枚、門にかざす。石に刻まれた文様が一瞬光り、通路が開かれた。
そのとき、真彩のスマホが震える。【未読79】
通知はない。だが、画面に映ったのは――
「……夢、見てたのか?」
画面の中。
かつての渋谷。スクールバッグに縋るような自分。交差点の真ん中で立ち止まり、信号が変わっても動けなかったあの夕暮れ。
その背中を、誰かが抱きしめた。
顔は映らない。でも、確かに知っている――誰かがいた。
『大丈夫、忘れても大丈夫。お前はお前でいればいい』
「……誰?」
真彩はスマホを胸に抱え、歯を食いしばった。
「ウチ、忘れてたの? 大事な人を……?」
未読は【78】へと変わる。
***
通路を抜けた先。
そこには、地下神殿のような空間が広がっていた。石柱が立ち並び、中央には巨大な主鏡――円形の鏡石が浮かんでいる。
だが、その鏡の周囲にはすでに黒い影が広がっていた。
空気が重く、まるで夜そのものが形を成しているかのようだった。
「夜皇は、ここにいる――!」
理久が叫んだ瞬間、空間の奥から男の声が響いた。
『未読を数えるたびに、お前は“忘却”に近づいている』
その声は深く、どこか優しさすら含んでいた。だがそれこそが、恐ろしかった。
空気が凝縮し、鏡石の前に一つの影が立ち現れる。
黒い衣、仮面、そして背に夜を引きずるような長い髪――
「夜皇……!」
真彩のスマホが激しく震える。【未読77】
まだ、記憶の旅は終わらない。
そして“夜皇”との直接対決の幕が、静かに上がろうとしていた――。
主鏡の前に現れた影は、人の姿をしていた。
けれどその輪郭は曖昧で、光を飲むような“闇”そのものだった。
『名を呼ばれるたび、姿を変える。それが“夜皇”という存在だ』
その声は、どこか懐かしさを帯びていた。
真彩は眉をひそめながら、ゆっくりとスマホを構えた。液晶の光が震え、未読は【76】へと減っていた。
「……あんた、もしかして、ウチの“記憶”の一部?」
『かつて、誰かに置いていかれた者の集積。忘れられた悲しみと、気づかれなかった痛みの終着点。それが私。』
夜皇は一歩、鏡に近づいた。
主鏡は波紋のように揺れ、その中に映し出されるのは――渋谷の映像。
信号機、夜のスクランブル交差点、雨に濡れたスマホ。
その中で立ち尽くすのは、制服姿の真彩。
目は伏せられ、画面を見つめながら動かない。
「それ……何回も見せてくるけど、それウチじゃん……」
『そう。だが見えていない。誰も、お前の通知に気づかない。メッセージを送っても、返事はない。未読が積もって、誰もが“夜”になる』
スマホが震える。【未読75】
「……でも、それを放っておくのは、ウチじゃない。ウチ、ちゃんと受け止めるから」
真彩は一歩踏み出す。
厚底の爪先が石床に音を立てる。菊乃と新兵衛、理久がそれぞれ武具を構え、背後を守る。
夜皇が静かに腕を上げた。
その手のひらに現れたのは、黒曜石のような仮面。中心に青白い光が宿っている。
『これは“封印の鍵”であり、“開門の印”でもある。これを壊せば、全ての記憶が流れ込む。だが――』
「でも、それって記憶戻るんじゃないの?」
『同時に、痛みも、後悔も、罪悪感も。すべて思い出す。お前にそれが耐えられるか?』
真彩の指が震える。
スマホの画面に、新たな映像が映し出される。
中学生の頃。制服も違う。まだ“ギャル”になる前の、素の真彩。
教室の隅で、一人机に突っ伏していた。LINEの未読は32。誰とも会話していない。
その画面の端に映っていたのは――
親友だった、少女の名前。
「……ユリナ……」
呟いた瞬間、スマホが明滅した。【未読74】
『思い出したか。お前が唯一、“既読スルー”した人間だ』
「違う……! スルーじゃない、返せなかっただけ……!」
目元が熱くなった。息が詰まりそうだった。
「ユリナは……ウチに“助けて”って言ってた。でも、ウチ、どうすればいいか分かんなくて、怖くて……」
そのとき、主鏡の表面に“ユリナ”が映った。
泣いていた。制服の袖で顔を隠しながら、真彩のスマホ画面に「見てるよ」って送っていた。
真彩の声が、震えた。
「……ごめん」
スマホが輝き、未読が一気に減る――【未読70】
夜皇の仮面がひび割れた。
まるで、その言葉を待っていたかのように。
『お前が“既読”にした瞬間、私は“存在できなくなる”……それでもなお、進むのか』
「うん。全部受け止めて、ウチは“今のウチ”になる」
闇が静かに後退した。
主鏡の中心に光が差し込む。鏡守の印が浮かび上がり、夜皇の姿がゆっくりと崩れていく。
『ならば、最後の未読までたどり着け。“夜”はまだ、すべてを覆ってはいない』
真彩は息を吸い込み、涙を拭った。
「ラスト既読まで、ウチ、バイブス上げていくから!」
夜皇の仮面が砕ける音は、まるで雨粒が石を叩くように静かだった。
仮面の破片が空中に浮かび、その一片が主鏡の中心に吸い込まれると、鏡面が大きく脈打つ。
それは、封印の応答。
幾重にも重ねられた記憶の層が呼吸するように波打ち、京の地下を走る地脈が共鳴し始める。
「主鏡が……“開いてる”……?」
菊乃が目を見開く。鏡面に浮かぶのは渋谷の風景と、今いる京の封印空間が重なった光景。
過去と現在、現実と幻想が重ね書きされた、異常な空間だった。
「バイブス、ヤバいレベルで重なってんだけど……」
真彩は厚底を踏みしめ、スマホを手に前へ出る。【未読:70】
この数値がゼロになるとき、“夜皇”の残滓も、忘れていた記憶もすべて迎えに行ける――そんな予感がした。
すると、鏡の中から“最後の影”が現れる。
***
それは、“夜皇の核”とも言える存在だった。
黒いフード、仮面なしの素顔。だが顔立ちは真彩に似ていて、どこか中性的だった。
『私は、“誰にも名前を呼ばれなかった存在”。
お前の中にあった、沈黙、後悔、そして諦めの記憶の塊』
「ウチの中に……そんな重いもの、あったん?」
『あった。いや、ある。今も、お前の奥底で――“言葉にならない何か”として』
その言葉に、真彩はスマホを見た。
画面には、保存フォルダの奥深くにあった“未送信メッセージ”が映っていた。
──「ユリナ、ごめん、ほんとは……」
途中で止まった文章。何度も打ちかけては消した文字列。
それを今、真彩はそっとタップした。
「今なら、言えるかも」
送信。
画面がまばゆく光る。【未読:69】→【68】→【67】……一気に未読が減っていく。
主鏡が大きく反応した。中央に浮かび上がったのは、白い着物を纏った少女。
その瞳は蒼く澄み、胸元には鏡守の紋章が刻まれていた。
「これは……?」
「“鏡守の本体”だわ」
菊乃が呟いた。「主鏡に宿る、記憶と記憶をつなぐための存在。だからこそ、夜皇に狙われた」
白い少女が微笑み、真彩に手を差し出す。
『ようやく、君に届いたね』
真彩はその手を取り、自分の中に染みついていた影が、少しずつ薄れていくのを感じた。
***
地脈の響きが収まり、主鏡が静かに閉じる。
未読カウントは【60】。だが、もうそれは“恐怖”ではなく、“約束”のように感じられた。
「……ウチ、もう逃げない。思い出すのが怖くても、ちゃんと受け止めて、全部既読にする」
新兵衛が黙ってうなずき、理久は微かに笑う。
「君の戦いは、まだ続く。けれど――その足音は、もう孤独じゃない」
真彩は厚底を鳴らした。
「ギャルはね、どんな夜も照らすの。未読も、迷いも、闇も、全部ぶっ飛ばす勢いで!」
そのとき、スマホが振動した。
通知が一件――“新しい記憶断片を検出しました。次の地へ向かってください。”
鏡の奥に浮かぶのは、夜の大阪。
ネオン街、通天閣、心斎橋の交差点。
「次の未読は、関西か。てか……ギャルin大阪とか、テンション上がるじゃん!」
真彩は踵を返し、封印の階段を駆け上がる。
――未読60、そして次なる物語が、夜の街で待っていた。