03
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雨雲の下に敷かれていた路線は、定刻通りトンネルの中に入り込む。
斜めに走っていた雨粒は風に押され後ろへと流れる。
くっついて大きな水滴ができないか、と眺めていた窓は冷たいコンクリートの壁を写す。
強く揺れる車両。
トンネルの中に並べられた蛍光灯が前から後ろに逆行し、地下の路線を走る電車はこもった音を立てて先の開け口まで進んで行く。
早朝、まだ日も上りきっていない時間帯。
この電車に乗ってから30分ほど経過した。
車内は空いていて、少ない人影にはちらほらと朝の部活に向かう生徒の姿が見える。
友人と話す学生の声。
規則的に鳴る車輪の音。
眠い朝には一層辛く夢の世界へと招かれる。
外の音は心地よい子守唄になり、『学生』というキーワードで想起された光景が思い出される。
ーーーー
突然の話だった。
『子供は学校に通うべし。我が家に来たのなら我が家のルール、つまりは私のルールに従いなさい』
異国の地から帰ってきた日。
空港で待ち構えていた師匠の娘さん、神崎詩織さんは仁王立ちでそう言った。
長く赤い髪、目は吊り上がっていてキッと見つめられると心臓がキュッと縮み上がりそうになる。
飄々として胡散臭さしかなかった師匠の娘とは思えない。
数年来の日本に帰ってきたその日に出された指令はまさしく突然だった。
お世話になる家の家主には逆らえない。
自分はまだ未成年で、これから色々と迷惑をかけてしまうことになるのだから。
話は決まっていたようで、その足でそのまま服飾店で制服の寸法合わせが始まった。
少しでも早く日常に戻ることーーー
師匠の手紙にもあった目的の一つとはいえ、全く繋がりのない自分を迎え入れてくれた詩織さんには頭が上がらない。
『成長期はこれからだし、少し大きめのサイズで出しときましょうか。それと、あぁ、そうね。筆記具とかも買わないといけないのか。裾合わせ終わったらデパートに行きましょう。お腹も空いてるだろうし、何か食べたいものはある?無ければ私が勝手に決めるわ』
師匠もそこそこ饒舌な方だったけど、詩織さんからはその倍以上の言葉がマシンガンのように放たれる。
『あ、そうそう。学校の転入手続きはもう終わってるから。明日教科書とかもらいに学校に行くから、お昼には出れるようにしておいて。あとそれから、私物なんかはいつ来るの?
は?そのスーツケースだけ?私物とか服とかは?…いいわ、予定変更よ。あそことあそこも回るからね』
まさしく嵐と呼ぶにふさわしい人だった。
雨垂れのようにダンダンと言葉が降りかかってくるのだから落ち着く間もない。
……それが、不安定な僕にはちょうど良かったのかもしれないけれど。
それがほんの1か月前。
俺が新しい生活を迎える節目であり、藤原から神崎という人生の転換期の始まりだった。
ーーーーー
トンネルを抜けた途端、雲の切れ間に入った日差しが窓から差し込む。
思わぬ眩しさに目を覚ました。
列車は変わらず規則的な音を立て、乗客は各々に時間を過ごしている。
ゆるやかに速度が落ちる感覚。
慣れきった耳に一際大きな音が流れ込む。
『まもなく、ソウヤ。まもなく、ソウヤ。ソウヤの次はヤシロギです。お乗り換えは……』
田舎の風景から一点、車窓は都市を写す。
朝霧と雨に濡れた街が、登り始めたばかりの陽に照らされ細かな光が反射する。
空調から外の冷たさを帯びた空気が流れ込む。
夏の面影が薄れゆく、そんな秋の入り口の朝。
空気中にチリが少ないから、遠くの山まで見渡すことができた。
この1か月、あっという間に過ぎ去って行った。
電車での登校も段々と慣れてきた。
最初の頃は詩織さんについてもらわなきゃ乗れなかったのに、今では意識もせずにピッと定期をかざすことができる。
思えば随分と旅をしてきた。
遠く、昔。血のつながった家族と過ごした地元から国外へ。
そこで師匠に拾われたまた各地を転々と。
それが今では学生として毎日同じ道を辿っているのだ。
あの時ーーーー僕が『妖精』を見ることができなかったら。師匠が僕を拾ってくれなかったら。
今の僕はここにはいない。
師匠の教えのおかげで神崎ミツルはごくごく普通の学生として、日々を過ごすことができている。
それは今日も明日も、そしてその先もずっと続けられるよう努力しないといけないものだ。
けど、その努力のしがいもある。
神崎家のあり方はよく言えば自由で本音を言えば結構な放任だった。
まさかの師匠スタイルが詩織さんにも引き継がれていた。
「……だいたい、年頃の男に、あんなことさせるかなぁ」
慣れない環境でよく耐えられたものだと感心する。
案内された家は、広い住宅街に囲われた山の上。
今は珍しい洋館だった。
綺麗な外装、整理された庭、噴水なんておしゃれなものも飾られていて。
部屋の中はなんというか、もう。
いろんなものが散乱していた。
幸いゴミは定期的に捨てられていたからよかったものの年頃の男が見るべきではない女性のあれこれも散乱していたのだ。
それを着いて早々に片付ける羽目になったのは今でも苦い思い出として残っている。
しばらくしないうちに電車は学校への最寄駅、その一歩手前で停車する。
また学校に向かう生徒が乗り込んでくる。
社会人はほとんどおらず学生のみだ。
数分の待機時間。
乗り込んでしまった後のホームにはもう誰もいない。
『お待たせしました。間も無く発車ーーー』
聞き慣れたアナウンス。
駅員さんが安全確認の上扉閉鎖の合図を出す。
そのとき。
「わーー、のりますのりますー!」
滑り込みセーフ。
『駆け込み乗車は危険ですのでおやめください』のアナウンスと一緒に入り込み現れたのは、この1か月でよく見慣れた顔の持ち主。
クラスメイトの志島だった。
金髪碧眼、眉目秀麗、文武両道。
聞くところによると、と言うより見た目からも分かる通り外国の血が混ざっているらしく顔立ちも日本人離れしていて、校内モテ男ランキング堂々の通年1位、とのことらしい。
「いやぁ、危なかったぁ……。お、ミツルじゃないか。どうしたんだこんな時間に」
駆け込み乗車の君は近寄ってきたかと思うとそのまま隣に座り込む。
「部活とかしてなかったよ……な?」
ニコリとそこらの女生徒が向けられればその場で卒倒しそうな素晴らしいスマイル。
走ってきたくせに汗臭さを感じさせない、というのも思春期男子生徒一同から恨みを買っている要因なのだろう。
「あぁ、今日は日直でさ。早めに行って色々準備しないといけない……らしいんだ。そういう志島は?その格好…部活…か?」
「おぅ、まぁな。これでもサッカー部に入っててな今日も朝から練習なんだ」
ジャージの襟を少し捲ったなかに、ユニフォームらしきものが見える。
噂で程度だけど、うちの学校のサッカー部はかなりの強豪だと聞いている。
さすれば朝からの練習もさもありなん、と言ったところだろうか。
「そうだ、よければうちの部活見て行かないかい?
そろそろ部活も決めないといけない時期だろ?」
我らが学校は文武両道を掲げていて、いわゆる健全な心は健やかな肉体に宿る、というのを信じている。
まぁ全員が運動をしろ、というわけではないらしいけど部活への参加は必須らしいのだ。
転入してきたばかりの僕もその類に外れることまからず、そろそろ入る部活を決めないといけないわけだけど。
「んー、サッカーかぁ……。ごめん、運動はそんなに得意じゃないんだ」
いろいろな事情があり、入るのは文化系と決めているのだ。それも、できるだけ活動日が少ないものが好ましい。
運動自体は『事情』のおかげですこぶる得意なのだけど、得意だからこそ学生の枠組みから外れるような記録を打ち立ててしまうわけにはいかないのだ。
……ままならないなぁ。
「そうか、じゃあ仕方がないな。日直の仕事頑張ってな」
多少の罪悪感を感じてしまうが、しばらくもしないうちに最寄駅に着いてしまった。
「じゃ、俺はここで。うちの部室って校外にあるんだよ」
志島と別れ、学校へ。
長い坂の向こう側に校舎が見える。
朝早い時間帯、普段であれば通学中の生徒で賑わう通学路もものがなしさをかもしだしている。
グラウンドからは野球部の声と思わしき声が聞こえる。
「あとは…暇だな……」
日直の仕事は思いの外少なく、すんなり終わる。
誰もいない教室というのは、ほんの1か月しか通っていないのにとても珍しく、寂しく感じる。
さて、何をして暇を潰そうか。
そう言えばカバンの中に読み刺しの本があったことを思い出す。
詩織さん曰く『モテたきゃ本を読んで博識になれれ』とのことだ。
そう言えばそろそろ中間テストも近いとのことだったがいかんせん。
日本に戻ってきたばかりだから勉学というのは追いつきようがない。
なるようになるか。とあきらめとも呼べる覚悟はとうに決まっている。
しばらくもしないうちに教室に1人、また1人と人気が増してゆく。
「あれ、神崎くんじゃん。どうしたの?あー、日直か!おつかれさまー」
「朝から偉いなぁ、俺はもう…眠くって眠くって…ふぁ……」
さっきまでの静けさはどこへやら。
若い活力と人数という力は凄まじく教室の中はにわかに活気を取り戻す。
やれ昨日は何をしていたか、今日の授業はなんなのか、宿題をしてきたか、はたまた漫画の新刊は読んだか。
話題は途切れることなくまとまることなく至る所で広がりを見せる。
「みんな、おはよー」
我らがクラスのモテ男ランキング1位、志島の到着。
彼が入るだけでさらに教室が賑やかになる。
特に女性とは声の高さがワントーン上がり、男子はにこやかに話しかけるものとワントーン『下がる』ものと分かれる。
ちなみに僕はというと第4の選択肢、そっと目を逸らす、だ。
すれ違うクラスメイト全員と挨拶をするのかと思いたくなるほど笑顔を振り撒きながら近づいてくる。
「さっきぶりだね、おはよう、ミツル。寂しいじゃないか、目も合わせてくれないだなんて。もうかれこれ1か月も付き合っているんだ。そろそろ僕のこの性格に慣れてきてもいい頃合いだろう?」
「……あぁ、おはよう。朝から部活、お疲れ様」
電車の時よりも1段か2段ぐらいテンションが上がっている。
馴れ馴れしさも増していていつのまにか肩には手が回されていた。
……それを見て色めき立つ5つ目の区分の女子がいるのが甚だ遺憾なのだが。
というよりもむしろそのせいで善良な男子生徒からも遠巻きにされていることを少しは自覚してほしい。
「うぅん、もう毎日のことだからね。それに今朝はミツルにも会えたからすこぶる体調もいいんだよ。ミツルは違うのかい?」
これを無意識に、なんの含みもなしに言うのだからタチが悪い。
志島と話しているとガラリと教室の戸が開く。
今まで和気藹々としていた空気が一転、台風の前のような静けさに陥る。
「朝からこっゆぅいの見せつけてるんじゃないわよ、胸焼けしたらどうすんの」
犯人は確認するまでもない。
今時珍しいまでの真っ赤に染めた髪を肩口まで伸ばしている女生徒。
目は親の仇を見るかの如く釣り上がり、慣れない人なら逆鱗に触れたのかと思い込む。
「やぁ、雪歩!今日も朝から元気だね!」
「あなたには言われたくないわよ」
そして、女生徒にしては珍しい、志島に気を持っていない1人である。
「ほら、ちったちった。朝から男同士に発情してんじゃないわよ。お腐れ腐ってやがるのかっての」
入室するも間も無くその傍若無人ぶりは凄まじい。モーゼの滝割りもかくやというほどの道が切り開かれていく。
「珍しいね、君が朝から登校するだなんて。今日はミツルとも朝から会えるし今日の運勢は大吉かな?」
しらねーよ、と言いながらどすんと着席する。
「でもほんと。朝から出勤だなんて珍しいよね、何かあったの?」
少なくともこのヒトツキ、彼女がフルで授業を受けていることは一度しか見たことない。
それも基本寝てばかりいたから真面目に受けていたか、と言われると疑問だけど。
「あー、昨日はバイトがあってさ……いや、昨日ってか、今日? さっきまで?家に帰るよりこっちの方が近いから寝に来たんだよ」
ふぁー、と大きくあくびをする雪歩。
相当眠いらしくいつもの怒り目も鳴りを潜めてトロンとしている。
いつもこの表情ならとっつきやすさもマシに……ならんだろうなぁ。
「じゃ、私は寝るから」
とたんに寝息がグースカと聞こえてくる。
「は、はぇ……いま、一瞬で眠らなかったか?」
クラスで人気者のの志島と、避けられている雪歩、そして転入してきたばかりの僕ら3人。
趣味も嗜好も、周りからの印象も違うのにどこか波長が合うようでよくつるむようになった。
「雪歩も大変だね。バイトって言ってたけど何してるか知ってる?」
ちなみに。うちの学校ではもちろんのことバイトは禁止だったりする。
「さぁね。僕も何度か聞いたことあるけど教えてくれたことがないんだ。なんとなく場所の心当たりはあるけど知られたくなさそうなものを詮索するのもね」
それもそうかと同意する。
人には知られたくないことの一つや二つあるもんだ。
「ま、なんにせよ朝から授業に出ることは良いことだよ。……できれば起きた状態で受けてほしいけれど」
間も無くHRのチャイムと同時に先生が入ってくる。いつも空席の雪歩がいることに一瞬驚きながらも、いつものように戻るのはさすが老齢の経験がなせる技だろうか。
各々各自席に座り、朝からのありがたーい訓示を受け取る。
「来週から中間テストだけど勉強は捗ってるか?前日になって慌てて一夜漬けなんてことにならないよう計画を持って勉強するように。あと、街に遊びに行ってる生徒がいるとの連絡が入ってる。……行くなとは言わないが、節度ある行動をするように。最近他校との暴行事件なんてのも起きてるから、行かないで済むならできるだけ行かないように」
特にテストの話題には心当たりがある何人かの生徒が大きくため息をついていた。
ただ、やはり気になるのは『他校との暴力沙汰』。
詩織さん曰く、うちの学校は校風こそ自由だけど風紀は悪くないって話だったんだけど……。
好む人はいないであろう暴力沙汰、無論僕だって巻き込まれたくはない。
しかし、街の方で、か。
今日は志島とクラスメイト数人の有志が僕の歓迎会を開いてくれることになっている。
学生だから夜遅くまでなることはないだろうけどやはり気になる。
先生の話は以上で、そのまま授業が始まる。
やはり雪歩は眠ったままで起きる気配は一向に見せない。
隣の席なのだから気になるなら起こせばいいだけなんだけど、『2度と、するんじゃねぇぞ』と怒られたことがある。
特に今日は夜通し働いていたと言う話だから無理に起こせばクラスメイトとの暴行事件が発生するに違いない。