新・私のエッセイ~第10弾~ 夏目漱石先生の「こころ」に思う Part2
夏目漱石先生の不朽の名作『こころ』にからんで、ぼくがフェイスブックで紹介した、ぼく個人が敬愛する『私』氏は、「先生」が、奥さんに、K氏との過去のいきさつを正直に話さないのは、「先生」のエゴだとハッキリおっしゃいました。
そばに、最大のパートナーがいるのに、打ち明けずに苦しめ、勝手に自分は、残された奥さんの気持ちなども考慮せず、「自殺」に逃げた「エゴイスト」なんだ、と。
ぼくは、そうは思いませんね。
「先生」が、一言奥さんに告白すれば済むハナシを、黙ってずっと胸の奥にしまったままでいたのは・・・
「先生」ご自身が、「私」に遺書の中で明言されておりますように、「なるべく純白に記憶を保存しておいてやりたいから」だったに他なりません。
・・・これって、「エゴ」なんでしょうか?
否、否!!
「先生」はけっして、「悲劇のヒーロー」を気取って、冥府に旅立ったんじゃありません。
「先生」は、長い遺書を託してもいいと思えるほど、大切な「理解者」である「私」という友人を、人生の晩年に手に入れられました。
「私」との交流が、どれほど、乾ききった荒野のようだった先生の心を潤し、たとえ一時期でも「救い」となっていたのかは、想像に難くありません。
しかしながら・・・
そんな「私」でさえ、本当の意味で、先生を「救う」ことはできなかった。
彼の自殺を引き止めることはできませんでした。
先生は、もう「限界」に達していたんですよ。
心から信頼できる「私」との交流のさなかでも、「先生」ご自身には、いつも「黒い影」がくっついていたのだ、とも、遺書の中で名言されています。
そして、奥様につきましては・・・
「愛しい妻」だからこそ、奥様の心に、たとえ一滴でも、汚れたものを残したくなかったんですよ。
奥様が、暗い淵に沈みこんでゆくのを、なんとしても引き止めたかった・・・そういった配慮も、きっとあったにちがいありません。
これは、そう単純に、ただ「打ち明ければいい」って問題ではないんですって。
だから「先生」は、誰にも相談できずに、ひとり何十年も苦しんでいたんじゃありませんか。
だってね・・・
「つらい過去」というものは、そんなに簡単に「デリート」「消去」して、「上書き」できるものじゃないんです。
なにげない、「ふとした瞬間」に、突然、悪い記憶がフラッシュバックしてくるものなんですよ。
世の中、なんでもかんでも、「知ってりゃいい」ってものじゃないんですよ。
むしろ「知らない方がいいこと」だって、あるんです。
きっと、コトの真相を打ち明けられてしまった奥様は・・・
学生時代にあれほどエネルギッシュで魅力的だった先生が、まるで世捨て人のごとき、活力を失ってしまった人間に変貌した真相を理解し、「よくぞ勇気をふりしぼって、そんなつらい事実を私に話してくださいました。」といって、涙を流して許してくださったでしょう。
が・・・同時に奥様は、「K氏という過去の亡霊」とも、「先生」ともども、あらためて向き合わなくてはならぬことになります。
ある意味、先生への「真の理解」のかわりに、自らの心に暗黒の淵によどむ「魔物」を引き込むことにもなったことでしょうね。
・・・これって、非常に大きい「代償」といえるものではないでしょうか。
それだけじゃありませんよ。
かつて、「お嬢さん」だったころの奥様は、先生と同時に、「K氏」とも懇意にしておられました。
婚約する以前には、先生より親しくしておる場面・シーンすらあったほどです。
「先生のまったく知らない、K氏との思い出」。
・・・そういったことまで、今度は奥様は、K氏が自殺した、あの恐ろしい、まがまがしい一夜の記憶とともに、先生のいないところで自身の記憶の底からよみがえらせ、折に触れて、繰り返し繰り返し、人知れず苦しめられることになりましょう。
先生と同じ運命を、やや違った方向にたどってゆくことになるのです。
先生を真に理解することができた奥様は、今度こそ「真に幸福な夫婦」になりえたか・・・?
これも、疑いなく「否!」ですよ。
ぼくは、実際に結婚して夫婦生活というものを営んだ経験はありませんが、それでもハッキリと検証・シミュレートはできます。
「私」といっしょに過ごしながら、先生は、「K氏」の黒い影を追い払うことはできず、実際には、「私」とはまるで別世界の「暗黒の淵」に身を置かれたままでした。
今度は奥様が、これと同じ状況に身を置くことになるんですよ。
愛する先生といっしょにいながら、一見ほほえましく、なおかつ、おだやかな夫婦像。
でもね・・・
ぼくに言わせれば、これこそ「偽りの夫婦像」「仮面夫婦」ってヤツじゃないですかね??
だってね・・・
先生と明るく談笑する奥様の胸のうち・・・奥底には、いまや「魔物」が棲みついてしまっておるのですから。
同じ空間で、同じ時間を共有しながら、心の中は、けっして「共有できていない」んです。
ともに「共有しえない苦しみ・悲しみ」。
いっしょに背負うことのできない「罪業」「重い十字架」。
しつこいようですが・・・
先生は、奥様に「共有させたくなかった」んです。
・・・きっと先生は、そのことをじゅうじゅう承知の上で、あえて、自分の正統な後継者たる「私」には、
「私は死後、妻に、頓死したと思われてもいい。気が狂ったと評価されても、いっこうにかまわないんだ。だけどね、君に私の過去を打ち明けはしたがね・・・妻だけは唯一の例外。彼女にだけは、何も知らせたくないんだよ。君! 君なら、きっと私のこの切なる思い・願いをわかってくれるよな。私の死後、そこだけはしっかりと頼んでおくぞ・・・。」
と、託してくださったのですよ。
・・・「エゴ」どころか、「究極の愛・優しさ」じゃありませんか。
漱石先生が、作家晩年に自ら掲げた、『則天去私』という思想。
「エゴイズム」の正体を徹底的に突き詰め、エグリ出すことで、人間の「心の闇」「欲望」を暴き出し、これを克服し、真の「救い」を得る・・・
「先生」こそが、まさしく、漱石先生の思想の「具現者」だったのではないでしょうか・・・?
だからぼくは、「先生の、奥様へのご配慮」を、立派だといってるんです。
ぼくには、「先生」の気持ちが、痛いほど理解できるからです。
先生はまた、「それでも私たち夫婦は幸せだった。」と遺書の中で触れ、奥様とともにあゆんできた自らの人生を振り返り・・・
じっと我慢強く辛抱して、努めて明るく振るまい、自分を心から心配し、想い・・・気遣ってこられた愛しい奥様の労をねぎらっておられます。
ぼくにはね・・・
「静・・・いままで本当にありがとう。いろいろあったが、私は君を妻に迎えて、本当によかった。本当に幸せだったんだ。それは、うそじゃないよ。元気でいてくれ。世話になったね。さようなら。」
という、先生の最後の肉声が、この耳に届いてくる思いさえしますよ。
「美絵子ちゃん」とぼくとのいきさつをよくご存じの、愛しく賢明なる皆様なら・・・きっとわかってくれますよね・・・?
m(_ _)m