第十八話 飛ぶ鳥跡を濁すので困っている
「……ウ……ユ……!」
誰かが俺に呼びかけているのが聞こえた。意識はまだ深い闇の中をさまよっている。一体何処から聞こえてくる声なのかも良く分からない。
「ユ……ウ……!!」
でも、その声には親しみと暖かさを感じた。きっと大切な誰かの呼び声なのだろう。段々と辺りが明るくなってきたような気がした。目も開いてないのになんでこんなに明るいのだろうか。疑問に思ううちに感覚が戻ってきた。
目を見開く。薄暗いベージュの髪のケモミミ少女――テアだ。彼女は俺を太ももの上に乗せて、涙を流しながらオリーブグリーンの瞳をこちらに向けている。いわゆる、膝枕という状態だ。
「ユウ……!」
「テ……ア……」
絞り出せた声はガラガラだった。その声を聞いたテアは感情が堰を切ったように更に泣き出した。慰めようと手が本能的に彼女の頬に向かう。テアはその体温を感じるかのごとく目を瞑って、嬉しそうに口角を上げた。
「アヤバル イル アシュン、ユウ……」
俺は李に撃たれて死んだはず。てっきりそう思っていた。しかし、傷口があった場所に手を触れてみるとその傷口は完全になくなっていた。周りを見回すと、何人もの黒服たちが血を流しながら地面に伏していた。一体何が起こったのだろう。そう思っていると、視界の端から見覚えのある人影がもう一人入ってきた。
「驚いたな……」
顎をさすりながらこちらを見ているのはギブソンだった。彼も撃たれたはずだが、壮健そうに立っていた。
「ギブソン……さん……大丈夫ですか……?」
「ああ、防弾チョッキを服の下に着てたからな。衝撃は逃がせなかったが、死ぬほどじゃない」
そういって、水色の瞳の男は上着を開いてみせた。確かにボディーアーマーのようなものがシャツの上に羽織られている。その一点は銃弾によるものか、異様な痕を残していた。
「そんなことより、自分の心配をしろ。傷は治ってるようだが、気分はどうだ」
「悪くないです……李清霄はどうなったんですか?」
「他人のことばかりだな、お前は」
「ギブソンさん」
力んだ声を出すとギブソンは根負けしたような表情で続ける。
「恐らく逃げたんだろう。直接は見てないが、テアが黒服たちを始末したと考えるべきだろう」
「そういえば、橋本さんは……!」
自分たちが座っていた椅子の方を見やると、七海はぐったりと俯いた様子で椅子に座ったままだった。自分が気を失っていた間に李や黒服に始末されたのかもしれない――そのもしかしたらを想像すると背筋が凍った。
だが、ギブソンはそんな事実は無いと否定するがごとく飄々とした態度で彼女に視線をやった。
「橋本は気を失っているだけだ。人の体に無断で触るのも無礼だが、傷は無いようだしな」
「気を……失っているだけ?」
「まあ、テアの魔法が”凄かった”んだろうな」
エアクオートで「凄かった」の部分を強調するギブソンに俺は今ひとつ合点が行かなかった。そして、ギブソンはまた興味深そうに俺のことを見ている。
「そして、テアの魔法でお前は回復したということになる」
「そうだったんですか……」
俺はギブソンから真上のテアに視線をやる。彼女は話している俺達二人を静かに見守っていた。彼女が居なければ、俺は今ごろ事切れていただろう。よく見るとテアの服は出血で赤く染まっていた。彼女は自分が傷ついてもなお、俺を助けるために魔法を使って戦ったのだ。そう思うと、目の前のケモミミの少女が更に愛らしく思えてきた。
「アヴィラン テア ユラン」
普段はこんな直球ストレートな告白は出来ないだろう。だが、今は頭の中がテアへの愛情で満たされていた。
俺の告白にテアはニコッと笑って顔を近づけてきた。体温が感じるくらいの近さだ。かすかな桃のような香りが鼻腔をくすぐる。これが女の子のいい匂いというやつか、と思っているとちゅっという音と共に左頬に柔らかい感触が伝わってきた。テアの桜色の唇が頬に触れたのだ。
彼女は微笑みながら顔を真赤にしていた。俺も一緒に顔を赤くしていた。
「良いよね、若者には未来があって」
惚けた頭を殴るような声がその場を緊張させた。その場に居た全員が呪詛のような言葉を放った言葉の聞こえてきた方を見る。まだ黒服が残っていたのか、それとも李が戻ってきたのか。その人影はそういった月並みの予想を覆すようなものだった。
その場に立っていたのは、健康体の中年の男――鶴川涼介だった。シャツにジーパンを合わせて、古書店のエプロンを着た姿はまったくもって場違いだ。その片手には拳銃が握られている。半ば反射的な動作で俺はテアの膝枕から立ち上がり、懐から拳銃を取り出して鶴川に向ける。
「鶴川さん、お願いだからやめて下さい」
「……」
「撃って傷つけられたとしてもテアが魔法を使えば終わりだ。それに俺はあなたを傷つけたくない」
鶴川は怨めしさのこもった視線をこちらに投げかけていた。拳銃を持っていた手が上がる。撃とうと俺がトリガーに指を掛けた瞬間、驚愕する。鶴川の銃はこちらではなく彼のこめかみに向けられていた。
その目は虚ろで、焦点が定まっていなかった。
「は、はは」
「鶴川さん……!」
「僕はねえ、ゆったりと平和に暮らしたかったんだ。がちゃがちゃ煩いのは嫌いでね。だから、古書店をやるのは好きだったんだ。異世界人だって存在が明るみに出てきたら、世間が煩くなるだろう? だから、僕は黒龍集団に協力したんだ。最初は良い奴らだと思っていたんだけど、段々ときな臭くなって遂にはこれだよ」
撃鉄が上がる音がする。鶴川は既にトリガーに指を掛けていた。虚ろ目から涙が流れ落ちていた。否、目から水が流れていたと表現したほうが正しいだろう。それくらいに彼の表情からは悲しみの感情が欠如していた。
「黒龍集団は何処までも追ってくる。僕は用済みとなって消されるだろうね」
鶴川の様子をギブソンは無表情でまじまじと見ていた。何故止めようとしない? 危険だからか? 俺にはそれが理解出来なかった。
「そんなことする必要は無い!」
「君は分かってない。彼らは国家権力と張り合えるだけの力を持っているんだ、それに残忍で、無思慮な連中だ」
「だからって――」
俺は彼に近づいて銃を取り上げようと思った。だが、それが彼に決断を下すきっかけを与えてしまったのか、彼はトリガーを引いてしまった。乾いた発砲音と共に鶴川は地面に崩れた。血が床を伝って流れていく。その目からは既に光が消えていた。もはやテアの治癒魔法も効かないだろう。
「そんな……鶴川さん……」
最初に感じたのは悲しみだ。次に感じたのは怒り。あれだけ優しかった人がどうして自ら命を断たねばならなかったのか。俺は涙を流しながら、手を強く握りしめていた。
「黒龍集団……クソッ……!」
鶴川に背を向けて、背後を見る。テアは憐れむような目で俺のことを見ていた。