五話 若き日の祖父
翌日、二人がまず朝一番に向かった先は家畜小屋だった。
ルチカとフィロを家畜小屋に案内したロステムとマヤは、二人がやぎの体や糞を熱心に調べている様子を不安げに見守っている。
「飼料を以前より減らしたりしましたか?」
「どうして、分かるの? そうなの、以前と同じ分量を出せなくなってしまって」
「やっぱり」
やぎの糞を調べていたルチカは呟いた。
飼料が足りないやぎは、以前は手を出さなかった、まだ若い青い飼料に手を出してしまったのだ。
その若草を食べたやぎは腹の中でガスが発酵する。
そのせいで、消化不良を起こし、体調を悪化させ、乳の出が悪くなっていたのだ。
ロステムは不安げに尋ねた。
「治るの?」
「大丈夫。家畜用のお腹の薬を量を調整して飲ませて様子を見てみましょう」
薬売りの中で一番「売れる」薬は、腹下しの薬である。
気温が高くなると、腐ったものを知らずに食べたりすることが多いためだ。
それは、人間だけではなく、家畜も同じである。
家畜の病気は、その家の経済状況を悪化させ、家畜の死が飼い主の死に結びついてしまう場合もあるのだ。
人間の薬でも家畜の腹下しを治した経験談は母から聞いていたし、母の教え通りに同じように、腹を下した馬やロバに薬を与えて治した経験は何度も経ていた。
ルチカとフィロの目論見通り、腹下しの薬を飲み、原因となった草を取り除いた飼料を与えたやぎは、見違えるほどに元気を取り戻した。
「ありがとう、何とお礼を言ったらいいか」
マヤの目には涙が溜まっていた。このまま、やぎの体調が回復しなければ、即、一家の飢えに繋がる。『死』という言葉が胸によぎったのは一度や二度ではあるまい。似たような境遇の家族をこれまで何度も見てきたルチカたちには、マヤの心痛が痛いほど伝わってきた。
元気になったヤギの様子を見ていたロステムがふいに呟いた。
「面白いね」
「え?」
「だって、こんな何でもない草に振り回されてたんだな、僕たち。腹は立つけどさ、こんなにあっさり解決して。だけど、原因はちゃんとあったんだなって」
日が高くなる頃、前日のルチカたちの評判を聞きつけ、自分たちにも薬を売ってほしいという人々の家を回った。
日々の農作業や水くみなどの重労働が原因で、関節痛などを引き起こしている高齢者が多く、貼り薬と痛み止めの薬を出した。
中には、報酬が払えないという家もあったが、ルチカたちはお金ができた時でかまわないと手を振った。
一通り、家々を回り、ルチカは鞄から一通の手紙を取りだした。差出人は『レオル村のジウ』と書かれており、紙は茶色く変色し、文字もところどころインクがにじんでいる。
「いらっしゅい」
その老婆はルチカとフィロを居間に案内してくれた。ルチカは手紙を取りだし、老婆に渡した。
「この手紙を書かれたのはあなたですか?」
手紙を受け取った老婆は、ジウと書かれた文字を指でなぞり、
「・・・中を見てもいいかしら?」
もちろんです、とルチカは答えた。老婆はゆっくりと中身を開き、しばらく身動ぎをしなかった。ひとしきりの沈黙の後、
「・・・どうして、この手紙をあなたが?」
「この手紙を受け取ったのは、私たちの祖父です。祖父も薬売りをしていました」
「そう、あなたがあの薬売りのお兄さんのお孫さんなの」
老婆、ジウは話してくれた。彼女がまだ子供の頃、村に若い薬売りの青年が来てくれた日のことを。
その薬売りは、旅の途中、夜盗に襲われたレオル村の若者を助け、そのケガをした若者を村に送り届けてくれた。自分は薬売りだと名乗り、薬がほしいという家を一軒一軒回り、病に効く薬を出してくれた。
薬はとてもよく効いて、リウマチに苦しんでいたジウの祖母は、涙を流して感謝していた。
中には薬の代金が払えない家もあったが、次にこの村に来た時で構いませんと屈託なく笑った。
その若者は朗らかな性格で、特に子供たちに慕われた。別れの際、村人たちは薬売りとの別れを心底惜しんだ。薬売りを自身の家に泊めたジウは、あふれる涙を抑えきれず、
「絶対、絶対、また来てね」
ジウは村の学校で覚えたての拙い字で綴った手紙を薬売りに渡した。
薬売りはジウの頭に優しく手を置き、村を去った。
一年後、薬売りは再びレオル村にやってきた。多くの村人たちと約束した「また来てね」を守るために。
しかし、彼は村に入ることができなかった。
新しく就任した村長が、国の外から来た外来商人との売買を全面的に禁止したからである。外来商品が国の産業を廃れさせるからというのが、村長の弁であったが、この方策が結果的に、村の若者に故郷に見切りをつけられ、過疎化が進んでしまう要因となってしまった。
方策が施行されて一月後に村を再来した薬売りは夢にも思わなかった。一年前にはあんなに、自分との別れを惜しんでくれた村人たちから文字通り、門前払いさせられることになるなんて。
村人たちは難所を乗り越えて、はるばるやってきてくれた薬売りにしきりに謝罪した。
事情を聞いた薬売りは潔く、立ち去った。ジウは泣きわめいた。
「どうして、あんなに親切にしてくれたのに追い返すの! どうして!」
どうしようもなかった。薬売りを受け入れて、罰を受けるのは村人たちなのだ。
薬売りもそのことが痛いほど分かっていたから、たださみしげな微笑みを残して去って行った。
方策はその後、二十年続いた後、撤廃された。
ジウ婦人は、幼い日の自分が書いた手紙を指先で、そっとなでた。
「・・・持っていてくれたのね。あんなに非道い仕打ちをしてしまったのに」
「ジウさんのせいではありません。祖父もきっとそう思っていると思います」
「それで、彼は今は?」
「ごめんなさい、私たち、生まれてから一度も祖父に会ったことはないんです」
「そうなの?」
「母が家族と縁を切って、父と駆け落ちしたので。この手紙は、母が私たちに残してくれた売薬手帖に挟まっていたものです。・・・・・・本来なら、私たちが勝手に見ていいものではないのですけれど」
「あら、いいのよ。あなたたちが手紙を読んで、ここに来てくれたから、私たち、こうして話ができているんじゃない」
「ありがとうございます」
ルチカは申し訳なさそうに切り出した。
「実は、あなたのところに訪ねてきたのは、あなたのためでも祖父のためでもないんです」
ルチカが持参した手紙は、十通あった手紙の内の一通に過ぎなかった。ジウが薬売りに書いた手紙の内、一番古いものは拙い子供の字で、だんだんとしっかりした大人の筆跡へと変化していった。
「そう、私、彼にどうしても申し訳なくて。彼の故郷の村の役場あてに謝罪の手紙を送ったのよ。そしたら、返事が返ってきて。本当に嬉しくて。それから、何度か手紙のやりとりをしたの。手紙はさすがに、禁止されていなかったからね」
昔の記憶を慈しむように、ジウは目を細めた。
「あなたが持ってきてくれたのは、私が最後に書いた手紙ね」
手紙には、こう書かれてた。あなたに送ってもらった薬草の種を植えた。村にとても立派な薬草園ができた。皮膚の病によく効く薬草で、ばかげた方策がようやく撤廃されて、他の村人にもよく売れる。村の生活が豊かになりはじめている。かつては、あなたにひどいしうちをしてしまったけれど、いつか、私たちの村の薬草園を見に来てください、と。
これまで、晴れやかだったジウの表情が一瞬にして曇るのが分かった。
「・・・・・・この手紙を書いたのは、そうね、二十年も前ね」
ジウ婦人は、申し訳なさそうにうつむいた。
「焼けてしまったのよ、薬草園は。それから、薬草は全く育たなくなってしまって。村人たちはレオル村の新たな産業になると高揚していた。一気に暗転したわ」
「・・・それは、何と言っていいのか」
「ごめんなさいね、わざわざこんなところまで来てくれたのに」
「そんな・・・お願いです。謝らないでください」
ルチカとフィロはジウ婦人の家を辞した。焼失した薬草園、若き日の、誇り高い薬売りであろうとした祖父。さまざまな人の思いがルチカの頭の中でぐるぐると渦を巻いた。
「疲れた・・・・・・」
ルチカがつぶやき、フィロも無言で同意した。