命を懸けるべき理由
「──どういうことだ」
「それはこちらの台詞だ。私はただ話をしていただけなのに、何故こうしてお前に押し倒されているのだろうな?」
酷く険しくなっていると自覚している顔を、常と変わらず冷静極まる表情で見上げながら、国軍の同僚──リンは淡々と問いただしてくる。
──ぎり、と。
音がするほどに強く噛み締めた唇に、しなやかながら日々の鍛練で固くなった指先が、残酷な優しさを以て触れてくる。
「やめろ。血が出てしまうぞ」
「誰のせいだ……!!」
「……つまり、私のせいということか。だが、仕方あるまい? このような装いをして、一端の軍人として扱われていても──公主様の護衛を任される腕になっていたとしても。私が女であるのは、誰であれ変えられぬ事実なのだから」
そして、女に生まれたからには、家長の命に従い決められた相手のもとへ嫁ぐ──それが、この帝国の長きに渡るしきたりだ。
ましてリンの生家は、最上層にはぎりぎり届かないものの、国内で知らぬ者はない名家である。
そのような生まれで、男装してなお麗人と讃えられる令嬢ならば、多少の変わり者でも──男に交じって槍を振り回し、鍛え上げられた兵士たちを次々に薙ぎ倒す猛者であっても、娶りたいと申し出る者には事欠くまい。
もっとも、ライだとて国軍随一の剣の腕を誇り、将来の将軍の座をほぼ確実視されている男だ。その名と戦場で立てた桁外れの手柄の数々は、帝都ばかりか国中にまで鳴り響いている。
そんな彼ならば、リンの嫁ぎ先が大臣や宰相といった権力者の家でもない限り、名をちらつかせて破談にすることも不可能ではない。ライとしても実際、近いうちに彼女へ正式に求婚しようかと考えていたところでもあったのだ。
だが、彼女の父が、娘が生まれた時点から決めていた輿入れ先は、如何に名高き軍人でも──いや、この国の誰であっても、影響を及ぼそうとすることさえ困難な相手なのだ。
それくらいの現実は、先ほどまでの会話で嫌というほど承知させられている。だが、理屈として承知することと、心から納得して受け入れることとは天と地ほどの差があるのだ。
「リン。俺は──」
「言うな」
──ばっさりと、容赦なく切り捨てたというのに。
その声音は触れる指と同じく、あまりにも頼りなく切ない響きを宿している。
「ライ。すまないが、お前の口からだけは何も聞きたくない。……聞いてしまえば、私は──」
お前の傍らから、離れられなくなる──
音としては紡がれなかったはずの言葉が、ライの耳には確かに届いた。
「ならば離れなければいい!……頼む。どうかこのまま、俺の側にいてくれ……!!」
「無茶を言う。……それがどれほどの難題で、私にとって辛い申し出なのか、分からぬお前ではないだろうに。酷い男だ」
「酷いのはどちらだ! 別の男に嫁ぐ未来が確定していながら、その身体を全て俺に委ねたくせに。それも何度も、触れていない場所がなくなるほどに。……お前のどこが弱点で、どこに触れれば抵抗しなくなるのか、唯一知っているのが俺だろう……!」
それを証明するように、ライの手が的確極まる動きで、男物の服の上からリンの身体をなぞっていく。
……びくん、と敏感に震える様子は、とうに見慣れているものの、どこまでも愛しく思えてならない。
「ふ……生まれはどうであれ、私も所詮は一人の女だということだ。……想う男にあんなにも真剣に迫られれば、どれほど意志が固かろうとも、素直に陥落せざるを得ないだろうさ」
「……よくも言う。肝心要の部分は、絶対に譲る気などないだろう。……それなのにこうして俺に抱かれようとするのだから、お前は本当に残酷な奴だ。お前がただ望みさえすれば、俺は喜んでお前をさらい、どこまでも逃げおおせてやるのに……!」
「それは駄目だ。……我が国の英雄たるお前の名が、たかが一人の女のせいで汚れることなど絶対にあってはならぬ。……まして、私が原因となるのなら──その時は」
舌を噛み、潔くこの世を去ろう──
決して揺らがぬ声で紡がれた不変の決意が、室内を絶対の静寂で満たした。
……ふ、と。
ライの口からこぼれた苦笑が、その静けさを破る。
「……俺の名誉のためならば、自らの命も質とするか。それなのに、俺の願いは決して叶えてはくれないとは、本当に残酷な女だ」
「今更だろう?」
「ああ。──だが覚えていろ、リン。俺は生涯お前のことを諦めない。我が名にかけて、いずれ必ず、正式にお前を妻としてみせる」
「……やれやれ。先ほどまでは泣き言を述べていたくせに……ライ、お前は本当に、世界一厄介な男だな」
「それこそ今更だ。……だから、お前が俺のことを忘れぬよう、今夜は徹底的にその身に俺を刻み付けてやる」
「……既に隅々まで刻み込まれているぞ?」
「念には念を入れて、だ。嫌と言っても聞く気はないからな」
「全く……元より言うつもりはないと知っているだろう。大体──」
リンの声は深い口づけに遮られ、それからの一晩中、意味のある言葉を紡ぐことは許されなかった。
──それから三年後のこと。
建国以来の宿敵である西の大国との、二年余りに渡る長き戦は、英雄ライの手により、かの国の大将の首が取られたことで終結に至った。
その功績を讃えられ、皇帝より褒美としてライが賜ったのは、ひとりの側室であった。
名家の令嬢である彼女に期待されたのは、言うまでもなく皇帝の寵愛をその身に受け、あわよくば次期皇帝となる男児を産み落とすことである。
彼女の後宮入り当初、皇帝は既に不惑に手が届く年齢で、息子は既に三人おり、皇后腹の第一皇子が数年前に立太子していた。だが生憎、この時は十五歳で成人したばかりの彼は、生来の病弱であり、この先に妃を娶ったところで、子を儲ける可能性は低いだろうと専らの評判だった。
続く有力候補は同腹の第三皇子だが、まだ十二歳の無邪気な年頃で、肝心の立ち居振舞いは年相応よりも更に幼く、皇太子として推すには些か心もとない。剣の師匠を勤めるライに言わせれば、「あれは、分厚い猫を五百枚ばかり被っているだけだ」だそうだが。
残る第二皇子はどうかと言えば、こちらは母親の身分が後見としては弱く、皇子本人の資質も少々疑わしい。二つ年下の異母弟とは対照的に、よく言えば大人びて武力に長けた、ありのままを言えば明らかに好色かつ暴力的すぎる傾向にあり、周囲に若い侍女が置かれなくなって久しいという。もっとも、皇帝の許可を得たライに一度こてんぱんにのされてからは、多少は大人しくなったらしい。
そんなどっちつかずの情勢の中、後宮に放り込まれたリンは、あろうことか皇帝に直談判し、軍人であった前歴を活かして、実質的な後宮内部の警備隊長にしてもらうよう頼んだのだという。
元より数少ない女性軍人として、皇后や公主たちにも目をかけられていた彼女は、かつてと同じ男装の麗姿を主な武器として、瞬く間に多くの妃や女官の支持を勝ち取っていった。
そうして、三年弱の間を後宮で過ごしたリンが、いざライに下賜されることが決まると、何故か皇帝よりも、側室たちを筆頭とした女性たちからの悲しみの声が大きいという有り様だった。
身分が低い側室や、皇帝のお渡りが少なかったり途切れている者の嘆きは取り分け深く、英雄たるライに怨嗟の視線を向ける者さえいた。
予想外もいいところの反応をされ、婚儀を終えるや否や一番に妻を問い質したライは、事情を聞いてようやく納得したのだった。
「……何と言うか、実にリンらしいやり方だが。皇帝陛下に直談判までするとは……下手をすれば手討ちになる恐れだってあっただろうに、度胸ってものがありすぎだ」
「そうでもないだろう。お前が戦で命を懸けたように、私も命を懸けて守るべきものを守った。ただそれだけのことさ」
ふふっ、と悪戯っぽく微笑みながらそんなことを言われ、軽く言葉を失ったライだった。
やがて、問答無用で妻の腕を引き、仕返しとばかりにきつく抱きしめ、三年ぶりの口づけを堪能する。
「……ああ、もう。本当にお前は、腹が立つほど男前だな」
「よく言われる。──ところで、私が離れていた年月、貞節を貫き通したことは褒めてくれないのか?」
警備任務と引き換えにした夜伽の免除を、皇帝自らに認めさせた女傑を前に、ライも負けずに不敵な笑みを浮かべる。
「どう褒めればいい?」
「そうだな……三年前の夜を再現する、というのはどうだ?」
「再現だけか? 別に上乗せしてもいいんだぞ。そっちの体力が持てば、の話だが」
ささやく彼の、懐かしくも温かい手が身体の線を愛でる。
心身共に刻まれたかつての記憶とも相まって、与えられる感覚に否応なしに反応してしまうリンは、その場に崩れ落ちないため、目の前の男にしがみつくほかなかった。
そんな状態でも健在な憎まれ口は、間違いなく後宮で鍛え上げられたせいもあるだろう。
「私と、しては……むしろそちらがまだ、戦疲れから回復しきっていないと、思っていたくらいだ。……まあ、それだけ大口を叩けるのなら、心配は不要か」
「リンの方こそ、長いこと後宮に閉じ籠っていれば、体があちこち鈍ってるだろう。この際だ、隅々まで確認してやる」
「望むところだ──」
挑むように言い合いつつも、二人の纏う空気や交わす視線、触れ合う手は酷く甘やかで情熱に満ち、三年前の再現と言いながら、あの時の悲壮感はどこにもない。
誰に憚ることなく、ようやく並び立つことを許された恋人たちが過ごす、正式な夫婦となった最初の夜──それがどのようなものだったのかは、あえて語る必要はないだろう。
読んでいただきありがとうございます。
男前な男装の麗人を書きたいと思った結果、頭に浮かんだ設定と光景を勢いのまま書きなぐり、辻褄合わせに適当に肉付けしただけのお話です(身も蓋もない)。
中華ものは好きなんですが、それらしい雰囲気を出すのは難しいとしみじみ実感……
年齢設定としては、物語開始時でリン19歳、ライ22歳です。
リンの後宮生活については、いずれ別枠で短編集として書くかもしれませんが、予定は未定です←
ネタはちらほら浮かぶんですけどね。仲の悪い公主のケンカを仲裁するとか、第二皇子にしつこく絡まれて撃退するとか、下位の側室や女官から真剣な告白をされるとか←