愛深との出会い1-1
こんな風に大まかに意思を決定し、議論を終えた脳内会議は俺に本格的な行動を指示した。俺は何個かのセンテンスを選んで、落ち着いた態度で彼女に尋ねた。
「そうなんだ。この作家知っていますか?」
「作家とかは詳しくないんですけど。絵を見るのが大好きで」
そう言いながら彼女は無邪気な顔で微笑んだ。ということはつまり知識がないということ、少なくともこの分野に関しては門外漢ということだ。脳内の役員たちが歓声を上げた。
彼女は俺に聞き返した。
「美術館とか、よく来られるんですか?」
「そうですね、気分転換でたまに」
「お一人でですか?」
「はい、一人でです」
軽い雰囲気の会話が順調に続いた。彼女は可愛らしく首をかしげた。
「なんだか珍しいですね」
「そうですか?」
めずらしいという言葉を聞いたのは高校生以来初めてだ。俺はもっと彼女との会話に引き込まれたかった。
「一人で美術館に来られる男の方って中々いないと思いますよ。あ、わたしも今日一人で来ました」
見知らぬ人に対する警戒心がないことから、彼女もまた変わった女性ということは確かだった。
「それこそ珍しいですね。そちらこそお連れ様がいるのかと」
「逆に一人で回った方が静かに見れますよね」
「超わかります。そもそも僕は一人でしか来ません」
「ふふ、なんか気が合いますね」
軽く笑う声に、俺は完全に彼女の虜になってしまった。女の武器とというものはこういうものだ。あまりにも自然な笑顔と刺激的なハイトーンの声。男はその笑い声に腑抜けになってとろけてしまうのだ。
「なんかこの絵って落ち着きますね」
彼女は作品を見つめながら言った。その言葉に俺の知的虚栄心が動き始めた。
「そうですね。でも、僕が思うには単なる風景画ってよりかは作者個人の愛情と執着が込められた作品……という気がします。例えばこの空って一見春の景色に見えがちなんですけど、よく見ると色合い的に海みたいじゃないですか。えーこの人の画風は1990年代から2000年代以降完全にスタイルが変わったんですけど。これは一番最近のものです。特にただ屋根と空だけが描かれていることからして、作者の美意識に大きな変化があったことが見られますね。僕はこの屋根の上に透明な女性が立っている、そんな気がします。つまり今までは現実の世界の欠片からイデアを求めていた作者が、抽象的で独立した部分でその断片を探すようになった……という。そういった試みじゃないですかね。この洋瓦のはっきりとした線の様子なんかに、すごく作者の変化を感じられます」
これはもちろんパッと思いついた単語や文章を羅列してほざいた感想だった。だが彼女は驚いた表情で俺を見上げた。ひょっとしたら俺は言語のマジシャンなのかも知れない。少なくとも一般人の前では。
「すご~い!めっちゃ詳しいんですね!もしかして美大生の方ですか?いや、作者本人?」
「あくまで僕の感想ですよ。絵を見て何を感じるかは人それぞれですから」
若干うぬぼれた俺はかっこつけた言いぐさで言葉の最後を飾った。彼女はすっかり俺の話に納得しているようだった。
「私、専門的な話は難しくて聞いてもよくわからないですけど、今のはすごく伝わってきました!」
「あ、本当ですか?それはよかった。次の作品行きません?」
「ぜひ~」
彼女はおとなしく後をついてきて俺と一緒に作品を鑑賞した。まるで夢のような空間に入った気がした。彼女が俺のそばに寄り添って歩くたびに、その場で一凛の百合の花が咲き始めるかのごとく、ほのかなシャネルの香りと、彼女の純粋な美意識が俺の心臓に響き渡った。
俺たちは陳列された作品の端っこまで来て、作者が自分の娘をモデルとして描いた挿絵を見ながら話を交わした。
「この作品も本当にきれい。モデルごとに雰囲気が違うというか、素敵ですよね。でも、なんかこの人の絵に出てくる対象って女の子率高いですよね?なんでだろう?」
「そうですね。僕の意見なんですけど、単純にこの人の心の片隅にある、エレガンスへの憧れなんじゃないですかね。単純に考えるとね。現代に入ってからハイパーリアリズムやらなんやらでこういう雰囲気の肖像画とかは衰退しつつあるんですけど、逆に写真やメディアじゃ写せない美しさがあるんですよ。肖像画って美化されやすいですしね。彼は現実の断片を描写したんですけど、絵柄自体は絵画的現実に基づいているんです。これらの肖像画は彼のみぞ知る非現実的で幻想的な女性像なんじゃないかと、僕は思います。まるで今この場所で、この時に偶然と僕と話しているあなたのように。」
「まあ~ジェントルですね」
はたしてこの会話は21世紀の男女が交わすような会話なのだろうか、疑問が湧いてきた。彼女はぼんやりとした表情で絵を見ていたが、隣にいた絵画コンシェルジュを呼んだ。
「本日はご来館いただきありがとうございます。作品の方はいかがでしたか?」
「とっても素晴らしかったです!この作品が気になるんですけど。これっていくらぐらいするんですか?」
「ご購入をご希望の方ですか?今、見積もりを持って参りますので、少々お待ちください」
俺は彼女の言葉を聞いた途端あっけにとられ二の句がつげなくなった。え、買うの?今この場で?
段々と彼女への疑惑が募る瞬間だった。しばらくするとスタッフが書類を持って戻ってきた
「こちらお値段の相場の方がですね。現在35万8000円となっておりまして。あ、今ご購入なさるんですよね?」
「はい!後、できれば、家まで送ってもらいたいんですけど。あ!それと額縁もお願いできますか?」
「はい、もちろんでございます。配送は無料となっておりまして、作品はすべて額を付けてお客様の元へお届けに参ります。また配送途中の保険も当社にて負担いたしますのでご安心ください。30日以内の返品の受付も可能となっております。詳しい手続きの説明は事務室の方でご案内致しますので、よろしければこちらへどうぞ」
彼女は行ってきますという風に手を軽く振ってから、スタッフについて事務室の方へと向かった。
「たまんねーな!」
彼女の後姿を見た性欲さんが叫んだ。
俺はもう一度頭の中で射精し、また射精し続けた。それは性欲さんから与えられた一つの苦難だった。一体彼女の正体はなんなんだ。できれば今すぐにでも彼女のモンドゥ・アンテリュールにプロンジェしたかった。いくら美的感覚が刺激された作品と言えども、絵は美術館に飾られているからこそ美しいものだと、そう思っていた俺にとって彼女の取った行動はかなりの衝撃だった。 よく知りもしない作品を衝動的に購入する彼女の姿はなんだかかっこよくも見えた。彼女の金銭的余裕もまた神秘的なものだった。そこがまたリビドーをいじったりしてね。
俺はひとまずギャラリーから出て近所の喫煙所に入った。タバコを口にくわえて、これからの戦略を練ることにした。しかし、驚いたな。彼女はお金持ちの令嬢なのかな。
俺は彼女ともっと話がしたかった、そして彼女がどんな人生を送っているのか、どんな感覚を持ってるのか直接知りたかった。
タバコの煙が精気のパラメータを表すかのよう立ち上った。これはきっと俺の人生に訪れたディープインパクトに違いない。俺は彼女にもう一度声をかけるチャンスをつかむために、立て続けにタバコを吸って冷静な判断を取り戻そうとした。それと同時に血圧が上昇しているような感覚もした。
「これはきっと運命だ。彼女がギャラリーから出た瞬間声をかけなければ」と考えた俺は喫煙所のパーテーションの間をのぞいて、彼女が出てくるのを待ち受けた。やがて彼女がスタッフに見送られながらギャラリーから出てくると、俺は平然と家に向かうふりをしたまま後ろを振り向いた.
「あ、またですね」
「あらっ、ふふふ。またですね。今お帰りですか?」
彼女は泰然と俺の前で立ち止まった。それと同時に脳内では作戦開始のラッパが鳴り響いた。
「そうですね。え?あの作品買い取ったんですか?」
「はい。家に届く日がとても楽しみです」
「高いのに、すごいなぁーしかもギャラリーで買う人なんて初めて見ましたよ」
「私も高いなとは思いますけどね。でも絵を飾っておくと家の中が華やかになるというか、そんな感じでつい買っちゃいました」
若干ブリーチをかけた髪の毛先を指先にクルクルと巻き付けなら話す彼女を見て、俺は内心動揺し, ごくりとつばを飲み込んだ。落ち着くまでにはまだ時間がかかりそうだった。
「そうなんだ。僕なんか一度も絵を買うとか考えたことないです。そういうのはブルジョアのすることだとばかり思ってました」
「私全然ブルジョアなんかじゃないですよ。ふふ。ただの大学生です」
「え、本当ですか?全然そう見えないです。なんかもうお嬢様って感じします」
「えーそんな風に褒めてくれて嬉しいです。お名前なんておっしゃるんですか?」
「彩木潤平と言います。あなた……は?」
照れくさそうに名前を名乗ると彼女はまぶしい笑みを浮かべながら手を差し出した。
「沢村愛深と言います。よろしくお願いします」
「こちらこそ。あの……アイミってどんな漢字なんですか?」
彼女と握手を交わしている間、俺は少しの違和感としなやかな手の肌触りにうっとりさせられた。すべすべした手を離しながら沢村愛深という名の彼女は言った。
「愛の愛に、深いの深と書いて愛深と言います~」
「本当そんな感じの方ですね。すごくきれいな名前です」
「え~嬉しい!こんなに褒められるの今日が初めてです」
彼女はどうも天然っぽいキャラクターのように見えた。外国育ちなのか、ひょっとしたらハーフではないかとも思った。 深い恋をしろという意味なのか、愛が深い人なのか、彼女の名前のルーツが知りたくなった。 どんな家庭で育ち、どんな背景があるのかについてだ。
「今から帰るんですか?」
「はい、神楽坂の方に」
「そうですか」
俺がそう聞くと彼女はあまりにも簡単に自分がどこら辺に住んでいるかを教えてくれた。確か神楽坂って都内でもかなりリッチな立地じゃなかったっけ。 彼女の出が察せされる部分だった。。
俺はこの会話をどう続けていくか悩み始めた。連絡先を聞こうかな?それともこの後時間があるか聞いてみようかな?そうやって悩んでいるうちに彼女が口を開いた。
「それとも、初めて知り合った方とお店に行って話すのもいいかも知れませんね」
「え……僕と、ですか?」
「はい。潤平さんのほかには誰もいませんよ?もしかして時間ないですか?」
バイきんぐの小峠が言ったよね「なんて日だ!」って。まさにそんな状況だった。 彼女の積極的な態度に戸惑った俺は、どもりながら答えた。
「いいえ……いや!もちろん時間ありますよ!今日休みですし、その……よければどっかのカフェでも行きますか?」
「それもいいんですけど、もう暗くなってきてますね」
彼女はビルの間に暮れゆく夕日を眺めながら、低い声でつぶやいた。
「そうですね。ちょっと遅いかもですね。この辺だといっぱいカフェ開いてますから、僕調べます」
「じゃあ、こういうのはどうですか?私の行きつけのバーがあるんですけど……そこで一杯するとか?」
「はい?」
思いもよらない提案だった。俺はズボンのポケットからスマホを取り出そうとしたが、その姿勢のまま止まってしまった。
「お酒。ダメですか?」
「いや。あの……いけるんですけど。僕は……ただ、ちょっと……急すぎて」
「あっ、ごめんなさい」
「いえいえ!大丈夫です!僕もいいですよ!最近家でしか飲まなくてちょうどよかったです。是非行きましょう!お供致します」
慌てる俺を見た彼女は、小さく笑って指をそっと唇に当て、「ん~」としてから聞いた。
「ここはそうだなぁ……お店は恵比寿の方にあるんですけど、どこに住んでますか?」
「僕、和光の方です。あ、でもそっちだと乗り換え一回すれば家に着きますから、どこでも構いません」
「あ~そっちか。わかりました。行きましょう?」