姿のない怪物
人はわからないものを恐れる。
理解できないものを拒むのは、見通せない闇夜の先にある「かもしれない」を恐れるのだ。
あれは、ある種の想像力なのかもしれない。
無知が生み出す想像物は姿なき怪物だ。
「疑わしきは罰せよ」
これは大きな誤りだ。
疑わしきことこそ、罰してはいけない。
疑いで与えたその罰は毒だ。
人間社会の猛毒だ。
罪と罰の関係は、罪に対して罰を与えるからこそなのである。
罪を犯していないものに罰を与える。
罪を犯す可能性のあるもの、または罪を犯したかもしれないものに与えてはいけない。
最近は感情の抑制ができない人が増えた。
嫌なものを嫌という精神は素直さという美徳に感じるかもしれない。
しかしながら昨今ではその嫌なものに対しての反応が過激さを増している気がする。
理解できないものへの恐怖にもにた嫌悪は防衛の手段から排斥という攻撃に変わっている気がする。
そこにあるのは正義感というのもあるのかもしれない。
だが根底には気持ち悪いという感情が抑えきれない人も多そうだ。
恐ろしいと思うことはただしいことだ。
此処で間違えたくないのは感情を否定してはいけないということなのかもしれない。
例え話で男性を恐れる女性がいるとする。
その女性はストーカー被害にあっていたので男性恐怖症になった。
そうとは知らずに近づいたら恐れられて不快に思った男性が事情を聞いたら上記の内容を知った。
ストーカーと自分を一緒にするな、男が全員そうじゃないと伝えたところで何になるというのだ。
女性は事実男性が恐ろしい。女性はそれ男性を排斥しようとしたわけではなくただ恐れただけだ。
しかしながら男性の感情も理解でき、男性の意見も尊重はできる。
不当な評価だと憤るのもわかるからだ。
だからこそお互いに近づかない、不干渉を行えばいいものだろう。
イラついたからと言ってわざわざ踏み込んで怯えさせては同じ恐怖の対象なのだから。
だが、最近はSNSなどで声が大きく聞こえるものがある。
ゾーニングされていたものが曖昧になることで立ち入ることが簡単になったことが原因だろうか。
理解のできないものが視界に入りやすくなり、理解のできないものを好む人間がいることを知れるのだ。
未知なるものが蠢いていることに恐怖を覚えるというのは理解が及ぶ。
そうして恐怖したものの中に勇者が現れる。
未知の怪物を倒すために正義を掲げる勇者が。
レッテル貼りし、排斥を行う断罪者の誕生だ。
そうして文化が失われ、職が失われ、活躍する機会は奪われて、時には人権すら奪われるかもしれない。
根底には感情という制御できない荒れ狂う化け物がいるのだ。
病への無知が、文化への無理解が、未知への恐怖が、不明への嫌悪が。
感情を抑制できぬ獣、それこそが社会を動かすこともある。
過去に人間は魔女狩りを行ったし、病を患った人を迫害した歴史のように。
抑制できぬ感情に動かされた社会、それが姿なき化け物なのだろう。
やめろと叫ぶだけでなく、己を戒めなければ、と考える必要があるのだろう。
姿なき怪物の一部は自身でもあるのだろうから。