36ページ 幻想
「……平」
誰かが自分の名前を呼ぶ気がした。
「航平」
ハッと目を覚ますと、見慣れた教室が目の前に広がっている。前に座っているのは、沙耶だった。
「航平ってば」
後ろを振り向くと、悠斗と慶介が苦笑いして立っている。
「お、おぉ……」
「いつまで居眠りしてんだよ」
慶介がツン!と航平の頭を突いた。
「え?」
「もうお昼休みだよ! ごはん、食べよ!」
悠斗が人懐っこい笑顔でお弁当箱を目の前に出して言った。慶介が慣れた様子で航平の隣にある机を移動させ、悠斗が慶介の分の椅子も彼らの席から移動させてくる。弁当箱を航平も取り出し、いつものようにごはんを食べ始めた。
航平はグルリと教室を見渡してみる。黒板寄りの入口のあたりでパンを頬張ってスポーツ雑誌を見ながらあぁでもない、こうでもないと話しているのは湯前速人、谷沢幸雄、七瀬 輝。昼休みいつもテンションが上がる蘇我篤志、渡部音駆の二人はマンガを見て大笑いしている。近宮 絢子が面倒そうに綿岡 景子の話に付き合っている。面倒そうに見えてたまに見せる彼女の笑顔に少し惹かれているのは、飯島 芳史。
「キャハハハハ!」とかん高い声が聞こえてきた。この声を聞き間違えるはずなどない。幼なじみの桃地 冴子だ。
「航平?」
ボーッとしている航平を心配そうに悠斗が覗き込んだ。
「ん?」
「どうしたのさ。今日、なんか様子おかしいよ?」
航平は悠斗の観察力に少しドキッとしたが、すぐに「そんなことねぇよ! いつもどおり!」と笑って見せた。
「そう? それならい……んけど」
「……?」
目の前の映像が一瞬、灰色に見えた。
「疲れてるのか……?」
不意に、音が消えた。
「へ?」
バサッと音を立てて落ちたのは、幸雄が持っていたスポーツ雑誌。カラン!と音を立てて転がったのは、冴子が持っていた箸。
「……みんな?」
いつのまにか、教室には航平だけが取り残されていた。
「どこに……」
その時だった。ヌルリとした感触が、航平の首に触れる。そして、耳元で聞き覚えのある声が聞こえた。
「ズルい……」
「……!」
「自分だけ……幸せになるなんて……ユルさ……ナ……イ」
「うわあああああああああ―――――っ!」
思わず叫んで飛び起きると、全員の視線が集中した。
「おぉーい、大西ぃ!」
数学の寺田が目を丸くして航平に向かって叫ぶ。
「大声出すなぁ。寝るのは勝手だけどなぁ」
ドッと笑い声が教室に沸いた。航平は顔を赤くして「すみません……」と呟いてすぐに姿勢を正した。
あの事件から3ヶ月。航平は静岡県天竜川市立天竜西高等学校に転校してきていた。あの後、楼桜高等学校は1ヶ月間立ち入り禁止となった。一時は廃校の危機にも立たされたが、副校長が学校の再建に全力を尽くすと教育委員会などに陳謝した結果、高校は廃校の危機を免れた。事件もその後、マスコミなどに取り上げられることは減少し、生徒たちも平穏な日々を取り戻していった。爆破された校舎の一部と体育館はプレハブ校舎の建設で生徒は移動し、復旧作業が行われているそうだ。
航平はその様子をよく知らない。なぜなら、3年生に進級するのを機会に転校したからだ。いくら再建するといわれても、たくさんの友人を失ったあの学校に平気な顔をして毎日通える気はなかった。それは生き残ったクラスメイトも同様だ。
市内に留まるのも嫌だという理由で転校していった者も多い。輝、稜、雅恵、愛菜は市内に留まるのですら拒み、静岡、浜松、沼津、松本と親類がいるところへそれぞれ越していった。ご両親や兄弟はそのまま天竜川市で暮らしている。
篤志はまだ心身ともに不安定な状態が続いているため、市内の総合病院に入院したままだ。けれども、先週の日曜日に見舞いに行った際は笑顔を見せ、事件のことについて話してもだいぶ安定してきていた。航平はもうすぐ退院できると篤志の母親が笑顔を見せたので、ホッとしたのをよく覚えている。綾子、荘一郎、沙耶、あさひの4人は転校したものの、自宅から通える範囲内であるため今でもメールなどを交わしてお互いの状況を報告している。辛いこと、嬉しいこと、悲しいことすべてを分かち合える仲間になった。
今のクラスも航平は大好きだ。特に親しくなったのが中森 敦志と小永 圭輔の二人。偶然にも篤志と慶介に名前の響きが同じであるこの二人は、ともにサッカーをやっている快活な少年で、すぐに航平と親しくなった。それに、女子でも委員長の神田 雅美や浜渕 真衣と親しくなっている。不思議なことに、二人もなぜか名前の響きが雅恵と真奈に似ていた。
航平は事件のことを彼らには話していない。しかし、新聞やテレビであれだけ報道されて、知らないはずがなかった。けれども、彼らはそれを知っている上でいま、こうして接してくれている。このクラスなら、言えなかったことも言える気がしていた。今度、ロングホームルームで自分の辛かったことをクラスメイトに告白する時間があるという。重すぎるのは承知だったが、航平はこの事件のことを語るつもりでいた。自分のすべてを知っておいて欲しい。航平は心からそう思うからだ。
放課後、クラブが休みなのですぐに家へ帰ろうと門を出たところで声を掛けられた。
「航平」
冴子だった。
「……よう!」
「話、する時間ある?」
「おう。ガスト、行くか?」
「うん……」
何の話かはわかっていた。しかし、航平はレストランへ向かう間、あえて他愛無い会話を冴子と交わして行くことにした。
「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」
「2人です」
「おタバコはお吸いになりますか?」
「いえ、高校生なので」
「かしこまりました! こちらへどうぞ!」
冴子と航平は禁煙席に案内されてからクスッと笑った。
「ねぇ、さっきの店員さん」
「おかしいよな」
「あたしたち、どう見ても高校生なのに『おタバコお吸いになりますか』って」
「それぐらい聞かなくてもいいのになぁ」
次に返ってきた冴子の言葉は、意外なものだった。
「でもさ。わかってると思い込んでるのは、かえって危ういよね」
「え?」
「……とりあえず、注文しよっか! すみませーん!」
肝心なところで話を切られ、少し消化不良だ。
「あたしはチーズケーキとドリンクバーで。航平は?」
「あ、じゃあチョコレートパフェで」
「いい?」
「うん」
「以上です!」
「かしこまりました。ドリンクバーはセルフサービスとなっておりますので、あちらからどうぞ」
先ほどのおタバコ店員さんが優しく案内してくれた。冴子はすぐにオレンジジュースをなみなみ注いできてから、席に着いた。
「真剣な話だけど」
「……わかってる」
航平はうなずいた。自分自身も気づいている。この日を前に、もう一度、自覚するべきなのだ。もう二度と、同じ過ちを繰り返さないために。




