第一話 「「……私?」」
――チリン。
何かに呼ばれた気がして、わたしはふと空を見上げた。
今日もいい天気だなあ。抜けるように青い空に、もくもくと湧き上がる大きな雲。夏の近付いた昼下がり、晴れて暑い最中の住宅地は静まり返っている。路上に人影が見当たらないどころか、周囲の家の窓からこちらを窺っているような様子もない。
おかしいなあ、確かに呼ばれた気がしたんだけど。って言っても名前をとかじゃなくて。
――チリン。
ほら、また。この音だ。
この音はわたしを呼んでる、そんな気がした。どうしてか分かんないけど。
耳に馴染みのない音。鈴の音みたいだけど、猫が首に着けているようなアレとは違う。かと言って、ベルや何かでもない。なんだろう、もっと高く澄んで涼やかな……あ。分かった。
「……風鈴だ。」
思わず口に出して呟いた。金属じゃなくて、あのガラスがぶつかり合う音。むかし遊びに行ったおばあちゃんの家で聞いた、夏の風に揺れる風鈴。クーラーなんかなくても風が通り抜けるおばあちゃんの家は涼しくて、風鈴の音がよく似合った。あれは、いつのことだろう……。
そんな事をぼんやり考えながら、空を見上げて歩いてたのがいけなかったんだと思う。
一歩踏み出した足が泳いだ。
「うわっ!?」
最初は、ぼーっと歩いていた所為で段差かちょっとした穴にでも足を突っ込んだのかと思った。けど、違った。唐突に足の下の地面が消えたのだ。
(何事!? 陥没? こんな道のど真ん中で? 地震? )
人間、究極に混乱するとかえって冷静になると何かで聞いたことがあるような気がする。が、このツッコミのおかしさからするとわたしには当てはまっていないらしい。いや、それともツッコむという行為そのものが冷静ってことになるのか?
(って、今はそれどころじゃなーい!)
自分の思考に自分でツッコんでるんだ、充分に冷静なんだろう。
こんな事を考えていたのは実はほんの一瞬のこと。足が泳ぎ、地面が消えたと認識した次の瞬間、
今度は周りの風景全部が消えた。
「!?」
思わず声にならない悲鳴が漏れる。
わたしの体は、何もない空間に投げ出されていた。足にも手にも空気以外の何も触れず、感じるのは速めのエレベーターに乗った時のようなゆるい浮遊感のみ。何も見えないけど、もともとわたしは暗闇など平気な性質だし、見えないお陰で落下に実感がないので全く怖くない。自分がどんな姿勢でいるのか、落下しているのか上昇しているのかもよく分からなくなって、だんだんこの何もない空間にも飽きてきた(こういう所が図太いというのだ)。
「どこまで続くのかなぁ。」
思わず声に出して呟いた時、いきなり浮遊感が消えた。
「おおうっ!?」
あまりに唐突だったもので、足が地面にぶつかったような感じがした。実際は勢いよく着地した訳でも痛みがあった訳でもないんだけど。
ただ、唐突すぎてバランスを崩し、がくんと膝をついた。それでも支えきれずに手をつき、右側へ上体が傾く。
「お……っと。」
肩が何かにぶつかった。
いや、「何か」じゃなくて「誰か」だ。わたしが右手をついたすぐ脇に置かれた左手。どうやらすぐ隣で同じようによろけた誰かがいる。
「「すみませ……」」
ぶつかったことを咄嗟に謝ろうとしたわたしと相手の声が重なり、止まった。
目と目が合う。
しばらくそのまま硬直していたように思う。やがて、わたしと相手はお互いを凝視して、同時に呟いた。
「「……私?」」