初秋の湖畔、迷子の私
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この作品は一人称で展開します。
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この作品を皆さんが少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
初秋の湖畔、迷子の私
「おや?」
気がついたら、私は山奥の路肩に、バス停と共にぼんやり立っていました。
「こ、こんにちは」
意味もなく隣にいらっしゃるバス停さんにあいさつします。当然相手はバス停さんなので、返事はいただけませんでした。
はて、ここはどこでしょうか?
かなり山奥のようです。私がいる道路が、山々の中腹に沿うように通っていることからもそれはわかります。目の前は開けた谷のようになっていて、斜面は森に覆われています。木々には所々に黄色や赤色のものが目立ちますが、大半は未だ青葉のままですね。あと一、二週間もすれば全て紅葉し、一気に秋景色となるでしょう。
さて、ところでここはどこなのでしょうか?
確か東京で新幹線に乗って、熱海へ温泉にでも浸かりに行こうとしていたはずなのですが……。何をどう間違えたら、見たこともない山の中で気付いたらバス停と一緒に並んでいる状況になるのでしょうか。うーん、世の中というものはやっぱりよくわからないですねえ。
「ここはどこでしょう?」
隣のバス停さんに、再度話かけてみました。
丸い板に細い鉄の棒がくっついていて、重石で支えられている、いわゆるオーソドックスな姿のバス停さんです。人間に例えるなら五十代のサラリーマンさん、と言ったところでしょうか。あくまで言ってみただけですが。
当然、バス停のおじ様はこちらにお返事してくれませんでしたが、頭の板にはバス停の名前がしっかり書かれていました。
《○○山》
……しっかり書かれて「いました」。少なくとも昔は。
今は劣化が進んでしまって、精々「山」という漢字が読み取れる程度です。しかしどこを見渡しても一面山だらけなこの場所で、改めて山と言われても困ってしまいます。そもそも劣化が激しすぎて、「山」という漢字が元々本当に「山」という漢字だったのかすら疑問です。実は「山」ではなく「出」だった、と言われても、否定はできません。
反対車線、元いた場所に戻るバスは、三時間後に一本だけやって来るようです。反対車線のバス停にそう書いてありました。(こちらのバス停は、頭の板がそもそもありませんでした。南無。)
携帯電話を使って助けを求めようと思いましたが、どうやらというかやはりというか、圏外で繋がらないようです。こういう時に携帯が使えないのはお約束ですけど、非常時に使えなくて何が「携帯」電話ですか。今度電話会社に抗議して、ここに電波塔を立ててもらいましょう、と思いましたが、よく考えたら 私はここがどこだかわからないのでした。
現在地不明。助けも呼べず、移動もできない。
今、私はこの山の中に、一人ぼっちで閉じ込められていたのです。
そうは言っても、このままここで何もせずに三時間バスを待ち続けるのもアレなので、とりあえず移動することにしました。どこかで電波を拾えるかもしれませんしね。アンテナが一本でも立てば、すぐに助けを呼ぶことにしましょう。今時は、じーぴーえす? というもので現在地を表示できるそうなので、まあなんとかなると思います。
ここらで私の素性を明かしておきましょうか。
私は東京で雑誌の編集者をしています。因みに独身です。先日めでたく二十四歳になりました。
今日は休暇を取り、先ほども言ったように熱海へ行こうとしていました。結果としてはこのように山中を歩いているのですが、こんなお休みの過ごし方もいいものですねえ。
女一人旅。
――言って後悔しました。すごく寂しいですね……。まだ一人旅をするような歳ではないと思ってはいるのですが……。
道路を少し歩くと、生い茂った木々の陰に入りました。秋特有の冷たく涼しい風が吹き、とても穏やかな陽気に包まれます。一旦足を止め、肩掛けバックからお茶入りペットボトルを取り出して口をつけました。
大自然を間近に感じながらの休憩は、うん、なかなかいいものです。普段オフィスにこもって画面や本とにらめっこしている生活からは考えられない、貴重な体験をしているなあ、としみじみ思いました。
それから二時間ほど、道路をてくてく歩いて、日陰に入ったら休憩するのを繰り返しました。もう夕暮れです。秋は日の入りが早い。バスの姿は一向に見えませんし、このまま夜になってしまったら一体どうしましょう?
と思っていた私の目の前に、衝撃の光景が広がりました。
「湖だ……」
延々と続いていた山と谷が、突然大きく開け、小さな湖が現れました。谷というものは、川が流れ山が削られてできるものですので、ここに湖があるのは特に驚くようなことではないのですが、それにしたって急すぎます。
「行ってみましょう」
自然と、私の足は湖の方へ向かっていました。幸い道路脇に湖のほとりまで続く遊歩道があったので、そちらを通っていくことにしましょう。
「……遊歩道があるということは、少なくとも未開の地、というわけではなさそうです……。もしかしたら、この辺りに人が住んでいるかも」
これは期待ができそうな推論です。人がいれば道ができますからね。もし誰かいらっしゃったら、電話なり何なりをお貸ししていただいて助けを呼びましょう。
遊歩道は森の中に続いています。うっそうと茂った薄暗い森。
――ではなく、所々から夕暮れの光が差し込む、明るい森でした。夕焼けの赤が木々の葉に反射し、森全体が薄い赤色に染まっているかのようです。
周りの草むらからは、秋の風物詩、虫たちの合唱が聞こえてきます。私が近づくとびっくりして歌をやめてしまいます。かわいいですね。
ふと顔を上げると、木の枝の上に小さな鳥の巣がありました。巣からは三匹のひな鳥が顔を出し、親鳥が戻ってくるのを今か今かと待ち構えています。
親鳥が戻ってきました。親鳥は取ってきた餌をひな鳥に与え始めます。ひな鳥たちはぴいぴい鳴いて、我先にとくちばしを親鳥に向けています。
少しして、餌がなくなったのでしょう、親鳥は再び森の中へ消えて行きました。ひな鳥たちはまた、親の帰りを待ち続けるのでしょう。
「うふふ」
何だか、見ていて心があったかくなる光景でした。
これも都会では味わえない感覚でしょう。
迷子になったときはどうしようかとも思いましたが、案外いい経験をしていますね。結果おーらい、こういうのもたまにはいいものです。
森に一陣の風が吹き、木々が優しく揺れていました。
森を抜け、湖畔にたどり着きました。
波風一つ立たず、しんと静まり返った水面。薄暗くなった空が反射して、かすかに震えています。それほど広い湖ではないようで、対岸が近くにあるように見えます。
私は転ばないよう足元に気をつけて、水際まで近づきました。
「……」
静か、です。
背後の虫の音色以外、邪魔な音は何も聞こえません。とっても美しい光景でした。
「……」
心が安らぎます。私は、自分がどうしてここにいるのか、自分が何故こんな状況にあるのかを、少しの間だけ忘れていました。
ピリリリリリリ
「うわっ!」
突然携帯が振動したので、みっともない声を上げてしまいました。バックから携帯を取り出します――あ、ここ電波通ってるんだ。
メールでした。送信者は……会社の後輩です。
彼は私の同僚です。入社時期からすると私が先輩で彼が後輩に当たりますが、歳は彼のほうが三歳ほど上のようです。私は「年上だけど後輩」、彼は「年下だけど先輩」ということで、両方とも距離感がつかめず、出会ってから一年近くたった今もお互い敬語でやり取りしています。
そんな彼からのメールでした。
『from:後輩くん
subject:いまどこですか?』
「ふふ。心配してくれてますね」
ちょっと嬉しいかも。
振り返り、近くにあった切り株に腰掛けます。バックを脇においてから、メールの詳細を表示します。
『先輩、また迷子ですね?
迎えに行きますから、場所を教えてください』
「むう」
さっきまで上機嫌な私でしたが、ちょっとカチンときました。『また迷子』? これはひどい言い草です。私、そんなしょっちゅう迷子にはなっていません!
……たまにはなりますけど……。で、でも、それを面と向かって言うのはさすがに失礼じゃありません? 私こう見えても一応先輩なんですから。
「無視します」
拗ねちゃいました。
メールを削除。今回ばかりは自分で何とかします。いつまでも後輩くんに頼っている私ではありません。
とまあ、そんな感じで携帯をしまった私でしたが、自分が置かれている状況をすっかり失念していました。
目の前には、静かな湖が広がっています。ここがどこだかわからない以上、自力でどうこうするといっても話になりません。
「や、やっぱり助けを……」
呼ぼう、と思って再び携帯を開きますが、なんと圏外に逆戻りしていました。何たること。
空は夕暮れから、暗闇に移り変わろうとしていました。夜が近づいてきているのです。水面には夜空の星たちがキラキラと輝いていましたが、今の私にはそれを見ていられる余裕はありません。さっきまできれいに響いていた虫の音も、今はもの悲しさと不安を際立たせるだけでした。冷たい風が木々をざわめかせます。
頬を涙が一筋、伝っていくのがわかりました。泣いているんだ、と思った途端、とめどなく涙が溢れてきました。
寂しい。怖い。
あの時、何故後輩くんに返事をしなかったのだろう。「迎えに来てください」と、ただ一言伝えればよかっただけなのに。
迷子と言われて頭に来たのもありました。でも本当は、ただ恥ずかしかっただけなんです。いつも助けてくれる後輩くんに申し訳が立たなくて、少しだけ気恥ずかしかっただけなんです。
もっと素直になれていたら――
――こんな寂しい思いはしなくてよかったのに。
「う……、ぐすっ、すん、ううう……」
寂しいです。
こんな時こそ、傍にいて、慰めて欲しいのに……。一人は、やっぱり寂しいんです。
「もし、そこの人?」
そんな私に、誰かの声がかかりました。
声のした方を向いてみると、そこには一人のおばあさんが立っていました。背中に大きな竹かごを背負っているので、山菜取りにでも出かけていたんでしょうか。
なんて考える暇もなく、気がつけば私はおばあさんの元へ駆け出していました。そのままの勢いでおばあさんに抱き付きます。私とおばあさんではかなりの身長差がありましたが、私は気にも留めませんでした。抱き付いて、それからわんわん泣き続けます。
「ひ、人がいたあ……。よかった、よかったよお……。」
ずっと一人でいた私はもう不安で不安で、だから誰かに見つけてもらえた安心感から、誰かに抱き付かなくてはいられない状態だったのです。
「あらま、おやおや……。」
泣きながら自分に抱き付いてくる私を見て、おおかたの事情を察してくれたようです。おばあさんはただただ、私の背中を優しくさすってくれていました。
おばあさんはこの辺りに住んでいる方でした。
ひとまず泣き止んで冷静になった私に、彼女はいろんなことを教えてくれました。まず、ここは山奥ではありますが街からそれほど離れてはいないようです。私が初めにいた道路は旧道で、もう誰も使わなくなった道だといいます。道理で誰も通らないと思った。谷に沿って進む新道を通れば、車で三時間ほどで街に着くそうです。
そこまで聞いて、私はすぐに帰ろうとしましたが、おばあさんは「今日一晩は泊まっていきなさい」と言ってくれました。私は申し訳ないと断ろうとしましたが、今日はもう遅いのと、そもそも移動手段がないので、結局一晩だけお邪魔させていただくことになりました。明日の朝、街まで車も出していただけるそうです。――なにより、「泊まっていきな」と言うおばあさんがとても生き生きしていて、断るにも断れなかった、というのもありましたが。
湖から数分歩くと、おばあさんのおうちはありました。昔ながらの平屋建て一軒家です。私の両親の実家も、やはりこういうおうちのつくりでしたね。
玄関から中にお邪魔すると、居間に一人のご老人が座っていました。お年を召していても力強いお姿です。おそらくは、おばあさんの旦那様でしょう。
おじいさんは突然家にやってきた私を見て不思議そうな顔をした後、
「おい、この女の方は誰だ」
とおばあさんに言いました。
「湖のそばで泣いていたから、連れてきたんだよ」
とおばあさんが答えると、おじいさんは「そうか」とだけ言って、それきり何も言わなくなってしまいました。私がいること、許してくれたのでしょうか。
「すまないね、この人無愛想で。若い人が来て、とっても喜んでるんだよ?」
おばあさんは私にそう耳打ちしています。おじいさんは「余計なことを言うな」と悪態をついていますが、心なしか嬉しそうです。
「さて、外にいて疲れただろう。お風呂を沸かすから、先に入りなさいな」
「え、そんな……」
急に転がり込んだよそ者が、いきなりお風呂をお借りするなんて……。
「いいよいいよ。今日のあんたはうちの娘みたいなもんさ。遠慮せずに入っておくれ」
……と言ってくださりました。ではここは、ご好意に甘えるとしましょう。ずっと歩きっぱなしで、体中に疲れがたまっていますし。
「す、すごい……」
このおうちのお風呂は、歴史ある五右衛門風呂でした。初めて見ましたよ、五右衛門風呂。
恐る恐る足を入れ、全身を湯船に沈めます。
「あー……。きもちいい……」
生き返った気分です。
思えば、こんな風にしっかりお湯に浸かったのも久しぶりです。家ではシャワーで済ませてしまいますし、たまに銭湯に行ったりする程度ですからね。貴重な体験です。
……。
………………。
今日はけっこう歩いたし、少しは痩せたかしら?
「なーんて、そんなの気にしても仕方ないですね」
まだまだ若いですから。それにこういうのを気にするのは、私のキャラじゃありませんし。
お風呂から出ると、居間のちゃぶ台の上にたくさんのご飯が並べられていました。
白米、お味噌汁。お魚の煮付け、酢の物、ひじきの和え物、ほうれん草のお浸し、たくあん、出し巻き卵。どれもとてもおいしそうです。
「これを全ておばあさんが?」
「いいや、わたしは特に何もしていないさ。うちの料理担当は爺さんだからね」
「おじいさんお一人で!」
それはすごいですね! 私も料理はしますが、これだけの量をこの短時間で作るのはとても大変です。
「うん」
当のおじいさんは何だか恥ずかしそうに背を向けています。
「では、いただきます」
しっかり両手で手を合わせ、いただきますをします。早速お魚を箸で掴んで、口に運びます。おいしい。見た目も味も申し分なしですね。
お米を食べ、お味噌汁をすすります。お浸しに箸を伸ばし、出し巻き卵をほおばります。どれもとてもおいしい。
「おじいさん、とってもおいしいです」
「……そうか。ありがとう」
おじいさんは照れくさそうに、頭をぽりぽり掻いていました。
しばしの間、私はおいしい料理に舌鼓を打ちました。
おじいさんの料理を堪能して、洗い物も済んだところで(私もお手伝いしようとしましたが、怒られてしまいました。「お客さんに洗い物をさせる訳にいかない」とのことです。お手伝いくらいさせていただけないと、こっちが心苦しくなります)、おばあさんに浴衣を貸してもらいました。浴衣を着たのなんて、高校生の夏祭り以来です(成人式はリクルートスーツを着ました)。
そのまま、お二人とお話しすることにしました。
おばあさんがとっくりとお猪口を持って来てくれました。
「あんた、お酒は飲めるのかい?」
「ええ、多少は」
私がそう答えると、おばあさんはにっ、と笑って(なんだか悪い笑いです……)、お猪口を私に手渡し、とっくりの中身を注ぎます。お酒は人肌ぐらいの温かさで、注いだ途端ふわっと日本の和の香りが広がりました。
飲んでみると、日本酒独特の風味が口の中を占領します。――あまりいい表現ではありませんね。ごめんなさい、私そんなにお酒詳しくないんです。いつもは安いビール、時々奮発してワインを飲む程度なんです。
とってもおいしいんです。でもそれを言い表す語彙がないのです……。後でお酒を勉強します。
私はお酒をちびりちびり飲みながら、自分のことを二人に話しました。生い立ちから、会社に勤めるようになった時のこと、働いている間に起こったこと、後輩くんと出会った時のこと、後輩くんと働いている時のこと、そして今日のことや、これからのこと……。おばあさんとおじいさんは、時に笑顔で、時に真剣な顔で、私の話を聞いてくれました。
こんなにたくさん話したのも久しぶりです。
それに今日のは、いつも後輩くんにする愚痴じゃあありません。自分のことを、たくさん話しました。二人に自分のことを話すことを通して、私も自分の考えを再確認できたような気がしました。
一通り私が話し終えた後、今度はおばあさんがお話を始めました。そこは年の功、私のような若輩者と違って何倍も多くの経験を積んできていらっしゃったようです。おばあさんはとっても楽しそうに自分のことを話してくれたので、私も自然と笑みがこぼれました。
この時私たちの間には、確かな絆が築かれていたと思います。
就寝時間となりました。
私は一人縁側に腰掛け、月を眺めています。ここから見上げる月は、都会の月よりももっときれいで、とっても大きく、手を伸ばせば届いてしまいそうなほど近くにあるように感じられました。
――後輩くんに連絡するのを忘れていました。
携帯を取り出し、少し考えてから、後輩くんに電話をかけます。
『もしもし、先輩ですか?』
ワンコールで出てくれました。
『一体どこをほっつき歩いているんです?』
「……ふふっ」
なんででしょう、笑ってしまいました。
『何笑ってんですか……』
「ふふ、ごめんなさい。――なんででしょう?」
理由なんて、考えなくてもわかります。安心したんですよ。嬉しかったんですよ。――やっぱり私には、後輩くんがまだまだ必要なようですね。
「心配しなくても大丈夫です。今日は親切なご老人に泊めてもらいました。そうですね……、明日の、夕方には東京に着くと思います」
『本当ですか? よかった……。帰り道にまた迷子になったりしませんよね』
「失礼な。私を誰だと思っているんですか?」
『すぐに迷子になる、俺の先輩ですが』
「――ばか。そんなことありませんよ」
『ま、多分大丈夫でしょう……。じゃ、また明日』
「はい。おやすみなさい」
おやすみなさい、と後輩くんが電話を切ろうとした時、私はとっさに「待って!」と言っていました。
『どうしました?』
「えっと、その……。」
な、なんで呼び止めてしまったんでしょう!
「あー、その……あ、ありがとう……」
『んん? 何ですか?』
「――! ばか!」
とっさに電話を切ってしまいました。向こうは「呼び止めたのはそっちなのになんで怒られたんだろう」と思っているに違いありません。
「どうしたんだい?」
急に大声を上げたので、おばあさんが心配してきてくれました。
「なんでもないですよ」
「そうかい? 泣いているようだけれど」
「え?」
気がつけば、私は目に涙を浮かべていたようです。いつの間に。駄目ですね、最近はどうも涙もろくっていけない。
「それが例の男かい。爺さんみたいなやつだね」
おばあさん……、それはいいのでしょうか? おじいさん怒りますよ?
でも、まあ。
「心配いりませんよ」
「?」
「これは……嬉し涙ですから」
朝になりました。
一晩貸していただいた浴衣をきれいに畳んで、おばあさんにお返ししました。おばあさんは「持って行っていいよ」と言ってくださいましたが、さすがにそこまで図々しいことはできません。
朝ご飯もおじいさんが準備してくれました。ごはんにお味噌汁、目玉焼きにサラダ、きゅうりの漬物、のりや梅干などです。とってもおいしかったです、ありがとうございました。
そして、ご飯を食べた後には……お別れしなくてはなりません。
おじいさんの運転する軽乗用車に乗り、おうちを出発します。たった一日、いいえ、一晩過ごしただけなのに、何だが故郷を離れるような気持ちになりました。
数分車を走らせると、湖が見えてきました。相変わらず物静かでしたが、その幻想的な雰囲気に、引き込まれそうになりました。
ですが、そんな湖も、数分もすれば見えなくなってしまいました。森の中を進む車の中で、少しだけ思うところがなかった、とは言いません。
十分ほどすると、今度は山の中腹にバス停を見つけました。私が昨日初めて降りた、あのバス停です。
彼らはあの時と変わらず、しっかりとそこに立っていました。とっても、立派ですね。
ああ、いけない。また涙が……。これ以上お二人に心配をかけるわけにはいきません。
本当に三時間ほどで、街に着いてしまいました。
旅というものは、存外あっけないものです。
「今まで、本当にありがとうございました」
私はおばあさんとおじいさんに深々と頭を下げます。
「いいよいいよ、よしてくれ」
おばあさんは両手で私を制し、そしてこう言います。
「その代わり……、また来ておくれ。まるで娘ができたようで楽しかったよ。今回だけじゃなく、次も来てくれると嬉しいんだ」
「――はい! 必ず!」
「今度は、例の男も連れてきてくれ」
おじいさんは照れくさそうに、そう言いました。
「はは……わかりました。連れてきます」
本当に連れてこられるかは、微妙な所ですけれど。
「さあ、電車が出ちまうよ。行った行った!」
おばあさんが笑顔で私を送り出してくれています。あの無愛想なおじいさんも、笑ってくれています。
目頭が熱くなるのがわかりました。私は涙を拭くこともせず、おばあさんとおじいさんを抱きしめました。
それから数歩進んで、振り返ります。
――遭難一歩手前から始まった旅でした。
この先どうなるか不安でしょうがなかったけれど、今は二人に会えて本当によかったと思います。
私に新しい家族が、帰るべき「家」が増えました。
今度は、絶対に後輩くんを連れてきますね。その時、またお会いしましょう。
その時まで、どうかお元気で――。
それじゃあ、
「行ってきます」
帰って来ました。
改札の向こうに、後輩くんが見えました。
「……先輩……」
走りました。
走って改札を抜けようとして、扉が閉まってしまいました。恥ずかしい。
冷静に改札を通り、後輩くんの前に立ちます。
「何やってんですか……」
「黙って」
深く深呼吸をして……、一思いに、後輩くんに抱き付きました。
「んなっ! な、何してるんですか! ここ、往来のど真ん中で――」
「黙って」
私、今大胆に抱き付きましたけど、内心すっごく恥ずかしいです。顔なんか、火が出るんじゃないかというくらい真っ赤です。
でも――今私、すっごく安心しています。
「ただいま」
その言葉を聞いて、後輩くんは暴れるのをやめてくれました。
抱き付いた私の背中を、優しくさすってくれています。
「ただいま」
もう一度、後輩くんに言いました。
後輩くんは少し笑って、こう答えてくれました。
「おかえり。待ってたよ」
あとがき
帰る場所があるというのは実にいいことです。人は帰る場所があるからいろんなことができますし、人は帰る場所があるから安心して生活できるのです。どうして私がこんなことを言っているのかというと、特に理由はなかったりします。別に私に帰る場所がないとか、そういうオチでは断じてありません。
皆さんどうも。始めましての方は始めまして、もしかしてご存知の方はお久しぶりです。最近家にも社会にも自分の居場所がない、梅花希紀でござい。
今作ですが、今までの私の文学生活の中で最も毒が少なく悲しみが少なく明るく未来のある絶望の薄い温かみ溢れる作品になっています。落ちぶれたゴミのような私にもこのようなきれいな作品が書けるものだな、と我ながら感心しています。驚きですね。実はこの他に代案を二つほど考えていたのですが、いまいちパッとしなかったので没になりました。この作品がパッとしているのかといわれればそれまでですが、前述の通りいつも暗く荒んだ物語しか書けないつまらない私が、気まぐれにも書くことができた優しい物語ということで、採用させていただきました。少しは皆さんの心に潤いと温かみを与えることができたら幸いです。
湖のモデルは那須塩原にあるとある沼です。そこは車通りも少なく、波も立たないとても静かな所でした。作者に言ってくださればその場所の写真をお見せできると思います。――作者が覚えていれば、の話ですが。
それでは、今回もこの本を読んでいただきありがとうございました。また機会がありましたらお会いしましょう。
旅行に行きたい。
山に行きたい。
温泉に入りたい。
海には行きたくない。
……。
……………。
そうだ、京都、行こう。
というわけで、次回作は京都です。
冗談です。
「小説家になろう」初投稿になります。お初にお目にかかります、梅花希紀という者でございます。
この作品はいかがでしたでしょうか。自身唯一の自信作です。と言っても後半は駆け足でしっちゃかめっちゃかですけれども、これでも自信を持って投稿できる唯一の作品なのです。逆に言えばこれ位しか自信を持てないのです。自信がないのです。自身に自信がないのです。自身がないのです。
文中に後付けされているあとがきは、この作品が最初に発表された時に付けたものです。初めの時を忘れないように、という気持ちを込めて残しておきました(断じて外し忘れたわけではありません)。
では今回はこのあたりでおさらばしておきましょう。
ありがとうございました。