表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

とある司祭の恋模様〜ヨハネ福音書1章

作者: 里奈

 語りかけて来る者は、誰もいなかった。薄光に沈んだ十字架の上の主は俯いたまま、苦痛に息を堪えている。滴り落ちる血も無く、白い布のかかった祭壇の上には、無残な影が深く刻まれるのみであった。

 聖なる空間を照らし出す光は、人間によって作り出された、無機質な灯りのみであった。長椅子を挟んで両壁に連なる、遠い西洋の地を思わせる形の電灯。時折輝きを失っては取り戻す祭壇前の電灯は、師がそろそろ交換しなくてはならないと面倒くさそうに覗き込んでいたものであった。

 ――もうすぐ春だというのにも関わらず、なんと、陽の落ちるのが早いことか。

 暗闇の世界に、生気に欠けた光のがらんどう。つい先ほどまでここは、命の家であった。多くの人の祈りが響き合い、天にまします神へと日毎の感謝が捧げられる場所。先ほどまではここに多くの命が集まり、生を喜び合っていたのだ。

 それが、今じゃあ。まるで……。

 人がいなくなるのはあっという間であった。そこに一人だけ取り残されて、今、先ほどまではオルガニストを勤めていた青年は、一人で座るのには大きすぎるオルガン椅子の上で、足をゆらゆらさせている。

 聖堂の扉を開ければすぐなのだ。その先には、賑わいがある。腹は黒いが気立てのよい師や、気は短いが心優しいシスター、厳格だが他人想いな神父が、ケーキと珈琲で自分を迎え入れてくれる。夜のミサも終わり、きっとこんな時間からでは、信徒もやっては来ない。だから、今は自分達の時間なのだ。四人の家族だけで過ごす、憩いの時間なのだ。

 でも。

 早く行かなきゃあ、と思う一方、青年は縛り付けられたように、その場から動けなくなっていた。オルガンの周辺を片付けてからすぐに出るつもりであったのに、沈黙に耳を澄ませていると、心の中で今日の出来事が鎖を結んでゆくのがよくわかってしまった。止めることもできずに、動けなくなる。最後にオルガンの蓋を閉めて聖堂を出るだけなのに、それすらもできなくなる。

 ……僕は。

 項垂れた青年の首から、姉の形見の十字架が滑り落ちる。青年は胸の上でそれを握り締めると、瞳を閉ざして手の上に手を重ねた。

 沈黙を、飲み込む。

 どうしても、先ほどのミサの後。清々しい笑顔で修道院に戻っていった、後輩、になるであろう青年の姿を忘れることができなかった。

 バリトンの声音が、穏やかに蘇る。

 これから俺、夜のお祈りを一緒にさせてもらうんです。……俺は、ブラザー達、ううん、神様の呼びかけに、きちんと、応えたい。だから、そうやって祈るつもりなんです。

 おそらくそうなるであろうことは、何となくわかっていた。ヨハネとしても、彼とはこの教会に赴任して以来の付き合いがある。長らく彼の悩み――勉学や日常生活、就職や勤め先での悩み事を聞いてきていた。

 彼は、キリスト教徒の両親に育てられ、小・中・高そうして大学と、カトリック系の学校で好成績をおさめて来たのだという。しかし、大学卒業後の就職に失敗し、偶然今の修道院で事務として働くことになった。彼としては、一時的な軽いつもりでその職場にいったのだと言うが、彼の人生を導く切欠はその何気なさの先に用意されていたらしい。

 数ヶ月前、ヨハネが彼から、よく聞かされた台詞がある。

 俺、本当に、ブラザーとか、神父になろうなんて気持ちは全く無かったんですよ。そういうのは、ヨハネさんとか、ユリウスさん達みたいな、凄い人達がなるものだって思ってたし、今でもそう思ってるんです。

 でも。

 でも、と続けて、彼は決意を秘めた瞳で、戸惑いをひた隠しにするヨハネを見上げるのだ。

 でも、ブラザーが言ってくれたんです。神様が必要としているのは、強くて、立派で、凄い人ばかりじゃあないんだって。例え弱くても、臆病でも、失敗ばかりするようなに人でも、誰にでも、誰一人として除くことなく、一番適した形で、自分の仕事を手伝ってくれるよう、頼んでくださるんだって。――だから、自分が惨めだって思って、卑屈になっちゃあいけないよって。そうやって神様の呼び声から逃げて、神様への信頼を失うことが、一番いけないことなんじゃないか、って。

 その微笑みは、優しい両親の腕の中で安心しきった幼子にも似て、屈託もなく信頼に満ち充ちているように感じられた。だからこそ彼は、この先の数々の試練を思っても、神からの呼びかけに誠実であろうと決心することができたに違いない。曇ることの無い神への信頼、つまりは愛が、愚かなほどの愛が、彼の人生に唯一無二の意味を与えてくれた瞬間であったのかも知れない。

 ヨハネはそんな彼に、差し出がましいとは思いつつも、あまりにも有名すぎる聖書の一句を手向けた。この先修道会に入会するまでから、ブラザーや司祭としての道を歩み続けるために、きっとこの言葉は、力強い励みになるはずだと信じて。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます……」

 囁いて、ヨハネは息を吐いた。

 やっぱり少し、偉そうだったかな。

 ようやく破った沈黙から、少しばかり体が解放されたような気がする。

 自嘲気味に苦笑し、顔を上げて聖堂を見渡した。祭壇の傍で手を合わせる白大理石の聖母の指先で、ロザリオの珠が光に揺れていた。

 闇に沈む天井を見上げ、ふと思う。今頃彼は、自分を支えてくれるブラザー達と共に、晩の祈りを唱えている頃なのだろうか。祈りの言葉を響かせて、主なる神の与えてくださった唯一無二の自分の生に信頼と感謝をよせている頃なのであろうか。

 ――この聖堂が沈黙に堕ちてしまう前と、同じように。

「駄目だなあ、僕も。僕が信じなくて、どうするんだよ」

 誰にともなく問いかける声音が、先の見えない高見へと吸い込まれて消える。

 意を決して立ち上がり、オルガンの蓋をそっと閉めた。身の回りをもう一度確認し、椅子の脇に置いてあった楽譜を三冊腕に抱える。

 抱え方が甘かったのか、その腕から真ん中の一冊が滑り落ちた。乾いた音をたてて、床の上に角の欠けたが開かれた。青色のペンの書き込みが、音符と一緒に一つの曲を描き出している。

 拾おうとして腰を折った瞬間、あ、と、驚きが唇から零れた。

 いけない、僕は、こんなに大切なものを、落としてしまって……。

 頁の合間から顔を覗かせていたのは、純白に金色の文字のよく映えた真新しいチケットであった。二月四日などという日付は、もうとっくに過ぎてしまっている。そういう大切な日に限って、エクソシストとしてのヨハネの容赦の無い先輩は、トスカーナでの軍事訓練などという恐ろしいスケジュールを組んでいた。ゆえに、この日ヨハネは、彼女のコンサートに行くことができなかったのだ。

 自分にとって掛け替えの無い、ピアニストの女性。誘われて断るのは、これがはじめてであった。だからせめて、チケットだけでも大切にとっておこうと、そう思ってよく使う楽譜に挟み込んであった。

 二月になる前、もうほとんど仕上がりきった曲を携えて、彼女はヨハネの元にやって来た。ピアノに向き合い、同じく音楽を愛する者としてヨハネに助言を求めた彼女を、気がつけばヨハネは黙ったままで、そっと後ろから抱きしめていた。

 僕だって本当は。その日、あなたの傍でその曲を聴いていられたら、どんなにか、幸せだっただろうに……。

 春の歌、と題された曲。彼女はきっとその日と同じように、当日も、一足早い春の中に観客を導いたに違いない。ヨハネは、それよりも一足早く、彼女の奏でる春がどれほど幸せに満ちたものであったのかを知っている。だから、確信している。先日彼女から来たメールは、きっと本当に、嘘偽りの無いものなのだ。

 ヨハネ君。おかげでね、コンサートは、大成功だったんだよ――。

 彼女の笑顔は、まるで終わりのない春を思わせる。

 触れていたくて。それが許されないのであれば、せめて傍にいたくて。愛しくて、掛け替えのない女性。

 かなうのであれば、今すぐにでも、傍に行きたいのに。

 行きたいのに……。

 再びチケットを楽譜の中に挟みこむと、ヨハネは静かにそれを閉ざした。

 途端、夢から醒めた時のように、切ない気持ちに思われる。かなわないものを望んでいた自分が、惨めでたまらなくなる。それと同時に、ふと沈黙に包まれていることが怖くなる。

 恥じるように、おびえるように、控えめな視線で、ヨハネは聖堂を見回した。しかし、白大理石のマリアも、十字架のイエスも、ヨハネの視線を受けても、その唇を少しも開こうとはしなかった。

 ――In principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum.

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 沈黙の世界。ここには、神はいない。そんな錯覚に陥りそうになる。たった一人きり、こんな風に助けを求めてみても、誰も自分の名前を呼んではくれないのだ。

 それは、自分が神を裏切ろうとしていることに対する、神の計らいなのでろうか。司祭としての召し出しを神から受けながら、たった一人の女性への想いを押さえ込むことができない自分への、神の考えある突き放しなのであろうか。

 右手で頭を抑え、長椅子の上に崩れ落ちて腰掛ける。目に付いたのは、自分が先ほどまで腰掛けていたオルガン椅子であった。あの日、よーはねくんっ、と聖堂の入り口で手を振っていた彼女が、オルガンを弾いていた自分の横に、無理やり腰掛けてきたあの場所であった。

 花の香りの、する女性。はっきりと見える幻影が、罪悪感をはっきりと見せ付けてくる。

 彼女が、笑いかけてくる。

 ヨハネ君のこと、だぁい好きだよ。だからヨハネ君も、……ねえ、好きでいてくれると、嬉しいんだけどな。

 膝の上に載せた楽譜の上で両手を握り締め、ヨハネは頭を俯けた。彼女の甘い言葉を振り払うと、今度は別の言葉に心を支配されそうになる。

 ……ヨハネさん、俺、決めたからには、必ずやり通すつもりです。それが神様の御意志なのであれば、俺は、死ぬまで責任をもって、神様の手伝いをしていくつもりです。

 修道会への入会の決意を固めた彼の決意は、もう一○以上も前に、ヨハネ自身が決意したことと同じ決意であった。それに加えてヨハネには、神から授けられた権能がある。司祭特有の人を導くための力は、自分が望んで神に使えることと引き換えにして与えられた、神からの信頼の証でもあった。

 或いは今、自分は、神からのこの信頼を、一方的に裏切ろうとしているのかも知れない。

 神様の呼び声から逃げて、神様への信頼を失うことが、一番いけないことなんじゃないか、って――。

 彼の言葉に、僕もそう思います、と頷いた自分こそが、或いは一番、何もわかっていないのかも知れない。

 僕こそが結局は、惨めで卑屈になっていて、それなのに驕り高ぶって、思い込んで。それで僕は、神様にそういう風に呼ばれたわけでもないのに、司祭になってしまって。だから今、そのしわよせが、現れてきたのかも知れなくて……。

 思った瞬間、聖堂の光がひときわ強く揺らいで沈んだ。祭壇横で辛うじて輝きを留めていた電灯が、その力を失い、光を失っていた。

「...Et lux in tenebris lucet et tenebrae eam non conprehenderunt」

 不安を吐き出すかのように、ぽつり、とヨハネは呟いた。

 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった――もしかして自分は、光である神を理解していない暗闇であるのかも知れない。ふとそんな思いにさいなまれさえしてしまう。

 楽譜の上に、指先を滑らせる。

 なんだか急に、わからなくなってしまった。今まで一途に信じてきた確信が、全く頼れないものとなってしまった。それどころか、それこそが神から離れる切欠にさえなっているのかも知れなかった。

 あの時の決意が、正しかったのかどうか、わからなくなってしまった。

 楽譜の淵を撫で、ゆっくりと三冊を持ち上げた。

 腕に抱えなおし、もう一度十字架の救い主を仰ぎ見る。立ち上がったヨハネよりも高い所から、イエスはただ一心に、自分の愛するこの世界に、愚かしいほどの愛だけを貫き通そうとしていた。

 愛という名の自分の信念を貫き通すために、死という自らの終わりまでもを受け入れた神の御子。自らを捨てるほどに、神に従順であった救い主。

 彼は、ヨハネを見つめて、黙り込んでいる。愛する者を見つめて、何も言おうとはしなかった。

 ヨハネの人生を決めるのは、神ではあるが、神ではなく、ヨハネ自身だ。神は確かな指針を与えてはくれるが、その指針に従うか否かを決めるのは、ヨハネ自身なのだ。

 自分はもしかしたら、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できてないのかも知れない。……偉そうに司祭などをやりながら、本当は、一番神を理解していないのかも知れない。

 ――わからないことだらけだ。

 いつの日からか、何かあっては、同じ自問を繰り返してばかりだ。

 昔は自分に与えられた召し出しを信じ、ただそのためだけにひたすら前向きに生きてきた、つもりであった。なのに今はどうだというのであろうか。

 自分を疑って、でも、本当のことはわからなくて。わからないから、疑い続けて。でも、そんなことばかりしていたら、全然、前には進めなくなってしまって……。

 前に、進めなくなってしまったような気がする。

 自分には、このまま司祭として、前に進む権利などあるのだろうか。本当にそうするように、神から求められているのだろうか。それともそれは――、自分の、驕りであり、高ぶりだとでも?

 やっぱり、わからないことだらけだ。

 視線を、落とす。

 ふと、カソックの袖から覗いていた腕時計の針を見て、ヨハネは諦めたように踵を返した。

 どうやら、今はこのようなことばかりをゆっくり考えていられなさそうであった。きっとこれ以上こんな所にいては、師やシスターに心配されてしまう。

 ただ、毎回思うのだ。だからといっていつまでも逃げていられることではないであろうことは、よくわかっているつもりであった。いつかはきちんと、結論を出さなくてはいけない。そんなことは、わかっていた。

 ゆっくりと、扉に向かって歩みを進める。

 暫くしてふと立ち止まり、胸元の十字架と共に、楽譜を抱きしめる。

「……でも、僕はこんなんだけど。君には、がんばってほしいな」

 新しい後輩の顔が、心を過ぎっていった。

 ねえ――、ようやく動き出した時間を、君が、大切にしてくれますように。

 やっと主の召し出しを見て、聞いて、理解したのであろう彼が、これから先ももっと、力強く、生きてくれますように――。

 扉の前で振り返り、十字架の上の主に向かって十字を印す。

 深く頭を下げ、踵を返す。少し重い扉を押し開き、ヨハネは他の三人の待つ部屋へと歩みを向けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 誰でも自分の選んだ道に対しての不安、疑問はあります。それが神に人生を捧げた司祭は、模範解答はたった一つだから、余計に苦悩する。その葛藤がよく伝わりました。今後、ヨハネ師がどのような答えを出す…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ