第七話 「沈んだ都市3」
居住区に入ると、廃墟らしさが増した。
農業区よりも建物の崩れ方が激しく、道が瓦礫に埋もれている部分もあった。しかしその瓦礫の中から、生活の痕跡が随所に見えた。扉の枠に刻まれた魔除けの文字。窓の下に描かれた家族の姿を象った壁画。庭の隅に植えられたまま石化した植物の根。誰かが使っていた調理道具の残骸。壁に掛かったままの布の痕跡。
「ここに人が住んでいた」レインは言った。
「何千人も」シアは静かに言った。「私が子どもの頃、ここは賑やかだった。朝になると子どもたちが通りを走っていた。食事の匂いがした。隣の家から話し声が聞こえた。それが全部……三千年前のある日を境に、なくなった」
「その日のことを、覚えているか?」
「覚えている」シアは前を向いたまま歩き続けた。「晴れていた。いつもより少し暑い日だった。朝から変だった、海の色が違っていた。濁った緑色になっていた。そしてお昼前に、地面が揺れた。最初は小さく、それから大きく。建物が軋む音がして、みんなが外に出てきた。次に海が来た」
「海が?」
「外側から。ドームの外の海が、急に圧力を増した。外壁の一部が限界を超えて、崩れた。ドームに海水が流れ込んできた。ゆっくりではなく、一気に」
「人は逃げられたか?」
「一部は」シアは言った。「外縁の農業区にいた人たちは比較的早く外に出られた。でも居住区、この町にいた人々は……多くが間に合わなかった。家の中にいたから。逃げようとしたときには、もう廊下まで水が来ていた」
静かな声だった。感情を排して語っているわけではなく、ただ、あまりにも長い時間をかけて何度も思い返してきたことだから、今更激しく語る必要がない、という感じの声だった。
「シアは生き残った」
「私はメジャイだから。水の中でも呼吸できる。海水が来ても死ぬことはなかった。だから逆に……見てしまった。他の人々が水に飲まれていくのを」
「それは……」レインは言葉を探した。「辛い記憶だな」
「三千年間、何度も思い出した。ループするたびに。最初の頃は、思い出すたびに苦しかった。でも今は……彼らへの申し訳なさが、静かに残っているだけ。激しさはなくなったよ。時間が経ちすぎた」
レインは何も言わなかった。ただ隣を歩き続けた。
しばらくして、シアが言った。「……あなた、何も言わないのね」
「言う言葉が見つからなかった。すまない、とか、大変だったな、とか言えるような話じゃなかったから」
シアはしばらく黙っていた。それから、静かに言った。「……それでいいよ。何も言わないことが、たまに一番正しいことがあるから」
―――
町を抜けると、視界が開けた。
広場だった。
中央に、巨大な石造りの彫刻がある。四足獣と鳥の合体した姿――ライオンの胴体に鷹の翼を持ち、人間の顔をした生き物。現実には存在しない、しかし見た瞬間に「守護者」という印象を受ける形をしていた。
「これは」
「石獣の広場」シアが言った。「ここがヴェルン王朝の政治と商業の中心だった。あの彫刻は守護獣のサフ。空と地と海を同時に支配する神獣とされていた」
「大きいな」レインはサフ像を見上げた。高さは五メートル近くある。それが台座の上に立っているから、頭部はドームの天井に届くほどだ。「よくこんなものを彫れたな」
「ヴェルン文明の石工技術は非常に高かったからね。それに、ヴェルン文字の呪文を使えば石を削る作業も普通の工具より精密にできる。だからこれだけ複雑な形が彫れた」
広場の床に、光の線が走っていた。
石畳の継ぎ目に沿って、細い光の筋が広場全体に広がっている。よく見ると、複雑なパターンを形成していた。一見ランダムに見えるが、中央のサフ像から放射状に広がり、それが広場の外縁で円を描いている。
「床全体が、一つの呪文になっているのか?」
「そう」シアは言った。「広場全体が一つの巨大な呪文図形になっている。ヴェルン王朝の政治的儀式はここで行われてた。王が呪文図形の中央に立つことで、文明全体の力が収束する仕組みだった」
「今も動いているか?」
「永焔炉と繋がっている部分は動いている。でも王が立つことなく、三千年間止まっている。溜まり続けた力が永焔炉に還流して、それがループのエネルギーの一因になっている」
「つまり誰かが中央に立てば変化が起きる?」
シアが少し考えてから答えた。「単純にそういうことでもないかな……あなたが最終的に理解すべきことの一つではある」
「また『後で』か」
「今日は教えすぎたかな」シアはかすかに笑った。「初めてここに来た日にしては」
「俺にとっては七ループ目だ。初めてじゃない」
「そうだったね」シアは広場を見渡した。「……あなたと話していると、時間の感覚がおかしくなる。私にとってあなたとの会話は毎回新鮮なのに、あなたにとっては積み重ねがある。だから私が『初めて話す』と思っている内容を、あなたはすでに知っていることがある」
「それは俺も奇妙な感覚だ。あんたと俺で、同じ会話に対して全然違う重みを感じている」
「うん」シアは静かに頷いた。「でもそれは……あなたがループを重ねるほど、私が追いついていくと思う。私も毎ループ、夢の形で断片を持ち越すから」
「今は、どのくらい覚えているか?」
「今日の朝目が覚めたとき……茶髪の人間と、廃墟で話した感覚があった。詳細は分からなかったけど、あなたを見た瞬間、この人だと分かった。感情が先に来た感じ」
「感情が?」
「信頼感、というか。初めて会う人間に持つような緊張がなかった。それが不思議だった」
レインはしばらく広場の中央のサフ像を見ていた。守護獣。空と地と海を支配する存在。しかし今は、その前に誰も立たない広場で、ただ石として立っているだけだ。
「もっと奥に行けるか? 逆ピラミッド宮殿を見てみたい」
「今日は時間的に難しいかもしれない」シアは言った。「水中呼吸石の残量を確認して」
レインは石を見た。光がまだあるが、最初より明らかに弱くなっている。
「……あとどのくらい持つ?」
「地上に戻るまでの余裕は十分ある。でも宮殿まで行って戻ってくるなら、ギリギリかもしれない」
「次のループで来る」
「そう決めてるの?」
「当然だ」レインは広場から出口へ向かいながら言った。「ここに答えがある。ループを終わらせる鍵がここにある。来ない理由がない」
シアが後ろをついてきながら、低い声で言った。「……来るたびに、新しいことを覚えていってくれるんだよね。毎ループ少しずつ。それが……」
「それが?」
「ありがたい、と思うんだよね。私にとっては毎回初めてのことでも、レインが覚えていてくれるから、次のループでは続きから始められる。三千年間できなかったことが、今はできる」
「続きから始める、というのが本来の時間の使い方だ」
「そうかもね」シアはゆっくりと言った。「続きから始める。当たり前のことなのに、三千年間それができなかった」
海底の光が、少しずつ遠くなっていった。
帰路を戻りながら、レインは思った。
この文明が三千年前に滅ばなければ、どんな世界になっていたか。
想像できなかった。しかし廃墟を歩いて見てきたものの重さは、確かに胸に残った。農業区の精密な水路。居住区の生活の痕跡。石獣の広場の巨大な守護獣。全てが三千年前にそこにあり、今も消えずにある。
滅んだものは消えない。形を変えながら、残り続ける。
その事実が、何かを示唆しているような気がした。




