第六話 「沈んだ都市2」
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レインは水中呼吸石を持って海に潜った。
シアが示した場所は、アルカの岩礁の南端から少し沖に出たところだった。一見すると何もない海面だったが、水中に入ると、海底に向かって続く石造りの階段があった。
苔と藻に覆われ、長い年月の重さを刻んだ石段が、暗い海の底へと続いている。
レインは一度だけ深呼吸して、潜った。
「……すごいな」
声も出た。水中で声が出るのは奇妙な感覚だったが、確かに言葉になった。くぐもった、少し低い音になるが、会話には支障がない。
「驚いた?」
隣でシアが泳いでいた。彼女は水中呼吸石を持っていない。それでも普通に呼吸しながら、魚が水の中を進むように自然に動いている。
そしてレインは今、シアの肌に変化が起きているのを見た。
腕から首筋にかけて、細かな鱗模様が浮かんでいた。
陸上では見えなかった。水に入ることで、それが現れた。青と銀の、繊細な幾何学的模様。入れ墨とは違う、本物の鱗の質感だった。光が当たる角度によって、青にも銀にも見えた。
「……それは」
「メジャイの証」シアは視線を前に向けたまま言った。「水に入ると出てくる。陸では隠れているけど」
少し間があった。シアは前を見たまま泳いでいた。説明を続けるかどうか迷っているような、そうではないような、判断しにくい間だった。
やがて、ぽつりと続けた。
「メジャイっていうのは……私の種族の名前。人間に近いけど、人間じゃない。半水棲の種族で、水の中でも陸でも生きられる。この鱗も、水に触れると出てくる体の仕組みの一つ。呼吸も同じで、石がなくても水中で息ができる」
「生まれつきか」
「そう。生まれたときから。メジャイは水と一緒に生きる種族だったから……ヴェルン王朝とは昔から深い関わりがあった。海底文明と、水棲に近い種族。相性が良かったんだと思う」
「今も、他にメジャイはいるのか?」
シアは少し間を置いた。「……いない。少なくとも、私の知る限りは。三千年前でも、純血のメジャイはもうほとんど残っていなかった。私が最後の一人だったかもしれない」
その声は淡々としていた。感傷を排している、というより、あまりにも長い時間をかけて折り合いをつけてきた声だった。
「美しいと思った」レインは言った。「鱗が」
シアが一瞬、動きを止めた。
「……変なこと言わないで」
「本当のことを言ったまでだ」
「そういうことを急に言う人じゃないと思ってた」
「急でもない。見たまま言っただけだ」
シアはそれ以上何も言わなかった。しかし鱗模様が、かすかに輝きを増したような気がした。照れているのか、それとも単に水の光の加減なのか、水中では判断しにくかった。
石段を下ると、海底の地形が変わっていった。普通の砂泥の海底から、石畳に変わった。ヴェルン王朝の遺構だ。石畳はきれいに整備されており、三千年の時を経てもほとんど崩れていない。その先に、巨大な構造物の輪郭が見えてきた。
丸い。
球体、あるいは半球体。海底に埋め込まれるように存在する、巨大な透明な「壁」だった。
「空気ドームだ」レインは思わず声に出した。
「そう。ヴェルン王朝の中核技術。内部は空気が保たれている。三千年間、一度も崩れたことがない」シアは静かに言った。「大きいでしょ。直径は……大陸の大きな城壁都市くらいはある」
「その中に、都市が?」
「丸ごと入ってる」
ドームに近づくほど、その規模が実感として迫ってきた。遠くから見ても大きいと思ったが、近くに来ると圧倒的だった。上を見上げても端が見えない。横を見ても端が見えない。これほどの規模の構造物が、海底に、三千年間存在し続けているということが、俄かに信じられなかった。
「これを作ったのが、ヴェルン文明か」
「そう」シアは言った。「私が生まれた頃には、もうあった。当時の私には当たり前のものだったけど、今こうして外から見ると……確かにすごいと思う」
ドームの外壁には、ヴェルン文字が刻まれていた。ただし、地上で見たものとは違い、ここのものは光っていた。かすかに青白く、規則的なリズムで点滅している。
「文字が光っている」
「呪文が起動したままになっている。ドームを維持するための、三千年間動き続けている呪文体系」シアは外壁に触れた。その指先が、触れた瞬間だけ強く光った。「ヴェルン王朝の技術はヒエログリフ型呪文体系を使う。象形文字を正確に刻むことで、物理現象を引き起こす。あのドームの外壁に刻まれているのは、全部がひとつなぎの長大な呪文。それが今も海水を外に押しやり続けている」
「三千年間、一度も止まらずに」
「そう。文字の力というのは、刻まれた瞬間から動き続ける。人間が管理しなくても、文字が正しく刻まれていれば機能し続ける。それがヴェルン文明の強みだった」
「そして弱みは?」
シアが少し間を置いた。「……一度刻まれた力を止めることが、非常に難しい。特に大規模な呪文は。だから今もこのドームは動いているし、永焔炉も動き続けている。止めようとすれば、呪文の全体を解読して、一つひとつ無効化していかなければならない」
「それは現実的じゃないな」
「そう。だからループを終わらせる方法は、永焔炉を解読することではなく、別のアプローチになる」
「別のアプローチとは?」
「それは……中に入ってから、話すよ」
ドームの入口は、外壁の一角にある小さな観音開きの扉だった。人一人がやっと通れる大きさで、周囲に細かな文字が密集して刻まれている。
「この扉は、今も開くか?」
「開くはず。一応、出入り口として機能するように設計されているから」シアは扉に手を当てた。文字がひときわ明るく光り、かちりと音がして扉が開いた。「内部の空気は地上と繋がっているから、ドームの中に入ったら水中呼吸石は不要になるよ」
「内部は空気がある?」
「ある。外と同じ空気。ヴェルン文字の呪文が空気を循環させている。三千年間、人がいなくても空気が保たれている」
レインは扉の前に立った。
「準備はいい?」シアが聞いた。
「いつでも」
「一つだけ言っておく。中は廃墟だから、崩れた建物には注意して。それから……初めて見たとき、怖いかもしれないけど、それは正しい反応だから怖くない」
「怖くない」レインは言った。「行こう」
扉をくぐった。
―――
扉の向こうに、街があった。
いや、街だったものがあった。
レインは足を踏み入れて、思わず立ち止まった。
目の前に広がっているのは、滅んだ文明の残骸だった。しかし「廃墟」という言葉が似合わないほど、その残骸は美しかった。建物が崩れていても、そこに刻まれた文字と模様は鮮明に残っている。通りを覆う石畳に複雑な幾何学文様が描かれ、かつては色彩豊かだったろう壁画の痕跡が、今も壁面にうっすらと見えた。
空気は澄んでいた。海底の密閉空間なのに、腐敗臭もなく、むしろ不思議なほど清潔な空気だった。光は外壁の呪文から漏れ込む青白い輝きが全体に満ち、昼とも夜とも取れない、独特の明るさをもたらしていた。
「なんだ、これは」レインは静かに言った。
「ヴェルン王朝の外縁区画、『葦の海』」シアが後ろから来た。「かつては農業区だった。今は何も育っていないけど」
見回すと、確かに農地の痕跡があった。今は何もない区画に、整然と並んだ溝の跡。灌漑の跡。水を導くための石製の水路。三千年前、ここで何かが育てられていた。
「これは」レインは農地跡に近づいた。「溝の形が精密だ。農業としてだけでなく、何か計算された配置がある」
「呪文と連動していた」シアは言った。「単なる農業用の溝じゃなくて、水の流れを通じてヴェルン文字の呪文を展開する仕組みだった。農業と呪文技術が一体化していた。この文明では、日常の仕事と呪文の使用が分離していなかった」
「文字を書くことが、同時に何かを動かすことになる」
「そう。だから職人も農民も、全員がヴェルン文字を使えた。特別な呪術師という存在はいなかった。みんながそれぞれの仕事に合った文字を使っていた」
「大神官というのは、何が違う?」
「より複雑で、より大きな呪文を扱う人間。個人の仕事レベルではなく、都市全体に影響する規模の呪文を担当した。ケレト=ウアスは……その最上位にいた人間だ」
ケレトの名前が出た。シアの声が、その名前を言うとき、わずかに変わる。緊張でも怒りでもなく、もっと複雑なもの。
「ケレトについて、今日は聞いても大丈夫か?」
「……どこまで話すかは、その場で判断する」シアは言った。「全部を一度に話せる状態じゃないから」
「分かった。押しすぎないようにする」
シアが少し意外そうな顔をした。「押しすぎない、か。それを自覚している人間は珍しい」
「押されて嬉しくないことは、押さない。それだけだ」
「……単純な人だ」シアは言った。しかしその声は、批判的ではなかった。
葦の海を奥へ進むと、建物の密度が変わってきた。農業区から居住区へと変わる境界線に、石造りの門の残骸があった。かつては門があったのだろう。今は柱だけが残っている。柱には文字が密集して刻まれており、それが今も薄く光っていた。
「この門に書かれているのは?」
「境界の呪文。内と外を分ける文字。ヴェルン王朝では、都市の各区画の間に境界の呪文があった。それぞれの区画が持つ機能を保護するための文字だった」
「農業区と居住区では、空気や環境が違ったのか?」
「微妙に。農業区は植物が育つように湿度と光が調整されていた。居住区は人間が快適に過ごせるように別の設定で。全部、文字の呪文で管理されていた」
「今はどうなっている?」
「全部が中間くらいの状態で止まっている。誰も管理していないから。でも文字自体は動いているから、完全に崩れてはいない。中途半端な状態で三千年間、固まっている」
その「中途半端な状態で三千年間」という言い方が、何か別のことを指しているようにレインには聞こえた。しかし今は追及しなかった。




