第五話 「沈んだ都市」
廃墟の北区画、二人の定位置になった岩の上。シアはいつもより少し早くそこにいた。レインが来るのを待っていたのかもしれない。
七度目のループでいつも通りの会話を終えたあと、レインはシアに言った。
「水中呼吸石をとりに行こう」
「……そう」シアは少し考えてから言った。「今日の満潮前なら、一時間ほどあの区画に入れる。今から行けば間に合う」
「行こう」
―――
シアの言った「古い区画」は、ガルム港からさらに北に回り込んだ先にあった。
普段は住民が近づかない場所だ。道がなく、岩礁の隙間を縫って進む必要がある。シアはその道を慣れた足取りで進んだ。長年この島の廃墟を歩いてきたことがわかる。
「この辺りは、住民も来ないのか?」レインは後ろからついて行きながら聞いた。
「来ない。昔から縁起が悪いと言われていて。あと、満潮になると水に浸かるから、危険だというのもあるよ」
「シアはよく来るのか?」
「毎日来ていた時期があるよ。長い時間をかけて、廃墟を全部歩いた。ヴェルン文字を少しずつ読めるようになったのも、ここで廃墟の文字を片っ端から読み続けたから」
「何年かかった?」
「……何百年かな」シアは何事も内容に言った。「最初は全く読めなかった。でもループしながら少しずつ覚えていった。私もリセットされていたから、覚えたことが消えて、また覚えて、消えて。普通の人間が言語を習得するより、ずっと時間がかかった」
「何百年もかけて、それでも覚えようとしたのは、なぜだ?」
シアはしばらく答えなかった。岩の隙間を跳び越えながら進んでいた。
「他にすることがなかったから」やがて言った。「それと……文字を読めるようになれば、何かが分かると思っていた。なぜここに閉じ込められているか。どうすれば出られるか。答えがどこかの文字に書いてあると思っていた」
「見つかったか?」
「一部は。でも全部の答えは見つからなかった」シアは少し間を置いた。「見つかっても、自分一人では何もできない部分が多かった」
「それが、シアが俺に話しかけた理由の一つか?」
「……そうかもしれない」シアは素直に認めた。「あなたが記憶を持ち越せると知ったとき、この人なら、と思った」
前方に岩壁が見えてきた。岩壁の下部に、石造りの通路の入口があった。半分以上が砂に埋もれており、腰をかがめないと入れない高さだ。壁には苔と藻がびっしりと付着していたが、その下にヴェルン文字が刻まれていた。
「入れるのはあと四十分ほど」シアは言った。「その後は満潮になってここは水に浸かる」
「急いで入ろう」
二人はかがんで通路に入った。
内部は思ったより広かった。通路が続く先に、少し広い空間がある。天井には亀裂が入り、そこから海水が少し滲み込んでいた。床は砂と貝殻が積もっていた。
壁の文字を見ながら進んだ。ここのヴェルン文字は、アルカの街で見るものより密度が高かった。隙間なく刻まれており、一部は二重、三重に重なっていた。
「ここに書かれているのは何だ?」
「この区画の管理に関する記録」シアは壁を読みながら言った。「水の流れを管理する呪文体系。ここはかつて、ヴェルン王朝が地上と海底を繋ぐ中継点として使っていた場所だから。人が地上から海底に行くための準備をする場所だった」
「準備というのは?」
「呼吸の準備、圧力への適応、それから……海底文明の文化への入門。ヴェルン王朝の海底都市は、外から来る人間にとって未知の場所だから、基本的な知識を教える場所がここにあった」
「今も使えるか?」
「設備は壊れている。でも……水中呼吸石だけは祭壇に残っているはず」
通路の奥は広い空間になっていた。天井が崩れかけており、海水が染み込んで床は膝下まで浸かっていた。正面に石造りの祭壇が残っており、表面に複雑なヴェルン文字が刻まれている。
祭壇の前に立ったとき、レインは足の裏に何かを感じた。水の底、石畳の下に、かすかな振動がある。規則的な、脈打つような振動。
「これは」
「永焔炉の鼓動」シアが静かに言った。「海底の最深部にある装置が動いている音だよ。三千年間、一度も止まっていない」
「三千年間」
「止まることなく、ずっと」シアの声に、わずかな何かが混じった。疲れとも、懐かしさとも取れない何か。「毎ループ、毎日、あの鼓動は聞こえていた。背景の音になりすぎて、逆に止まったら気づけないかもしれない」
「ずっとここで聞いてきたのか」
「ずっと。最初は怖かった。あんな深いところから音が届くなんて、と。でも今は……子守唄みたいなものになっている」
その言い方が少し胸に引っかかった。三千年間の子守唄。
レインは祭壇の表面を手で探った。文字の溝に指が入り、押し込むと、底の石が動いた。隙間から光が漏れてきた。青白い、柔らかな光。
引き出した石の下に、握りこぶし大の石があった。
青白く輝いている。水晶に似ているが、もっと有機的な形をしていた。まるで生き物の心臓のように、かすかに脈動している。永焔炉の鼓動と同じリズムで、わずかに光が強くなり、弱くなる。
「これが水中呼吸石か」
「そう。身に着けていると水中でも呼吸できる」シアは続けた。「ただし石の光が消えたら効果が切れる。ループがリセットされればエネルギーは回復するけど、一度の潜水で使える時間は限られている。今日が初めての潜水なら、長居しすぎない方がいいよ。死んじゃったら、ループも何もないからね」
「どのくらい持つ?」
「使い方次第で変わるけど、普通に動いていれば二時間くらい。全力で泳ぎ回れば、もっと早く消える」
レインは石を手の中で握った。温かくも冷たくもない、しかし確かな存在感がある。自分の息と同期するように、石の脈動がわずかに変わった気がした。
「すごい技術だ」
「三千年前の技術だけどね」シアはどこか遠い目で言った。
「三千年前にこれを作った文明が、海底に今も残っている」レインは石を見ながら言った。「それは……見てみたい」
シアが少し顔を上げた。「見たいと思う?」
「当然だ」
「廃墟だよ。誰もいない廃墟。壊れた建物と、三千年分の埃と、消えた人々の痕跡だけがある」
「それでも見たい」
シアはしばらくレインを見ていた。それから小さく言った。「……そう言ってくれる人は、あなたが初めてかもしれない」
「他に行った人間がいたのか?」
「何百年かに一人くらい、海底への入口を見つけた人間がいた。でも水中呼吸石なしで潜れる深さじゃないから、みんな途中で戻った。石を持って潜った人間は……昔に数人いたけど、みんな廃墟を見て怖がって戻ってきた」
「シアは廃墟を案内して、相手が怖がって戻るのを何度も見てきたのか」
「そうだよ。だから……レインが『見たい』と言ったとき、嬉しかった」
シアの声はさりげなかった。しかしその「嬉しかった」という言葉に、長い時間が込められているような気がした。
一つ確認しておかなければならないことがある、とレインは思った。
「ループされたら、この石はどうなる? また祭壇に戻るか?」
シアは少し首をかしげた。「……それは、私も正確には分からない部分があるんだけど」
「分かる範囲で教えてくれ」
「ループのリセットというのは、時間を巻き戻すわけじゃなくて、正確には……この島の『状態』が特定の時点に固定し直される、という感じ。ガルム港の住民の記憶が消えるのも、傷が治るのも、全部それ」シアは言葉を選びながら続けた。「ただし、完全に元通りになるわけじゃない。あなたの記憶が持ち越せるのがその証拠。ループが消せない何かが、ある」
「つまり、石も祭壇に戻る可能性がある?」
「普通に考えればそうなる。でも……」シアは少し間を置いた。「あなたが記憶を持ち越せるように、あなたが持っているものは戻らないかもしれない。正直なところ、試してみないと分からないな」
「次のループ次第ってことか。それなら早速、これを試してみよう」
「え?」
「時間はまだある。ここから砂浜まで行って、膝くらいの浅さのところで試せばいいよ。沖に出なくても、石を水に浸けて呼吸が変わるか確認できる」
シアが少し目を丸くした。「……そういう発想をする人だったのね」
「何事も確認してから動く方がいい」
「それはそうだけど」シアは苦笑いした。「まあ、やってみましょう。どうせまだ時間があるしね」
二人は通路を戻り、砂浜に向かった。
―――
海水が足首から膝の間くらいで波打つ場所で足を止めた。本格的な潜水には遠く及ばないが、石の効果を確かめるには十分だった。
レインは石を握ったまま、膝をついて顔を水面に近づけた。
「どうすれば発動する?」
「持っているだけでいい。石があなたの呼吸を感知して、自動的に水中でも機能するようになる。ただし意識して息を吸おうとしないと、最初はうまくいかないかもしれない。本能的に息を止めようとするから」
「……なるほど」
レインは石を握り直し、ゆっくりと顔を水に沈めた。
冷たい。塩辛い。予想通りの感覚だった。目を開けると、ぼんやりと光が差し込む水の中が見えた。暗くはないが、陸上より遠くが見えない。
息を吸った。
本能が抵抗した。水の中で息を吸うことへの根本的な拒絶感が、喉の奥でせり上がってくる。
吸え。
レインは意識的に抵抗を押さえ込み、口を少し開いた。
空気が入った。
水中なのに、確かに空気だった。肺に広がる感覚は陸上と全く変わらない。湿っている気がするが、溺れる感覚はまるでない。
顔を上げると、シアが少し心配そうな顔で見ていた。
「できた。最初は喉が拒否したが、慣れる」レインは水を拭いながら言った。「声は出るか?」
「出る。ただし水中だと音が変わる。くぐもった感じになる」
「もう一度やってみる」
今度は少し長く顔を沈めた。呼吸する。空気が来る。口を開いて言葉を作る。
「……聞こえるか?」
「聞こえる」シアが水面越しに答えた。「くぐもってるけど、ちゃんと言葉になってる」
顔を上げると、シアが珍しく少し笑っていた。
「なに」
「いや……水の中で話す人間を久しぶりに見たから。昔、ヴェルン王朝に来た人が最初にやることが大体これだった。顔を沈めて、恐る恐る息を吸って、できたと知って驚く。あなたも同じ顔をしていた」
「驚いた顔をしていたか」
「してた。口元が少し開いたまま固まってた」
「……それは恥ずかしいな」
「可愛かったよ」シアはあっさり言った。
レインは何も返さなかった。返す言葉が見つからなかった、というより、返すのが何となく悔しい気がした。
気を取り直して、石をもう一度確認した。光の強さを見る。入手したときより、わずかに弱くなっている。練習で少し使ったのだろう。
「残量は今みたいにはっきり光っていれば余裕がある。薄くなってきたら要注意。点滅し始めたらすぐ地上に出ること」
「点滅したら、どのくらい余裕がある?」
「ものの数分。点滅してから効果が切れるまでは早い。甘く見ないこと」
「分かった」レインは立ち上がり、石を服の内側に収めた。「残量が余っているうちに海底へ行く」
「今日、このまま行くの?」
「行ける状態になったなら、行く理由がない方がおかしい」
シアは少し呆れたように息をついた。「……本当に諦めが悪い人だ」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてないけど」
それでもシアは立ち上がり。「石のことで一つ、大事なことを言っておく」
「なんだ」
「ループがリセットされたとき、石がどうなるか。さっきの話の続き」シアは歩きながら続けた。「実は、以前に石を持ったまま潜水した人間が何人かいた。その中の一人が、石を持ったままループを迎えた。次のループで、その人間の手元に石は残っていた」
「次のループでも、また会いに来る」レインは言った。「今日このまま行って、海底の様子を確認する。次に来たとき、どこまで進めたかを話す」
「私は覚えていないけど、聞く」シアは静かに言った。「あなたが覚えていてくれるから」
通路を出ると、風があった。サルム海の潮の匂いが濃くなっていた。満潮が近づいている。空は夕方に向かって傾き始めており、海面が橙色に光っていた。
「行く前に一つだけ聞いていいか」レインは海を見ながら言った。
「なに?」
「海底に、怖いものはいるか。生き物とか」
シアは少し考えてから答えた。「ドームの中には、三千年間人間がいなかったから、普通の生き物はほとんどいない。ただ……ドームの外、石段を降りる途中は普通の海だから、大きな魚や底生生物はいる可能性がある」
「戦えないほどのものは?」
「私は会ったことがないけど、ナハル・カレントの近くだから、変わったものがいても不思議じゃない」
「分かった。気をつける」
「……本当に行くつもりなんだ」シアは呟いた。驚いているのか、呆れているのか、少し別の何かなのか、判断しにくい声だった。
「行くと言ったら行く」
「そういう人だよね」シアはため息をついた。しかし口元が、かすかに動いた。笑みとも取れる、小さな動きだった。「……気をつけて。初めての潜水なんだから、今日は奥まで行かなくていい。入口だけ確認して戻ってくること」
「指示を出す立場か」
「先輩として言ってるのよ。この海なら私の方が先輩だから。それと、私も一緒に行くよ。一人じゃ心配だからね」
「いいのか?」
「もちろん」シアは笑って言った。
水平線の向こうに、まだ見ていないものがある。それだけで足が動く。それだけで十分だった。




