第二話 「繰り返す朝2」
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目が覚めると、波の音がした。
頬に当たるのは砂の感触。体中が潮水でびしょ濡れで、喉の奥に塩辛さが残っている。
「……?」
レインは身体を起こした。
見渡す限り、岩と廃墟が広がっていた。
……待て。
何かがおかしかった。デジャヴュという言葉では言い表せない、もっとはっきりとした既視感。この風景を、レインはたしかに「今日はじめて」見ているはずなのに、細部まで「知っている」という確信がある。崩れた壁の模様。不規則に並んだ岩礁の形。波が引くときの音のリズム。全部、知っていた。
タルクが岩の上で釣り糸を垂れているはずだ。
振り返ると、老人がいた。
白髪交じりの、日焼けした顔の老人が、黙って岩の上に腰掛け、釣り糸を垂れていた。
やはり。
「……おじいさん、ここはどこですか」
「アルカだ」タルクは釣り糸から目を離さずに言った。
「ありがとうございます」
レインは砂の上に座ったまま、手のひらを見た。昨日の擦り傷がない。昨夜タルクの家で手当した傷が、跡形もなく消えている。
また、最初からだ。
何が起きているか、論理的に説明することはまだできなかった。しかしレインには分かった。夕暮れ時に船が転覆し、アルカに漂着し、ガルム港で一夜を過ごした――その全てが「なかったこと」になっている。時間が、戻っている。
「タルクさん」
老人が初めてこちらを向いた。「なぜ名前を知っている」
「昨日あなたに会ったからです。この場所で」
「昨日?」タルクは怪訝な顔をした。「お前さんは今日流れ着いたばかりだろう」
「そうです。でも俺はたしかに、昨日もここにいた」
タルクはしばらくレインの顔を見ていた。何かを考えているようだった。それからゆっくりと前を向き、また釣り糸に目を戻した。
「……ガルム港まで案内してやろう」
タルクの声は、わずかに低くなっていた。
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ガルム港に着いて、また広場の石造りの建物の前に来たとき、レインはもう一度ヴェルン文字を見た。象形文字に似た、生き物のような線の群れ。昨日は「見たことがない」と思った文字が、今日はどこか「懐かしい」気がした。
「この文字は」レインは言った。「ヴェルン文字ですね」
タルクが足を止めた。振り返り、レインを見る。「……なぜ知っている」
「昨日聞いた」
「昨日、俺はお前に会っていない」
「タルクさんはそう思っているでしょうね」レインは静かに言った。「でも俺は昨日、タルクさんに案内してもらって、ヴェルン文字の話を聞いた。あなたの家に泊めてもらった。夜、シアという女性が窓の外に現れた。彼女は俺に『明日また話しかける』と言って去りました。」
タルクの表情が変わった。
それは驚きでも疑惑でもなかった。もっと別のもの――何かを認識したような、静かな目だった。老漁師の口が少し開き、何かを言いかけて、閉じた。
「……泊まるかね」タルクはしばらくして、静かに言った。
「お願いします」
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タルクと一旦。別れ港を歩いて周ることにした。港の廃墟のあちこちに文字が刻まれていた。入口のアーチ。柱の側面。石畳の端。全て同じ様式の、象形文字に似た文字だった。線が複雑に絡み合い、一つひとつの文字が生き物のように見えた。
レインは廃墟を一通り歩いた後、港の外れに出た。
そこから先は一般の住民が使う区画ではなく、岩礁と廃墟だけが続いていた。かつての建造物の規模がよく分かった。今は半壊した壁や柱の残骸が残るだけだが、元の大きさを想像すると、ここに相当大きな建物があったはずだ。神殿か、あるいは何か公共の施設か。
その廃墟の最奥部に、レインは一つの石板を見つけた。
横に倒れた石板で、表面には他よりも細かく、丁寧な文字が刻まれていた。周囲の文字と同じ様式だったが、彫りが深く、文字の配置が規則的だった。まるで碑文のような印象を受けた。
これは意味を持って配置されている。
レインは石板の写しを取ることにした。懐に紙と炭筆が残っていたのはありがたかった。紙を石板の表面に当て、炭筆で擦る。文字の凹凸が紙に転写された。
写しを見ながら、レインは考えた。
この文字が読めれば、この廃墟の正体が分かるかもしれない。
しかし今の自分にはその手段がない。
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その日の夜。
シアが窓の外に現れたのは、昨日と同じ時間だった。
浅黒い肌。短い銀髪。深海の青の瞳。首元から胸元にかけて、淡く発光する入れ墨。
「また来た」レインは言った。
シアの目が、わずかに細まった。「……『また』?」
「昨日も君は来た。同じ窓の外から現れた」
長い沈黙があった。
シアはゆっくりと窓枠に肘をついた。その視線が、探るようにレインを見ている。
「証明できる?」
「証明するなら昨日、言ったことを繰り返せばいい。『あなたには昨日より前の記憶がある』『そう、おかしいの』『だからあなたは特別なの』『明日また話しかける。覚えていたら、ちゃんと答えて』――そう言って消えた」
シアの表情が固まった。
それから、今まで見せなかった表情をした。驚き、だった。隠しきれない、純粋な驚き。
「……記憶を持ち越せる人間は」シアはゆっくりと言った。「あなたが初めて」
「ループが起きている。この島で、時間が繰り返されている」レインは言った。「違うか?」
シアはしばらくレインを見ていた。
それから、ふっと笑った。
それは飄々とした、どこか自嘲的な笑みだった。しかし瞳の奥には、そこに至るまでの長い時間の重さのようなものが滲んでいた。
「あなたは、何ループ目? 五回目? 十回目?」
「二回目だ」
「……二回で記憶が繋がった人は初めて」シアは言った。「普通はもっとかかる。か、そもそも気づかない」
「普通、他の人間は気づかないのか」
「気づかない。ここの住民もタルクも、毎朝リセットされる。昨日のことを覚えていない。君が昨日会ったと言っても、彼らには本当に記憶がない。それがこの場所のルールだから」
「なぜ俺だけ覚えている?」
シアは少し考えてから答えた。「それは……まだ全部は言えない。でも、あなたに記憶が残るのはあなた自身のせいじゃない。外からの作用だよ」
「君が関係しているか」
シアの目が少し泳いだ。「……どうして?」
「勘だ」
シアはまた笑った。今度は少し苦笑いに近かった。「勘がいいのね。困ったな」
「困るなら話してくれ。隠していても俺はまたループしたら同じことを聞く」
「それはそうだけど」
シアは窓の外の夜空を見上げた。星がよく見えた。波の音が遠くに聞こえていた。
「この島で起きていることは、私一人で説明できるほど単純じゃない」シアは静かに言った。「それに……あなたが何ループ重ねても変わらない部分と、重ねるほどに変わっていく部分がある。あなたは今日で二回目。それはまだ、ほんの入口だよ」
「俺がここから出るためには何が必要だ?」
シアは今度は答えなかった。
ただ窓の外を向いたまま、少しだけ身体が固まるのが見えた。
「……今夜はここまで」シアはやがて言った。「明日もまたリセットされる。次にあなたが目を覚ましたとき、あなたは砂浜にいて、私の顔を覚えているかもしれない。そうしたら、また話しかけて」
「どこにいる?」
「どこにでもいる。この島の廃墟の中、どこかに」
シアは立ち上がった。背中の入れ墨が、もう一度青白く光った。
「一つだけ聞いていいか」レインは言った。
シアが振り返る。
「君は何ループ目だ?」
長い沈黙があった。
「……数えるのをやめたの」シアはゆっくりと言った。「何万回目かで」
それだけ言って、シアは夜の中に消えた。
波の音だけが残った。
レインはしばらく窓の外を見ていた。
何万回。
その言葉の重さを、レインはまだ完全には理解していなかった。しかし、胸の奥で何かが静かに締め付けられる感覚があった。数えるのをやめるほどの時間を、たった一人で繰り返してきた。そういうことを、この女は何でもないことのように言った。
飄々とした口調で。笑いながら。
一人で、ずっと。
「明日もここにいる」レインは誰にともなく言った。「覚えていなくても、俺が覚えている」
波の音が続いていた。
遠く、サルム海の底から、何かが静かに呼びかけているような気がした。
それが錯覚かどうか、今のレインには分からなかった。




