第九話 「沈んだ都市5」
その日の帰り際、レインは宮殿の外壁の一角に、他と異なる文字列を発見した。通常のヴェルン文字が建築の装飾として刻まれているのに対し、その文字列だけは後から付け加えられたように見えた。彫り方が違う。文字の深さが違う。そして光り方が、他より弱い。
「シア、ここを見てくれ」
シアが近づいて文字を読んだ。
「……『留まる者よ、汝は鍵なり。鍵が失われれば廻りは終わる。鍵が在り続ける限り廻りは続く』」
「誰が刻んだ?」
シアの指先が止まった。「……ケレトが刻んだ。筆跡が同じ」
「いつ?」
「永焔炉を起動させたときだと思う。三千年前に」
「『留まる者』というのは誰のことだ?」
シアは答えなかった。
しかしその沈黙が、答えだった。
レインはシアを見た。「シアのことなのか?」
「……そうかもしれない」シアはゆっくりと言った。「私がここに3千年間、止まってきたから。留まっている限り、ループは続く。私が消えれば、ループは終わる」
その言葉は静かだった。しかし「消える」という言葉に込められた重さを、レインは感じた。
「なぜシアがその役割を担っているんだ?」
「それを話すには……少し長くなるかな」
「今日はまだ時間がある。聞きたい」
シアは逆ピラミッド宮殿を見上げた。外壁の文字が薄く光っていた。それから、外壁の近くにある崩れた石段に腰を下ろした。
「……続きは次のループにする」シアは言った。「今日だけで全部話すのは、私には難しい。少しずつ、にさせて」
「分かった」
「急がせてごめん」
「急がせた覚えはない。レインが自分で決めることだから」
シアはしばらくレインを見ていた。それからゆっくりと目を逸らして、宮殿を見た。
「……レインと話していると、隠したいことが隠せなくなる気がする」シアは静かに言った。「今まで誰にも話さなかったことを、レインにはなぜか話したくなる」
「それは、俺が覚えているからじゃないか。話しても次に消えるなら、話す意味がない。しかし俺は覚えていて、次のループに持ち越せる。だから話す価値がある」
「……それだけじゃない、気がする」
「他に何がある?」
シアは少し考えてから言った。「……ちゃんと聞いてくれるから」
「ちゃんと?」
「急かさない。先回りしない。私が言うまで待つ。そういう聞き方をする人は、三千年間で初めてかもしれない」
レインはそれに答えなかった。
しかし、その言葉の重さは確かに受け取った。
次のループで、ケレトについての話を聞く。そして宮殿への入口を突破する。
その先に、ループの答えがある。
―――
十度目のループで、シアはケレトについて話し始めた。
「ケレト=ウアスは、私が生まれてから師匠になった人だった」
廃墟の石段に並んで座り、シアは静かに語った。レインは聞いた。急かさず、先回りせず、ただ聞いた。
「メジャイの純血族は当時でも少なかった。私は族長の娘で、生まれたときから大神官に仕える『大気の番人』として育てられた。ケレトが私の師匠になったのは、私が五歳のときだった」
「長い師弟関係だな」
「二十年間。私はケレトの下でヴェルン文字の読み書きを習い、呪文体系を学び、海底文明の思想を叩き込まれた。ケレトは厳しかったけど、公平だった。誰に対しても同じ基準で接した。それが私は好きだった」
「ヴェルン王朝が滅んだとき、ケレトは何をした?」
「永焔炉に籠もった」シアは静かに言った。「文明の最良の瞬間を永遠にループさせることにした。崩壊の直前、ヴェルン王朝が最も繁栄していた二十四時間を選んで、その時間を永遠に繰り返す。そういう思想だった」
「そしてあんたを鍵として固定した」
「そう。私の魂を……魂水晶に封じた。本体の魂水晶は永焔炉の中にある。今ここにいる私は、その魂水晶から漏れ出した残滓みたいなもの。幽霊に近い状態で、三千年間ここにいる」
「だから消えれば、ループが終わる」
「そう」
レインはしばらく黙って聞いていた。
「ケレトはなぜあんたを選んだ?」
「メジャイの純血族の魂は、時間に対して強い親和性を持つ。技術的な理由があった」シアは少し間を置いた。「でもケレトは……私のことを愛していたと思う。弟子として。娘のように。だから逃がしたくなかったのかもしれない。ループの中に閉じ込めれば、私は永遠に最良の瞬間の中にいられると思ったのかもしれない」
「しかし最良の瞬間は、繰り返すことで最良でなくなる」
「そう。ケレトが保存しようとした瞬間は、三千年間繰り返されたことで、もうどこにもない。最良の瞬間というのは、その後に続くものがあるから最良だった。永遠にすることで、かえって意味がなくなった」
「ケレトは今も永焔炉にいるのか?」
「いる。でも……三千年間、あの人が変わったかどうかは分からない。私には会いに行けないから」
「なぜ?」
「宮殿の防衛システムが邪魔をする。黒砂嵐は自動システムだから、ケレトが私に会いたいと思っていても防げない。私が宮殿に近づくと、砂嵐が来て記憶が削れていく。私には残す記憶が少ないから、余計に削れやすい」
「俺は記憶が残る。だから俺が行く」
「それが……あなたに頼みたかったことの一つ」シアは静かに言った。「私が三千年間できなかったことを、あなたなら、できるかもしれないから」
「ケレトと話す」
「そう。話して……終わらせる。あの人も、きっと終わりを待っている。三千年間、壁に謝罪の文字を刻み続けている人が、終わりを望んでいないはずがない」
レインは頷いた。「行く。次のループで、宮殿に入る」
シアは少し間を置いてから言った。「一つ、私があなたに言いたいことがある」
「言ってくれ」
「ループが終わった後、あなたはここから出ていく。当然そうなる。あなたには大陸に帰るべき場所があって、続きの旅がある」
「そうだな」
「私は……終わった後に何もない。消えるだけ。でも」シアは続けた。「それを理由にループを続けることは、間違っていると思う。怖いから終わらせない、という理屈は、ケレトと同じだから」
「同じ?」
「ケレトも怖かったんだと思う。文明が終わることが。だから終わらせることを選ばなかった。永遠にすることを選んだ。でもその結果、誰も先に進めなくなった。私がそれをすれば、同じことになる」
「あんたはケレトとは違う」
「どこが?」
「あんたは今こうして、俺に話している。隠さずに。それはケレトが三千年間やらなかったことだ」
シアはしばらく黙っていた。
「……海に向かって、名前を呼んでくれる? ループが終わった後、私の名前を。消えても……波になっても、あなたの声は聞こえると思うから」
「分かった。約束する」
「本当に?」
「俺は約束を破らない」
シアはかすかに笑った。今度は少し泣き笑いに近い顔だった。
「じゃあ……終わらせましょう。ケレトを止める方法を、一緒に考えよう」
永焔炉の鼓動が、低く遠く、響いていた。




