プロローグ「死者の海へ」
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テオドラン大陸の南端、港町ソルカナ。
石畳の波止場に潮の匂いが満ちる夕暮れ、レイン=アシュフォードは錆びついた桟橋の端に腰かけ、眼前に広がるサルム海を眺めていた。
サルム海――温暖な気候で穏やかで青く、しかしどこか底知れない海。テオドラン大陸の南岸を縁取るように広がるこの内海は、北の荒波とは対照的な温暖な気候をもたらす一方で、古くから不思議な伝説を数多く生んできた場所でもある。「死者の魂が波に乗って戻ってくる」「夜の海に光る都市の輪郭が見える」――漁師たちの酒場話に過ぎないと笑い飛ばすことは簡単だが、レインはそういう話を聞くたびに背筋が微かに震える感覚を覚えた。それはいつも、何か本物に近いものが混じっているときの感覚だった。
「先生、本当に行くんですか」
背後から声がした。振り返ると、調査隊の若い助手のポルが書類の束を抱えて立っていた。16歳の青年で、丸い眼鏡の奥に心配そうな目をしている。レインのことを「先生」と呼ぶ癖はいまだに直っていない。
「何度言ってもその呼び方はやめろ」レインは苦笑した。「俺はただの冒険者だ」
「でも子供たちたちに剣術を教えてるじゃないですか」
「それは勝手に鍛錬に混じってくるだけだ」
ポルは不服そうな顔をしながらも、手にした書類を差し出した。調査依頼書だった。テオドラン大陸南部の冒険者組合が出した依頼で、内容は「サルム海の深部に実在するとされるナハル・カレント、通称・死淵流の調査および、流域に残る古代遺跡の記録」というものだった。
報酬は破格だった。しかし、レインがこれを受けたのは報酬のためではない。
「死者が海から戻る」
その一文が、頭から離れなかった。
「帰りは?」とポルが聞いた。
「三週間後には戻る予定だ」レインは立ち上がり、波止場の先に停泊している調査船を見やった。船の名は「コルボ号」。南方の海に慣れた船長と十二名の船員、そして一名の調査員を乗せた、決して大きくはないが頑丈な木造船だ。「待っていなくていいぞ。次の仕事を入れていい」
「先生と一緒じゃないと退屈なんですよ」
「それは褒め言葉として受け取っておく」
レインは荷物を担いで桟橋を歩き出した。背後でポルが「気をつけて」と言うのが聞こえた。サルム海の夕暮れは深い橙色で、波の向こうに沈んでいく太陽が、海面を黄金色に染めていた。
綺麗な夕日だ。
そう思いながら、レインは船に乗り込んだ。
―――
航海は最初の二日間、穏やかだった。
コルボ号は南に向かって進み、サルム海の中央部に入った。ここまで来ると沿岸の喧騒が消え、海だけが広がる。水の色が少しずつ深くなっていく。透き通った青から、やや暗みを帯びた紺へ。そしてさらに南へ進むほど、水の色が「深さ」を感じさせる色になっていった。
「先が読めない海ですね」船長のカラムが言った。五十代の大柄な男で、サルム海を三十年航海してきたベテランだ。
「地図があまり当てにならなくなってくるため、普段はここまで南に来ることはないんですがね」
「ナハル・カレントはこの先ですか」
「そう言われています。ただ正確な位置は誰も知らないです。潮の流れを読みながら近づくしかない」
カラムは海を見る目が澄んでいた。長年の経験が、波の形や潮の匂いから情報を読み取ることを可能にしているのだろう。レインはそういう専門的な知識を持つ人間を尊敬していた。自分にはできないことを、長年の積み重ねでできるようにした人間。
「何か変わったことがあれば教えてください」
「言われなくても言いますよ。あの海流は忌まわれているんでね。乗組員の中にも、近づきたくないと思っている者がいるんですよ」
「なぜ今回、船を出してくれたんですか?」
カラムは少し笑った。
「報酬がよかった。……正直に言えば、気になっていたんですよ。三十年海に出て、ナハル・カレントの噂は何度も聞いた。でも実際に近づいた者の話は聞いたことがない。一度くらい、確かめてみたかった」
「同じですね」
「冒険者と船乗りは、根っこが似ているのかもしれない」
その夜、カラムが特製のスープをふるまってくれた。サルム海の魚と香辛料を使った、独特の風味のスープで、レインは二杯もお代わりした。船員たちと食堂で食事をしながら、他愛もない話をした。それぞれの故郷の話。海で見た不思議なものの話。家族の話。
普通の夜だった。
しかしその夜が明けた翌日の夕暮れ時、事態が変わった。
海流が変わった。
それは突然だった。穏やかだった波が急に方向を失い、船体が予期しない方向に揺れ始めた。コンパスの針が狂い始めた。カラムが甲板に出てきて、海面を鋭く見つめた。
「ナハル・カレントだ」
その言葉が言い終わる前に、巨大なうねりが来た。
波というより、海そのものが持ち上がるような感覚だった。船体が大きく傾き、固定されていない荷物が滑り落ちた。乗組員たちの叫び声。カラムの「マストを掴!」という怒鳴り声。
レインは欄干を両手で掴んだ。しかし二度目のうねりが来たとき、欄干ごと船体が傾き、レインは甲板から投げ出された。
海に入った瞬間、水が全身を包んだ。
塩辛い、冷たい水の感触。水面を見上げると、コルボ号の船底が見えた。それがゆっくりと遠ざかっていく。いや、自分が沈んでいるのか、船が離れていくのか。どちらも、どちらでもあった。
レインは泳いだ。
必死に腕を動かして、水面を目指した。
意識が薄れる前に、何かに掴まった。
板だった。流れ着いた木の板に、本能的に掴まって、あとは海流に任せるしかなかった。
それから先のことは、覚えていない。




