高飛車な姫は、浮気を絶対に許さない
「すまない、アンドレア。明日の予定は……別の日程に変えさせてくれ。急な話だが、またナンシーに呼ばれてしまったんだ」
沈みゆく夕日が、リビングに長い影を落としていた。シモンのその言葉は、冷や水を浴びせられたような静寂を連れてくる。
アンドレアは、彼のために選んだ明日のドレスと、とっておきの真紅の首飾りのことを考え、胸の奥がキリリと痛むのを感じた。
「……またですの? シモン様はいつもいつも、あの女に呼ばれたら私との約束をふいにしてまで行ってしまうのですね。私とその女、どちらが大切なんですの!? はっきりおっしゃって!」
声を震わせ、アンドレアは彼を問い詰めた。
シモンは、その知的な顔立ちに誂えたような銀縁の眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、困ったように溜息をつく。
仕立ての良いシャツの上からでも、警備の仕事で鍛え上げられた厚い胸板と逞しい腕のラインがはっきりと見て取れた。
「仕方ないだろう。行かなければ、最悪職を失いかねないんだ。わかっているよ、アンドレア……だけど、これは君のためでもあるんだ。すまないが理解してほしい」
シモンは眉を下げ、逞しい右手を彼女の柔らかな肩に置こうとした。だが、アンドレアはその手を烈火のごとく振り払う。
「触らないで! ……もう結構です。そんなにその女が大事なら、一生あちらで過ごせばよろしいわ。勝手になさったら!」
アンドレアはふいっと顔を背けると、輝く金の巻き毛を翻してシモンから離れ、逃げるように自室へと駆け込んだ。
背後でシモンが漏らした溜息が、やけに重く鼓膜に残る。
(これで八回目。ナンシーとかいう女、絶対にシモン様に気があるに違いないわ。あんなに頻繁に呼び出すなんて、卑しい泥棒猫に決まっているわ! ……ああ、もう! 腹立たしい!)
部屋に閉じこもったアンドレアは、ベッドの上に置かれたお気に入りのぬいぐるみをぎゅっと、骨が軋むほど抱きしめた。
こぼれ落ちそうな悲しみと、行き場のない怒りを、その柔らかな感触に顔を埋めて誤魔化そうとする。
傍から見れば、あまりに子供じみた振る舞いかもしれない。けれど、このぬいぐるみは二人が出会って間もない頃、シモンが「君に似ている」と言って贈ってくれた、世界で一番の宝物なのだ。
アンドレアにとって、シモンは何よりも、誰よりも大切な恋人だった。
アンドレアが幼少の頃に親を介して紹介されて以来、一緒に暮らす今に至るまで、シモンはいつもアンドレアを跪かんばかりに大切にしてくれた。
彼は常に洗練された仕草でエスコートしてくれたし、アンドレアの好きな食べ物も、お気に入りのリボンの色も、落ち着く大好きな香りも、そのすべてを熟知していた。
以前は、シモンは隙さえあれば彼女に両手から溢れるほどの贈り物をし、見晴らしのいい丘へ遠出に誘ってくれた。
「アンドレア、君は世界で一番美しいお姫様だ。僕がずっと守ってあげるからね」
眼鏡の奥の優しい瞳で見つめられ、そう囁いてくれたではないか。文字通り、彼女を世界一の令嬢のように甘やかしてくれたというのに。
それなのに最近の彼は、警備の仕事が忙しいという建前で、しょっちゅうナンシーという女の所へ向かってしまう。
(浮気……なのかしら。私というものがありながら……!)
数時間後。玄関が開く音がして、聞き慣れた足音が廊下に響いた。
「ただいま、アンドレア! この間はごめんよ、お詫びにお土産を買ってきたから。出ておいで」
部屋から黙って出てきたアンドレアは、彼と目を合わせようともせず、わざとらしく壁の絵画を眺めてみせる。だが、その実、全身の神経を尖らせて彼の動向を探っていた。
「……ふん。今更どなたが戻ってらしたのかと思えば。お土産? そんな物で私の傷ついた心が癒えるとお思い?」
「アンドレア、機嫌を直してくれよ。ほら、君が大好きな店の特別なケーキ、並んで買ってきたんだ。この匂い、好きだろう?」
甘い香りが鼻腔をくすぐる。アンドレアは葛藤の末、ようやくチラリと彼を盗み見た。
「……一口だけ、お味を見てさしあげてもよろしくてよ。でも、勘違いしないでくださいませ。これは、ケーキに罪はないからいただくのですわ。決して、あなたを許したわけではありませんからね!」
「良かった。アンドレアに嫌われたら、僕はもうおしまいだからね。世界が真っ暗になってしまうよ」
シモンが屈み込み、優しく微笑んで彼女のおでこにキスを落とす。
「ふ、ふんっ……当然ですわ。私を失ったら、あなたなんて生きていけないに決まっていますもの。感謝なさい。次は許さなくってよ!」
だが、その「次」は、残酷なほどすぐにやってきた。
青空の下、バスケットに特製の御馳走を詰めてピクニックへ行こうと約束をした当日。シモンはまたしても、申し訳なさそうな顔で「すまない、ナンシーの所へ行かないと」と告げ、そそくさと出かけてしまったのだ。
「……あり得ないわ! 二度あることは三度あるというけれど、これはもう九度目ですわよ! この私をコケにして! こうなればもう、私だって好きにさせてもらうわ! 二度とシモン様の顔なんて見たくありませんわ!」
アンドレアは怒りに任せて家を飛び出した。向かった先は、隣人のマティスの屋敷だ。
「やあアンドレア! シモンから聞いたよ。またナンシーだって?」
庭先でくつろいでいたマティスが、ニヤニヤと楽しげに目を細めて出迎える。燃えるような赤毛は陽の光に透け、軽く引っ掛けたシャツから大人の色香が漂っていた。
「そうなの! 聞いてくださる?マティス、本当に彼ったらひどいんだから! 誓いの言葉なんて、全部嘘だったんですわ。私を一番にするって言ったのに……私、もう彼を信じられませんの!」
「そうかそうか。よしよし、可哀想に。俺で良かったら、いくらでも慰めてやるよ」
マティスは甘ったるい声で囁き、アンドレアの頭をそっと撫で、金の巻き毛を指に巻きつけて遊ぶ。その馴れ馴れしい手を引っ叩いてやりたい衝動に駆られたが、今はシモンへの苛立ちが勝っていた。
マティスはアンドレアに下心があるらしく、いつもこうして隙あらば手を出してくる。
正直に言えば、アンドレアにとって彼は「手頃な暇つぶしの相手」に過ぎない。シモンへの当てつけ、寂しさを埋めるための道具。
マティスも自分が都合よく扱われていると理解しているはずなのに、それでもいいとヘラヘラ付き合ってくれるのだ。
「シモン様は、もしかしたら私よりもナンシーの方が好きになってしまったのかしら。一時の浮気じゃなくて、もう私を捨ててあちらに行ってしまうのかしら……」
「アンドレア、そう落ち込むな。ほら、こっちにおいで。……アンドレア、君みたいな最高にかわいい子を置いて行ってしまうなんて、シモンはなんて酷いやつなんだ。あんなやつより、俺の方が君を大事にできる。もっと美味しいものを食わせてやるし、夜だって寂しくさせない――」
マティスが顔を寄せ、その赤い髪がアンドレアの顔に触れようとした、その時。
「アンドレア! やっぱりここにいたのか!」
シモンが肩で息を切らしながら駆け込んできた。
眼鏡が少しズレ、シャツのボタンを一つ外した姿は、普段の冷静な彼からは想像もできないほど必死だった。
「ほら、帰ろう。こんな男のところにいるなんて、感心しないな。僕がいない間に、下品な癖を移されでもしたら困る」
「……嫌よ! 私、これからずっとマティスのところにいるんだから。シモン様なんて知らないわ! 今すぐどこかに行ってくださる?」
アンドレアは彼の腕を拒み、マティスの背中に隠れた。
「アンドレア! 言うことを聞きなさい。僕が君をどれだけ探したと思っているんだ」
「嫌! だって、シモン様が悪いんじゃない! いつもいつも私をないがしろにして! ナンシー、ナンシーって! 私より仕事やあの女の方が大事なんでしょう!? だったらそのナンシーのところへ一生いればいいじゃない!」
「まあまあ。アンドレアもそっちには戻りたくないみたいだし。彼女は俺が引き取るよ、シモン。お前にはもったいないくらい、いい女なんだぜ」
マティスが勝ち誇ったように、細い腰に手を回す。シモンの眼鏡の奥の瞳に、鋭い冷徹な光が宿った。
「……うるさい。お前は黙ってろ、マティス。その汚い手を彼女から離せ。……アンドレア、こっちを見るんだ」
シモンの声が、今まで聞いたことがないほど深く、真剣な響きを帯びた。アンドレアは溢れ出しそうな涙を必死に堪え、彼を睨みつけた。
「アンドレア。……やっと、ナンシーの街の仕事が完全に終わったよ。この間の嵐で浸水した街も復旧して、ナンシーの住民たちだけで後はやっていけるところまで落ち着いたんだ。何度も約束を破って、寂しい思いをさせてごめん。もう君を置いてどこかへ行ったりはしない。誓うよ。……ほらこれ、お詫びの『音の出るおもちゃ』。好きだろ、こういうの」
シモンがポケットから取り出したのは、押すと「プピィ!」と小気味よい音が鳴る、カラフルなゴム製の玩具だった。
「!!」
アンドレアの瞳が、これ以上ないほど輝いた。あまりの衝撃に、先ほどまでの怒りもプライドも、どこかへ吹き飛んでしまう。
「明日は一日中、遠くの原っぱに行って、君が飽きるまでたくさんフリスビーで遊ぼう。それから、今日は特別に、夕食の後にあのおやつもたくさん食べていい。ジャーキーも奮発しよう。……最高に贅沢な夜にしてあげるよ」
「!!!」
「愛してるよ、アンドレア。……さあ、僕のところへおいで」
シモンが逞しい両手を広げると、アンドレアはもう、一秒も我慢できなかった。
「シモン様!! 私も愛してるわ! 大好き! !」
「ははっ、アンドレア、そんなに顔中舐めたらくすぐったいよ。よしよし、帰ろうか。……おいマティス、二度と俺の愛犬にベタベタ触るなよ。お前、さっきから彼女の腰を撫でていただろう。そこは彼女が一番嫌がる場所なんだ」
夕暮れの道を、一人の作業服姿の美丈夫と、その足元でちぎれんばかりに尻尾を振る一匹のゴールデンレトリバーが歩いていく。
「……ちっ、俺は結局当て馬か〜。やってらんねぇな……あーあ、俺も犬飼いたい」
残された赤毛の男は、手についた犬の涎を拭いながら、盛大な溜息をついた。
シモンの歩調に合わせて、彼女の金色の毛並みが夕陽を浴びてキラキラと輝く。
(ふん、今回だけですわよ。こんなに必死に迎えに来るなんて、本当に私にゾッコンなんですのね)
アンドレアは鼻を高く鳴らし、大好きなパートナーの隣で、誰よりも誇らしげに胸を張って歩き続けた。
フランスにナンシーという街があります。




