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ジョンは貧民に配られる黒パンを受け取るため、夜明け前から神殿の裏門で待っていた。


週に一度、それも途中でパンが底をつけば終わってしまう慈善行事だったが、今日は運が良かったのか、ジョンを最後に幕を閉じた。


黒パンを持って自分が住む地下水路に戻ろうと角を曲がったところで、建物から急に飛び出してきた男とぶつかってしまった。


「も、申し訳ありません」


自分が悪かろうが悪くなかろうが、まず下手に出るのがジョンの身に染み付いており、相手が誰かも確認せずに謝った。若い頃なら怒鳴り散らして治療費を請求しただろうが、今はもうそんな気力もない。


白髪混じりなのもそうだが、ジョンがスリとして活動していた頃、

金持ちの坊ちゃんだと思って狙った相手が、実は貴族の子息で、片手首を失うという身体的欠損を負ったことが最大の理由だった。


謝りながら床に落ちたパンを拾おうと膝を曲げたが、彼らが足でジョンを突き飛ばし、ジョンは地面を転がった。


「ああ、今日はただでさえ博打に負けてついてねえのに」

「片腕のジョンじゃねえか? ジミー、お前、盗られたもんがねえか確認してみろ。このジジイ、昔はスリとして鳴らしたらしいぜ。お前がカモに見えて仕事したのかもな。ククッ」


ジョンとぶつかった男は、仲間の言葉通り念のために体を弄ってみたが、失くしたものはなかった。


「今日、博打で金は失ったが、片腕のジジイにやられるほど落ちぶれちゃいねえよ」

「いや、あるじゃねえか。ほら、そこにお前の金を盗んで買ったパンがあるだろ」


彼らにとって、ジョンが謝ろうがどうだろうが重要ではなかった。ただ、博打で負けた腹いせに、後腐れのない八つ当たりの対象が必要なだけだった。


「本当だ! ちっ、おい、この野郎。俺が甘く見えるのか?」


笑いながらジョンに暴行を加える不良たち。ジョンにしてみれば理不尽な言いがかりだったが、抵抗すれば余計に火をつけるだけだ。彼は体を丸め、奴らが飽きて立ち去るのを待つしかなかった。


その時、自分が持ってきたパンをネズミが咥えて行こうとする姿が目に入った。


こんな体で、

何も食べられなければ、すぐに死んでもおかしくない。


今までどうやって生き延びてきたと思っているんだ! 死にたくない、生きたいという思いが彼の意識を支配した。


「止まれ!」


ジョンの切実さが通じたのか、ネズミがその場でぴたりと止まった。


「今、俺たちに言ったのか?」

「ただでさえ気分が悪いんだ。今日は死ぬ覚悟をしておけ」


ジョンのパンを咥えていたネズミが振り返ると、

パンを置いて不良たちに飛びかかった。


「ぎゃあ! ネズミが噛みやがった!」


勇敢に立ち向かったネズミは、不良の蹴りで壁に叩きつけられた。しかし、そこは貧民街だ。ゴミ箱から、木造家屋の隙間から、ネズミたちが次々と溢れ出し、不良たちを取り囲んだ。


そんな非現実的な光景を呆然と眺めていたジョンは、

自分にパンを運んでくるネズミを見て、ようやく我に返った。



翌日、依頼を受けるために私は再び傭兵ギルドへと向かった。受付の女性のもとへ行くと、すぐに3階へ上がるよう言われた。


コン、コン。


「ギルド長、魔法使いのエドウィンです」

「入れ」


ギルド長室の扉を開けて中に入ると、部屋の中から熱気が伝わってきた。


「フゥー、フゥー……魔法使いか。少し待ってくれ」


ジュゼッペは顔だけ向けて私を見ながらも、体を動かし続けていた。


「急ぎではありませんから、ゆっくり続けてください」


私は椅子に座り、彼が剣術の鍛錬をする姿を見守った。ゆっくりと動いているのに、体からは汗が滴り落ちている。私も以前運動をしていたので、あのようにスローモーションで動く方がよほど負荷がかかることを知っている。


やはり、初日に見たあの破裂しそうな筋肉は伊達ではなかった。現役を退いているはずなのに、これほど自己管理を徹底しているからこその体なのだ。


他人の鍛錬を見る機会などなかったので、時間を忘れて見入っていると、いつの間にか終わったようで、彼は剣を壁際に立てかけた。


「呼んでおきながら、一人で運動してすまなかったな。若い頃からの癖で、座ってばかりいると体がなまってしまってな。時々こうして体をほぐしているんだ。これを受け取れ」


彼が銅色の物体を放り投げた。

受け取ってみると、指二本分ほどの大きさの長方形の物体だった。


「……これは?」

「傭兵牌だ。今後は常に持ち歩くように。身分証の代わりにもなる。銅牌の発行には銀貨1枚かかるが、ギルド入団の記念に俺が奢ってやる。失くすと再発行に銀貨2枚必要だから気をつけろよ」


銅牌の表裏を確認すると、私の詳細な経歴が記されていた。


「お前に向いてそうな依頼をいくつか絞っておいたんだが、その前に聞きたいことがある」

「何でしょうか?」

「人を殺したことはあるか?」


ジュゼッペの言葉に一瞬たじろいだが、正直に話した。


「ここに来る前に強盗に遭い、4人ほど殺しました」


彼もギルド長にまで上り詰めた傭兵だ。人を一人や二人殺した経験がないはずがない。


今さらそんなことを聞くのは、「正義のために! 貴様を牢に入れてやる!」などと言うためではないはずだ。


「いいな、実に素晴らしい人材が入ってくれた」


私が人を殺したと言うと、彼は非常に満足げだった。


「金になる仕事ってのは、紛争に関わることや、命を奪う仕事に直結しているからな。危険な分、報酬もいい。実力はあっても心根の優しい奴は途中で脱落していくが、経験のあるお前なら心配なさそうだ」


ジュゼッペが机の上の書類をめくり、私にできそうな仕事が二つほどあると言った。


「一つは変異野獣の討伐。もう一つは、領主との長期契約で、水軍と共にベネスを守る仕事だ」


変異野獣といえば、ここに来た初日に掲示板で見た依頼のことだろう。


興味をそそられたのは長期契約よりも変異野獣の狩りだったが、「水軍」という言葉と、領主とどのような契約をしてベネスを守るのかという点も気になった。


「領主とはどのような契約なのですか?」

「ほう、そちらに興味があるか? 最近、バイカル湖の水賊たちが暴れ回っていて厄介だという話でな」


あ、あいつらか。

一度こっぴどくお灸を据えてやったから、当分は静かにしているのではないだろうか。

抗生剤もない世界で、傷が化けて死にたくなければ、自分たちで身を慎むはずだ。


領主と契約をすれば当面は楽だろうが、ベネスを守ろうという気概があるのなら、そもそも私は訓練兵を辞めてはいない。いずれにせよ、後者を選べば人を殺める機会が生じるのは明白だ。しばらくの間、そういう仕事には手を出したくない。


「変異野獣の狩りに行きます」

「それも悪くない選択だ」



今日は変異野獣を討伐しに行く日だ。簡単に荷物をまとめて外に出た。


同行する相手の顔は知らないが、ジュゼッペが領主の騎士も一人行くと言っていたので、傭兵ギルドへ行って騎士らしき人物を探せばいい。


「変異野獣って、最近エドウィンが倒した魚みたいな特別な子のことですか?」

「ん? まあ、そうだろうな」


無人島を脱出する時に私が殺した巨大ナマズ。

あれは特異な例だが、陸地にいる変異野獣もマナを取り込んで変異したものだというから、似たようなものだろう。


「わあ、どんな子なのか見てみたいです!」

「もうすぐ会えるさ」


ウンディーネと話しているうちに、すぐに傭兵ギルドの前に到着した。銀色の甲冑を纏った騎士を見つけ、彼がいるグループの方へと歩み寄る。


数日前に見かけた猟師の姿もあった。依頼書を破って持っていったが、結局討伐隊に合流したようだ。私は傭兵たちに声をかけた。


「失礼、ここが変異野獣の討伐隊で間違いありませんか?」

「どなたですか?」

「魔法使いのエドウィンです」

「おお! ギルド長から魔法使い様が合流されるとは聞いております。よろしくお願いします」


集まっている傭兵たちと簡単に挨拶を交わし、出発まで待機した。


じっと立って周囲を見渡していると、猟師が私を覚えているのか様子を窺っていたので挨拶を交わした。すると、彼はぎこちない笑みを浮かべて挨拶を返してきた。


「全員揃ったな。出発するぞ」


私たちは騎士を先頭にベネスを後にした。


昼時になり、適当な場所に腰を下ろして各自持参した食べ物で食事をしていると、私の隣に猟師が近づいてきた。


「これ、食べてみませんか?」


彼の境には干物があった。


「頂こう」


触ってみると、適度な弾力がある。

口の中で噛み締めるほどに味が出る、なかなかの一品だ。

今までの生活で、こんな食べ物を口にする機会がいつあっただろうか。


「冬の間に俺が自分で干したやつです」

「美味いな」

「そう言っていただけると、作った甲斐があったというものです。ハハ」


一度きっかけを掴んだ猟師は、昼食の時間が終わっても私の隣から離れようとしなかった。


「先日の件は失礼しました。変異野獣の討伐件を熱心に見ておられたので、てっきり同業者かと思ったのですよ」

「私が? そう見えるか?」


私は彼のように獣の皮を羽織っているわけでもない。何を見て私が猟師だと思ったのか気になった。


「うーん、そうではないのですが、猟師の直感とでも言いましょうか。うまく言葉にはできませんが、時々、パッと感じるものがあるのです」

「……」


私に、これまで殺してきた動物たちの霊でも憑いているのだろうか。

猟師の直感と言われると信憑性に欠けるが、なんだか背筋が凍る思いだった。

精霊だっている世の中だ、幽霊だってもしかしたらいるかもしれない。私が見えていないだけという可能性もある。


「今も私から、その霊的なものというか、超自然的な何かを感じるか?」


私の隣にいるウンディーネのことを考慮しての問いだった。

彼が何と答えるか気になり、耳を傾ける。


「いいえ。今は特に何も感じません」


特別な力があるわけではないようだ。

ウンディーネがいる方向を指差して「このあたりに何かいます」とでも言えば、神社の巫女のような能力があるのかと考えたのだが。


私は話題を他に転じた。


「君は今回、討伐しに行く変異野獣がどんな奴か知っているか? 聞くところによれば、熊が変異したらしいが」

「私もよく知りません。行って見てのお楽しみ、というところでしょう」


猟師は荷車を指差しながら言葉を継いだ。


「それでも、熊を狩る時に使う道具は揃えてきました。成体の熊を仕留めるだけでも危険なのに、それが変異したとなれば……。傭兵ギルドに掛け合って、最高級の物を持ってきましたよ」


彼の言う通り、動物界最強の生物である熊が変異したとなれば、通常の狩りよりも遥かに危険だろう。

とはいえ、変異野獣一頭を狩りに行く戦力は、騎士一名に傭兵が十数名。

これだけの兵力が動くのだから、失敗するとは到底思えなかった。


変異野獣一頭を倒すのに、私が必要なのだろうか。

私としては金だけもらって何もしなくて済むなら万々歳だが、傭兵ギルドが形を整えるために私を組み込んだのではないかと思えてならない。


最初の依頼だから、簡単なものを回してくれたのだろう。

丸一日かけて、ようやく第一の目的地に到着した。

変異野獣は岩塩がある場所に好んで出没するというが、私たちはそこから少し離れた場所に陣を張った。


「今日は休み、明日討伐に向かう。傭兵たちが不寝番を立てろ」

「はっ」


幸いなことに、私は不寝番から外された。


魔法使い、万歳だ。


焚き火の前に座って適当に食事を済ませ、火を眺めてぼーっとしていると、誰かが話しかけてきた。


「エドウィン魔法使い」


騎士の隣に影のように付き添っていた男だ。


「何か御用ですか?」

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