時計の針 ――完璧だった婚約者を亡くした私と、二番手の夫
「死」と「犯罪」が出てきます。苦手な方はご注意ください。
「もう終わりにしよう」
夫が離婚届をテーブルに置いた。
「なにを、言っているの?」
妻はあどけなさを装って、小首をかしげた。内心の焦りを隠して。
「もう、うんざりなんだよ。いつまで死んだ元彼を引きずるつもりだ」
夫はダイニングテーブルに片肘をついた。
「若くして亡くなったのよ。ひどいこと言わないで」
「じゃあ、一生、そいつを弔って生きていけ。俺は、二番手として生きていくなんてごめんだ」
「あなたが一番に決まってるじゃない」
妻は声を震わせた。
「じゃあ、なんでいつまでも死んだ男の時計をしているんだ。
結婚記念日にペアの時計を贈っただろう。あれはどうしたんだ?」
妻は自分の左手首を押さえた。
「……大事だから、仕舞ってるだけよ」
「どの引き出しにしまったか、覚えてるか?」
夫の声は一段と低くなり、目が剣呑な光を宿した。
妻は答えることができなかった。
もらってすぐに……ジュエリーケースには入れていない。印鑑と同じ場所だったかと、記憶を辿る。
すぐに諦めて、開き直ることにした。
「だって、こっちの方が高いのよ」
「はっ。安月給で悪かったな。おまけにセンスも悪いってか」
「そういうことを言ってるんじゃないでしょ」
この男を手放したら、生活に困る。なんとかなだめないといけない。
少し拗ねた顔は、愛しいと思えば可愛く見え、憎いと思えば苛立ちを募らせる代物と化した。
「お前さぁ。そいつの婚約者だって言ってるけど、本当かよ?」
「……どういう意味?」
妻の態度から媚びが消えた。
「本当に大切にされていたら、女物の時計を贈られてたんじゃないかって言ってんの。
遺品をかっぱらってきたんじゃないだろうな?」
「ひどい! なんてことを言うのよ」
妻はテーブルを叩いた。
「これ以上言われたくなきゃ、離婚届にサインするんだな。一人でセレブの亡霊にしがみついていればいい」
「私だって、彼が生きていてくれたらって思うわよ」
故人を侮辱する言葉に、妻は両手をついて立ち上がった。
「ほら、それが本音なんだろう。もういないから、しかたなく俺で妥協したって? 馬鹿にするな」
座ったままの夫は、妻を見上げて、睨みつけた。
「これ以上耐えられない。
一週間以内にそれを提出しておいてくれ。提出されていなかったら、弁護士に頼むからな」
夫はゆっくりと立ち上がり、記入済みの離婚届を妻の方に押し出した。
妻は眉を寄せた。
「ちょっと、家賃はどうするのよ」
「今月までは払う。月が変わる前に出て行くか、不動産屋に引き落とし口座の連絡をするんだな」
夫は悲しい表情を浮かべた。
本当に、金のために一緒になっただけなんだと、思い知らされて。
「浮気をしたわけじゃないのに、離婚なんかできないわよ」
妻はなんとか自分に有利な状況を作ろうと、必死に考えた。
「その婚約者とやらを想い続けているんだから、俺にとっては充分浮気だ。
いや、本命はその男のままなのか……ははは。
生き別れならいいけど、死に別れとは再婚するなって、ほんとだな」
「なにそれ」
夫が、また、小難しいことを言い出した。こういうところが鼻につくのだと思う。
「憎み合って別れたなら再婚してもいいが、病没の場合は美化された思い出がライバルになるから勝てないってことさ」
美化していると言われて、カチンときた。妄想ではなく、事実を思い出しているだけだ。
「仕方ないでしょう。お金持ちで、かっこ良かったんだもん」
「貧乏で、平凡で悪かったな。比べられるのも、うんざりなんだよ」
夫の目は、見たことがないくらいに冷たかった。
「私まで忘れたら、彼が生きていた証が無くなっちゃうじゃない」
心優しい人間として、人を悼むのは当然だと思う。
「知るか! 俺にとっては見たこともない他人だ。いい加減にしろよ」
大してかっこ良くもないくせに、冷たい、平凡な男。だが、安定した収入はある。
誠実で裏切らない男。だから、選んだ。
目を潤ませて、見つめる。
「幸せになろうって言ってくれたじゃない。……嘘つき」
責めるのではなく、媚びすぎないように、だけど、可愛く思われるように……。
「いつまでも過去の男に未練たらたらで、向き合おうとしないじゃないか。もう、疲れた。
気付いてないのか?
幸せになろうとしてないんだよ、お前」
哀れむような顔をする夫。
幸せになろうとしていない?
こんなに一生懸命に考えているのに?
思いもしない言葉を投げつけられ、呆然と立ち尽くす。
夫はすでに準備していたようで、スーツケースを転がして玄関に向かう。
「どこに行くの?」
声が掠れた。
「ビジネスホテルかウィークリーマンション。とにかく、お前の顔を見なくて済むところに行く」
「ま、待ちなさいよ。勝手すぎる」
「……よく、そこまでしらを切れるな」
バサッと投げつけられたのは、興信所の封筒だった。
「……あ」
「言わずに別れようと思ったのに。
俺が知らないと思ってるなら、大間違いだ。
お前、美人局やってたんだな。元婚約者って、その相棒だろう」
「もう、やってない。昔の話よ」
こんな男にバレるとは思わなかった。興信所って、そんなことまで調べるの?
もう足を洗ったし、終わった話だ。
「恐喝、詐欺、強盗――ってところか?
時効とか詳しくないけど、お前は現在進行形でお尋ね者なんじゃないの」
一瞬、コイツを黙らせる方法が頭をよぎった。
そう、婚約者がやっていたことを思い出して……。
「ああ、これのコピーをお前の実家に送っておいたから。俺を殺しても無駄だぞ」
ギクリとした。こんなに鋭い男だったのか。
「な、なんで?! 親は関係ないでしょー!!」
血の気が引いて、絶叫がほとばしる。
いや、実家なら娘のために黙っていてくれるかも?
逆に、金を集られたら、どうすれば……。
「その時計、本当に婚約者が買ったのか? 誰かから強奪したものじゃないといいな」
何かがポキリと折れた。
信じられるもの、拠り所……足元がぐらりと揺れ、床に座り込んだ。
「と、時計、明日から肌身離さずつけるわ。もらって、嬉しかったのよ。本当よ」
急いで腕時計を外して見せる。
「子ども。そうよ、子どもができてたら、離婚できないわ」
「何ヶ月もしてないだろう! だから、浮気かと思って、俺は……」
夫は壁を叩いた。
こんな時でも、私を殴らないのね――優しい人だと再認識する。
それなのに、もう、引き留める言葉が浮かばない。
色仕掛けが通じなくて、落とすのに時間がかかった男。
人当たりはいいが、なかなか懐を開いてくれないガードの硬さ。
だから、「この男なら安心できる」と考えたことを思い出した。
そして、裏切られたと思ったら、二度と許さないのも……知っている。
しなだれかかって、胸を押しつけて、なし崩しにできない場合はどうすればいい?
玄関のドアが重たい音を立てて閉まるのを――ただ、見ていた。
興信所の人に、美人局を一緒にやっていた子がペラペラしゃべりました。
若い子に立場を追われて自分は生活に苦労しているのに、この主人公は結婚したので妬んでいます。




