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The Man Who Licked Away My Tears

作者: 神里光
掲載日:2025/11/19

 歪んだエレアコの音が部屋に響く。一人暮らしの1K。もちろん楽器は禁止。その規則に触れない程度の大きさで。さっきまでエレアコが掛けてあった、ティファニーみたいな色のレスポールと整頓された本棚の間の空間は、私の心によく似ているのかもしれない。

 NirvanaのThe Man Who Sold The World

 「カートコバーンは左利きだからさ、俺好きすぎて一瞬左で弾こうかと思った時期あったのよ。ジミヘンも好きだしさ。」

 私たちが初めて会った日、夜なのに汗ばんでくるような真夏に、堀川通のコンビニの近くでそんなことを話していたような気がする。彼が好きなものは全部好きだ。音楽も映画も本も。でもそれは作品そのものが好きなんじゃなくて、きっと彼のことが好きなだけだ。スカートとローファーで、うんざりしながら家と学校を行き来していたころの私には、何一つ刺さらないと思うし、仕事から帰ってきて靴下も脱がずに発泡酒の缶を開けて煙草をくわえているような数年後の私も、きっとNirvanaなんか聞いていないと思う。ジミヘンやカートコバーンが27歳で死んでしまったことも、その27クラブには、他にDoorsのジムモリソンやローリング・ストーンズのブライアンジョーンズがいることも、そんなことを覚えているのはきっと今だけだ。定期テストの対策で覚えたアメリカの大統領や数学の公式をもうほとんど覚えていないのと同じように、彼のことを好きじゃなくなることができたら、なにもかも忘れてしまうと思う。自分でも好きかどうかよくわからないようなものが好きなのは、きっと彼のことが好きだからで、いつなのかわからないけれどこの気持ちに区切りをつけることができたら、それはものすごく寂しいことなのかもしれないけれど幸せなことでもあるのかもしれない。きっと幸せというのはそういうものだ。結婚して子供が生まれて今が一番幸せだなんてことを言っている人は、この世の中にどうしようもないくらいあふれているのだと思うけれど、もしそれが建前とか社会通念上のものじゃなく、本気で言っていたとしたら、それはその人が今まで体験してきた恋愛とかセックスとか、そこまでは行かなくともあこがれた人とか、そういうのを美化したり羨んだりせずに、もうどうでもいいと思えるくらい、遠くに放り投げることができたということだと思う。

 でも私にはそれができない。そもそもやろうともしていないのだから当たり前だけれど、テロリストの人質になって耳の辺りに銃口を突き付けられたとしても、彼のことを好きじゃなくなるなんてことはできないと思う。彼の声も、仕草も、煙草を吸う時の横顔も、ギターを弾く時の少し俯いた表情も、全部が私の中で生々しく脈打っている。今日の午前中に受けた授業の中身より、二週間前に彼がギターを弾いていた姿の方が鮮明に思い出せる。これはきっと美化なんかじゃない。

彼が私に対して、今すぐ付き合いたいなんて思っていないということは知っているけれど、そういう見たくないような現実を認識していてもなお、今も続いている現在進行形の感情で、区切りをつけるどころか、次に会える日を本当に指を折って数えて、会えない日は彼のSNSを何度も開いては閉じてを繰り返している。連絡してもいいのか悪いのかなんてかわいげのあることじゃなくて、閉じたり開いたり彼とはたぶん何の関係もない、サムネイルに映り込んでいるキャラクターの写真を何回も見るうちに、彼と会っているような気分になる。そのためだけだ。それはたぶん最近流行っているモテない男子が異世界で無双するみたいな話のように、私はいつか彼の中のナンバーワンになれるのだと、そう思いたいのだと思う。その辺の女の子と比べればスタイルだってそれなりにいいはずだし、tiktokで一日を無駄にするような知性のない女の子でもない。

それに、彼から見て身体の相性がいいのか悪いのかはよくわからないけれど、それなりにどうやったら男が喜ぶのかはちゃんと知っていると思う。でも私の自己認識と、彼が私に対して下している評価が一致していないのだから、こんなことになっているんだろう。

こんなの依存だとか執着だとか言われるかもしれないけれど、それでもいい。それに執着がない愛が真実の愛だというなら、世の中のほとんどの人は真実の愛なんてものを知らないと思う。

彼が私のことをどう思っているかなんて、本当はわかっている。いくら総理大臣が変わってもこの国にはもう、JAPAN AS NUMBER ONEなんて言われるような未来が来ないことを国民全員がわかっているのと同じように。わかっていながら、それでも選挙のたびに投票所に足を運ぶ人たちがいるように、私も彼のもとへ通い続けている。希望というより、もはや習慣に近い何かだと思う。わかっているけれど、それでも彼の部屋で、彼の匂いのする布団で眠る夜が、私にとっては何よりも特別な時間だ。特別何かいいにおいがするというわけではないけれど、柔軟剤の香りとか、アロマとか、そういうお金さえ払えば誰でも均質的に纏うことができるような作られた匂いじゃなくて、ただ彼が毎日そこにいるという事実だけが染み込んだような、彼の匂いと彼の部屋の匂いを嗅ぎながら、いつか私のことを愛情表現として抱いてくれるんじゃないかなんて思ったりして、そんな都合のいい妄想をしながら眠りに落ちる自分が惨めで、でもその惨めさすら心地よく感じてしまうような生活は、季節が変わっても結局辞められない。タバコとか酒とかギャンブルとか、そういうモノとは違って周りに迷惑をかけてるわけでもないんだし、なんてよくわからない言い訳を頭の中で何度も反芻して、そういう毎日がずっと続いている。

だから私は彼の前では何も言えないまま、ただ彼が弾くギターの音を聞いている。ギターを弾き始めたら、なかなか止まらない。 好きな音、好きなフレーズを次々に弾いていく。彼の、ギターが堪らなく好きな、その顔が好きだ。他の人がエディヴァンヘーレンとかランディローズみたいなとんでもなくかっこいい音を鳴らしていたとしても、きっと彼の横顔にはかなわない。弾いてくうちにどんどん顔が良い顔になっていく。それを見ることが楽しみだった。ちょっと高い鉄板焼きのレストランなんかで目の前で神戸牛を焼かれたとしても、その焼き具合なんかよりきっと彼の顔の表情の一つ一つの方が、私にとってはずっと大切なんだと思う。一緒の空間、同じ音を楽しんでいる時間。これらを共有できているのが幸せだった。あの時間が自分の汚れた心を浄化させてくれていたのではないかと思う。

 イントロと同じフレーズを弾き終わって曲が終わった。

 何回か突っかかっていたけれど、彼の桜色の唇の端がほんの少しだけ上がった。さっきまで私の乳首を咥えていたその唇には、私の乳首より少し太いキャメルのメンソールが咥えられている。タバコの太さは女性の乳首と同じで、だから男の方が喫煙者が多いなんて話を、彼が私を抱いた後に咥えるキャメルを見るといつも思い出す。

 「ねえ次何がいい?」

 彼は白い煙をほんの少しだけ細く吐きながら私の方を向いた。筋肉質なわけでも痩せているわけでもないけれど、どこか引き締まっているその身体はほんの数分前まで、私の上に覆いかぶさっていて、私はその身体のどこもかしこも、剃り忘れた産毛さえも大好きだった。彼が私のことを、私が彼のことを思っているほどの強さで愛していないのは知っているけれど、それがいつか天秤が釣り合ってイコールの向こう側に彼がいるかもしれない。そんなことを考えながら、最後に干した日がいつなのかわからない布団の中で寝るのが私の日課だった。

 「リクエストなんもないの?」

 彼の声はほんの少しだけ離れた世界にいた私を、このどうしようもない世界に引き戻すように、私の鼓膜のすぐ近くから空気を振動させた。

 「え、えっとね、ビートルズかな。Hey jude」

「すきだよなー。あれむずいんだよ。意外と。」

 そう言ってピックを机の上からとってフレットに指を合わせる。

 「Hey jude don't make it bad. Take a sad song and make it better. 」

 悲しい歌を素敵なものにしようなんてポジティブシンキングは、私のとんでもなく得意なものではあるけれど、それは周りの顔色を窺わないといけなかった子供のころとか、どうでもいいことでネガティブになってしまう自分が背景にいるからで、そんなことは本当に仲良くなるか、もう二度と会わないような人にしか言えない。同情してほしいわけでも慰めてほしいわけでもなく、ただ「私にはこんな一面もあるんだよ」みたいな勝手なコミュニケーションで、人をギョッとさせるくらいなら喋らない方が良い。そういう分別なのか優しさなのかよくわからないものはちゃんと持ち合わせているつもりだ。

 彼の指がフレットの上を滑る。ビートルズの曲は、彼が言うように意外と難しいのかもしれない。何度か指が止まって、「あれ、ここどうだっけ」なんて呟きながら、もう一度最初から弾き直す。その繰り返しが、私には愛おしくて仕方なかった。

 完璧じゃないところが好きだ。プロのギタリストみたいに一回で弾ききれないところが、むしろ彼を私の手の届く範囲に置いてくれているような気がする。届かないくらい遠くにいかれたら困る。

 「Remember to let her into your heart...」

 彼が小さく口ずさむ。ただ好きな曲を口ずさんでいるだけで、私がシャンプーの時に歌を歌っていたりするのと同じようなものだと思う。でも私の心臓は、その「her」が私のことを指しているんじゃないかなんて、馬鹿みたいな妄想で勝手に早鐘を打つ。ポールマッカートニーがジョンレノンの息子へ「親が離婚するけれど君らしく生きてね」というメッセージを込めたこの曲を聞いたジョンレノンが、「新しい恋人のオノヨーコとの恋を応援する歌」だと正反対の勘違いをしたのより、ずっと、何倍も滑稽なのかもしれない。

 窓の外はもう暗くなっていた。何時だろう。時計を見る気にもなれない。時間が進めば、また私は帰らないといけなくて、また彼と会えない日々が始まる。だったら時間なんて止まっていればいい。

 「なんか集中できねえな」

彼がギターを膝の上に置いたまま、また煙草に火をつけた。灰皿の中では、さっきの吸い殻がフィルターを天井に向けて転がっている。彼の唇が触れていた部分が、まだ少し湿っているような気がする。

 「疲れた?」

 「ちょっとな。最近バイト忙しくて」

 彼は疲れているのに、私のために、私がリクエストしたから、ギターを弾いてくれている。そう思うと胸が苦しくなった。でも本当は、私のためなんかじゃなくて、ただ彼がギターを弾きたいだけなのかもしれない。そういう現実を見ないようにするのが、最近の私の癖になっている。

 「寝る?」

 私がそう聞くと、彼は少し考えるような顔をして、「まだいい」と答えた。

 まだいい、ということは、いずれ寝る。いずれ、また私の上に覆いかぶさって、また私の乳首を咥えて、また何も言わずに事を済ませる。そしてまた煙草を吸って、また何事もなかったかのように日常に戻る。

 それが嫌なわけじゃない。むしろそれを待っている自分がいる。この部屋にやってきた時点でどうなるのかなんてのは、ほとんどわかっているようなものだし。でも同時に、もっと違う何かを望んでいる自分もいて、その二人の私が喧嘩している。本当はただ抱きしめられて耳元で好きだよって、そこまでいかなくても無言でただ抱きしめてくれるだけでいい。今日汗かいちゃったけれど頭臭くないかな、なんて考えても意味ないことを頭の中に巡らせて、その心配が一気にどこかへ吹き飛んでしまうくらい、彼の胸がすぐそばに迫っていて、その背中に手を伸ばす。なぜかは知らないけれど私よりずっと温かいような気がして、芥川が死んだ理由でもある「将来に対するただぼんやりとした不安」みたいなものが、秋風に乗ってどこかに行ってしまうような、彼に抱きしめられただけでそんな気持ちになるのだから、何も言わずに玄関先で抱きしめてもらってギターを弾く顔も見ずにとっとと帰路に就くのが一番幸せなのかもしれない。

 「俺さ」

 彼が急に喋り出した。思考で膨らんだ風船に針を刺すように、私はこのどうしようもない世界に戻る。一緒の空間、同じ音を楽しんでいる時間。これらを共有できているのが幸せだった。そんなことをいつだったか、日記か何かに書いたような気がする。

 「最近さ、部活だけじゃなくてバンドやろうかなって思ってんだよね」

 バンド。その言葉が、私の中で何かを揺さぶった。

 最初は、彼がライブハウスでスポットライトを浴びて、そんなところを想像していたと思う。いや、思いたい。でもそれとほとんど同時に、雷がすぐ近くに落ちた時の稲光と雷鳴のように、メンバーに女の子がいたらどうしようとか、彼が今よりもずっと音楽を好きになってしまったら私なんかと会ってくれないんじゃないかとか、そういうことばかりが獲物を狙うハゲワシのように頭の中をぐるぐると回った。私はきっと心が狭くて彼に執着していて、なのに「私の言うことを聞いてよ」とか「さみしい」とか、そんなわがままなことは言いたくないなんてプライドが邪魔をして、そんなプライドがあることは二十歳の女の子にしては大人っぽいのかもしれないけれど、プライドなんかなくていつでもそういうことを言える女の子の方がずっと幸せだと思う。

 でも私の今までの人生の積み重ねは、そんな女の子になれるようなものではない。「人生はゲームのようなもので、物心ついてからは、自分で選んだ選択肢の積み重ねだ。」いつか見たアメリカのコメディ映画にそんなセリフが出てきたように。


 「え!楽しみ!応援するよ!」

 反対したら嫌われるなんて、そこまで後ろ向きではないけれど、私の声帯を振動させて出た声は、薄暗い部屋の中のスマホの画面のように、私の気分と比べるとあまりにも明るかった。

 「そう?じゃバイトも頑張んないとなー」

少年漫画みたいに腕をぐるぐる回しておどけるのは、最初見た時は子供っぽいと思ったけれど、今では場を和ませるために彼が人生の中で身に着けたテクニックなんじゃないかと思う。現に私はさっきまでバンドの心配をして、今度はバイトが増えれば会えなくなるんじゃないかと心配すべきなのに、そんなことはもうどうでもよくなって彼の横顔を眺めている。

炬燵みたいな温かさを持っている。そう思う。身体の真ん中を温めてくれるような、そんな温かさだ。近づくと火傷してしまう炎のようなものでも、気分によってコロコロ変わってしまう太陽のようなものでもない。私が彼に会いに行けば、身体の真ん中のいつも寒さに震えているその場所を、優しく温めてくれるそういう人だ。

でも彼は何も気づいていない。私の声が上ずっていたことも、笑顔が引きつっていたことも、全部気づいていない。太宰が『女生徒』の中で「先生がばかに見えてしようがない。先生は、私の下着に、薔薇の花の刺繍のあることさえ、知らない。」なんて名文を残したけれど、それと似たような感覚は80年以上たった今の日本でも同じだと思う。

でも、それでいいのかもしれない。気づかれて、「重い」とか「面倒くさい」とか思われるよりは、何も知らないままでいてくれた方がいい。私の本心が彼に届かないことは寂しいけれど、届いてしまったらもっと寂しいことになる気がする。

「機材買わないとなー。エフェクターとか。こんなちゃちぃやつだと迷惑かけそうだし。」

彼はまたギターを手に取って、何かのフレーズを弾き始めた。さっきまで話していたバンドのことは、もう彼の頭の中では次のステージに進んでいて、私との会話なんてただの通過点でしかなかったんだと思う。

私は何も言えずに、ただ頷いた。頷きながら、彼の指先を見ていた。その指先が、いつか私以外の誰かのために音を奏でる日が来るんじゃないかと思うと、胸の奥が締め付けられるような気がした。その日はいつかなんかじゃなくて、すぐ近くに迫っているのかもしれないし、そうでなくても彼との時間が長くなればなるほど、その日は確実に近づいてくる。

でも、それでも私は彼の隣にいたかった。彼がバンドを組んで、有名になって、私なんかのことを忘れてしまったとしても、今この瞬間だけは、彼の部屋で、彼の匂いを嗅ぎながら、彼のギターを聞いていられる。それだけで十分だと、自分に言い聞かせた。甲子園で優勝してプロ野球選手になった同級生がいることを自慢するのと同じように、彼と一緒に居た時間や彼のギターを聞いていた時間が、私にとっての青春の証明書みたいなものになればいいと思う。

いつか、この恋を川の向こう岸に放り投げられるような、度胸と体力がある大人になれたら、彼のことを好きだった人とかそういうのではなく、人生の中で知り合った人の一人にすることができたら、そんな未来があればいいのに。なんてことを思いながら彼の横顔を見つめる。

「ずっと夢を見て幸せだったな、僕は、Daydream believerそんで、彼女はクイーン」

彼が歌っている歌詞のように、彼のクイーンになれたら私の人生はきっともうこれで満足だ。明日朝起きたら死んでいても、学校に行く途中で外国人観光客でパンパンの市バスに轢かれて死んでしまっても、外から帰ってきてお風呂の中でヒートショックのせいで全裸で死んでしまうようなとんでもなくダサい死に方でも、私が天国に行くのか地獄なのかはよくわからないけれど、そんな風に死ねてよかったなんて親不孝なことを思うんだろう。報われなくても、一方通行でも、誰かを本気で好きになったという事実は、きっと私をほんの少しだけマシな人間にしてくれる。


「来週ライブあるんだけれど、来る?」彼からそう聞かれたのは、それから二週間後のことだった。即答で「行く」と言った私に、彼は「マジで?嬉しい」と笑った。その笑顔が、私が「行く」と言ったからなのか、単純にライブに人が来ることが嬉しいだけなのか、私にはわからなかった。



 彼の新しいバンドの初ライブは、レザーのブルゾンだと少し寒いような曇りの日だった。十月の京都というのは、東北出身の私にとっては寒いというほどのものではないけれど、かといってTシャツだけで過ごせるようなものでもなく、何日か前に温帯低気圧になって通り過ぎた季節外れの台風のせいか、夜にタバコを吸うときにベランダに立つときの空気の冷たさが、二段いや三段飛ばしで冬に近づいているような、そんな日だった。朝とも昼とも言えないような中途半端な時間に起きて、カーテンを開けた時に見えた空は、白っぽくて、青いのか灰色なのかよくわからない色をしていた。季節の変わり目なのだから、全てが混じっているような景色なのは納得がいったし、お金があって毎日暇なら「春はあけぼの」なんて文章を書きたくなる気持ちもわかる、そんな天気だ。洗濯物を干すかどうか迷ったけれど、結局部屋干しにした。雨が降るかもしれないし、降らないかもしれない。そういうなにもかもが中途半端な天気で、今日は何を着ていこうか。そんなことを考えながら、クローゼットの前で三十分くらい立ち尽くして、そこにかかっている服の全ての組み合わせをまるで自分自身がスーパーコンピューターにでもなったような気持ちでシミュレーションした。黒いスキニーに白いTシャツ、その上に薄手のニット。それともワンピースの方がいいだろうか。でもライブハウスは暑いかもしれない。立ちっぱなしだし、人が密集しているし。そう思って結局、動きやすいデニムとロンT、その上にレザーのブルゾンという、どこにでもいるような格好に落ち着いた。

私は彼からチケットをもらっていて、それでもドリンクとかグッズとか、もしかしたら打ち上げに呼ばれるかもなんてことを思いながら、ATMで二万円を下ろして12番のバスに乗った。バスには高校生の修学旅行のグループが二つと、外国人の観光客が何人か乗っていた。彼らはうるさくはないけれど、ライブのことで浮かれている私を現実に引き戻すくらいの絶妙な音量で会話をしていた。バスは彼との思い出をなぞるように堀川沿いを進み、二条城の前に着くとほとんどの客が降りて、バケツの水を入れ替えるようにまた大量の客が乗ってきた。彼らは騒音だけではなく、終点の京都駅に向かうためか大量の荷物を抱えていて、その雑多になった車内は私が空想の世界に行くことを許さなかった。

 アプリの指示通り、四条西洞院で降りる。バスの喧騒から解放されて、ようやく自分の思考に戻ることができる。ライブハウスまでは徒歩で十分もかからないくらいの距離だ。でも、彼のことと新しいバンドのことばかり考えながら歩いても、ちっともライブハウスは近づいてこない。「可愛い女の子と1時間一緒にいると1分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に1分座らせられたらどんな1時間よりも長いはずだ。相対性とはそういうことだ」アインシュタインはそう言ったけれど、彼がもし私と同じくらいの年の女の子だったなら、物理学どころか世界中の人が知っているようなこの文言は、止まったような時間の中で、ライブハウスが近づいてこない理由の説明だったのかもしれない。

 そんな考えてもどうしようもないようなことを考えながら歩いても、ライブハウスは一向に近づいてこなかった。私の足はほんの少しだけかもしれないけれど、確かに彼の元へ進んでいるはずなのに、私の周りの景色もスマホのディスプレイに映る地図も何も変わっていなくて、私の思いが一向に彼の心に届かないのと同じようだった。

あと何百メートル。その表示がちっとも変わらない間に、私は何を考えればいいのかわからなかった。彼のことを考えるのはもう慣れている。朝起きてから夜眠るまで、授業中も、バイト中も、友達と喋っている時でさえ、頭の片隅には常に彼がいた。でも今日は違う。今日は彼がステージに立っている姿を見る。私以外の大勢の人たちの前で、ギターを弾いている彼を見る。その彼は、私の知っている彼とは違う誰かになっているんじゃないかと思うと、怖かった。

 四条から北に上がって、細い路地に入る。観光客で賑わう大通りとは違って、ここは静かだ。身体と態度がデカい外国人も、コンビニやチェーン店のまぶしい看板もない。マンションなのか商業用の何かなのかよくわからないような古いビルの間を縫うように歩いていると、スマホの地図アプリが私の気持ちなんか全く分かっていないような無機質な声で、「目的地に到着しました」と告げた。

 ライブハウスは思ったより小さかった。地下への階段があって、その入り口には手書きのポスターが貼ってある。彼のバンド名が、丸っこい字で書かれていた。その字は彼の字じゃない。たぶんメンバーの誰かが書いたんだと思う。それだけで、私は彼の世界に私が入り込めない何かを感じた。

 開場まであと十五分。入り口には既に何人か並んでいて、みんな私より若く見えた。私だってまだ大学生なのだから、単なる思い過ごしなのだろうけれど、私だけがこのよくわからない感情を胸に抱えたままこの列に並んでいるのだろうなんてことを考えると、ただ単に音楽を聴きに来た他の人たちはなんて純粋なんだろうと思う。

大半の客は大学生か、もしかしたら高校生のような人もいる。その中に女の子が三人いて、彼女たちは楽しそうに笑いながら何か話していた。私は列の最後尾に並びながら、その女の子たちを観察した。彼女たちは彼のバンドのファンなのか、それとも対バンの客なのか。もし彼のファンだとしたら、彼女たちは彼のことをどう思っているんだろう。

 ポケットの中でスマホが震えた。彼からのメッセージだった。「今日来てくれてありがとう。終わったら話そう。」ディスプレイに無機質に映るその文字列を何度も読み返しながら、私は階段を降りていった。



 「怖いと思っても深い傷が付いても全部が愛だから別に良かった。ここに居てね、ここに帰ってきてね。それだけでいいの」

 ボーカルの“つきの”と名乗った女の子は、本当に私のためだけに書かれたような歌詞を、私とは全く正反対のルックスで歌い上げた。彼女はたぶん私よりも十センチは背が低くて、髪は乾かすのに一時間はかかりそうなくらい長くて、曲の合間に喋っている時はまるで人前に出された小学生のようにあどけない喋り方をしているのに、歌い始めるとこの小さなライブハウスの観客全員が自分自身の味方だと信じ込んでいるような、そんな歌い方をしていた。私はそんな彼女に特に憧れたりはしなかったけれど、全くもって違う人間だというその一点だけはちゃんと認識していて、そういう人間に会った時特有のむずがゆさとか軽蔑とか羨ましさとか、よくわからない感情をごちゃまぜにした灰色の心のまま、極彩色のステージで彼と彼女がハイタッチするのを眺めていた。この狭いライブハウスにいるうちの、何人が彼を目的に来ている客で、そのうち女の子がどれくらいいて、そのうち彼に抱きしめられた人はどれくらいいるんだろう、なんてことを会場を見まわしながら考えていたけれど、そんなのは第三次世界大戦が起きたらどうなるんだろうみたいなことを考えるときと同じで、考えたところでどうにかなるようなものでもなく、考えそのものに確証なんて全くなかった。でも私は、この数十人の観客の中で、ほとんど唯一、もしかしたら一人かもしれない、彼にリクエストして演奏してもらった経験があるのだと、そう思うことで自分を保っていた。彼の部屋で、布団の匂いを嗅ぎながら、「次何がいい?」と聞かれて答えたあの瞬間は、今この瞬間よりもずっと特別なものだったはずだ。ステージの上の彼は、確かにかっこよかった。スポットライトを浴びて、汗を光らせて、私が知っている彼よりもずっと輝いて見えた。でもその輝きは、この会場にいる全員のものであって、私だけのものじゃない。

曲が終わって、彼がマイクに向かって何か喋った。聞き取れなかった。会場が湧いて、誰かが歓声を上げた。私も手を叩いた。でもその手はどこか他人事で、まるで自分じゃない誰かが拍手しているみたいだった。校長先生の話とかそういうどうでもいいけれど拍手をしないといけないような瞬間とは違って、間違いなく私は能動的に手をたたいていたんだと思う。でも今手をたたいている私が、その行動にふさわしいだけの感情を抱いているのだろうか、そんなことが頭に浮かんだ。

つきのが笑顔でこっちを見た気がして、思わず目を逸らした。彼女と目が合ったわけじゃない。きっと会場全体を見渡していただけだ。でも私は、彼女が私のことを「彼の女」として認識しているのか、それとも「客の一人」としか思っていないのか、そんなことばかり気になって仕方なかった。

次の曲が始まった。彼のギターのイントロから始まる曲だった。彼の指が弦の上を滑る。その指を、私は知っている。その手が私の髪を撫でたことも、私の身体に触れたことも、全部知っている。でも今、その手は私のためじゃなく、音楽のために動いている。

私はそれを見ながら、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。嬉しいのか、悲しいのか、よくわからなかった。ただ、彼がこんなにも楽しそうにギターを弾いている姿を見るのは初めてで、それが私といる時よりもずっと幸せそうで、そのことが何よりも辛かった。

「次の曲はね」つきのがマイクに向かって喋り始めた。「私が失恋した時に書いた曲なんですけれど」

会場から笑いが起きた。彼女は照れたように首を振って、「いや、ほんとにつらかったんですよ!でもね、つらいことも全部音楽にできるって気づいたら、なんか救われたっていうか」

私は文字通り固まった。彼女も失恋をするのだと、そんな当たり前のことすら全く考えていなかった。彼女が何歳なのかは知らないけれど、大して違わないだろうから彼女も恋愛で傷つくのだ。でも彼女はそれを音楽に変えられる。私はただ、彼のSNSを開いては閉じてを繰り返すだけだ。彼女の方が、きっと彼と同じ言語を話せるんだと思った。

そう思った瞬間、曲が始まった。彼のギターが、つきののボーカルを支える。彼女の声が会場に響く。まるで私のために歌われているようだけれど、でも実際には彼女自身の経験で、その歌を聞いているだけの私とスポットライトの向こうの彼女との距離感がたまらなく苦しかった。

最後の曲が終わって、つきのが深々と頭を下げて、「ありがとうございました!」と叫んだ。その時、彼が後ろから彼女の肩をポンと叩いた。彼女は振り向いて、何か小さく口を動かした。彼も笑って頷いた。その瞬間が、たまらなく羨ましかった。二人の間に流れる、何も言わなくても分かり合えているような空気。私と彼の間には、そんなものは一度もなかった。私は彼の前では、いつも「いい子」を演じている。本音なんて、一度も言ったことがないと思う。メンバー全員がステージを降りていく。彼がこっちの方を見て、少し手を振った。スポットライトで照らされているステージからは私のことなんて見えないのかもしれないけれど、私も手を振り返した。でも、その手はどこか他人行儀で、まるで知り合いに会った時の社交辞令みたいだった。



 「打ち上げあるからさ、ちょっとしか話せないんだけれど、どうだった?」

「すごくよかった。うん。ほんとに。」

 私は必死に言葉を紡ごうとしたけれど、彼の額にうっすら浮かんでいる汗が、私を抱いている時とは全く違うもので、その汗を一緒に流したつきのや他のメンバーたちの方が、今の彼には近い存在なんだと思い知らされた。「つきのちゃん、すごかったね」と言おうとしたけれど、その名前を口にすることすら、何か負けを認めるような気がして言えなかった。本当はそんな勝ちとか負けとか単純な話ではなくて、もっと複雑であいまいなものであるはずなのに、私にはそれを認めるだけの度胸も勇気も器の広さもなかった。

 「そっか。ならよかった。ほんとに楽しかったんだよ、こんな沢山の人がチケット買って見に来てくれるなんてさ、なんか幸せだよな。」

 その幸せの中に私はいるんだろうか。彼が今しがた言ったのとは違って私はチケットも買っていないし、言葉では応援すると言っていても心の中は応援なんて言えないようなどす黒い感情であふれかえっていたし、純粋に音楽を楽しめてもいなかったと思う。

 でももし、彼の幸せの中に、幸せの要素の中に私がほんの1パーセントでもいいから含まれているのだとしたら、私は幸せになれるんじゃないかと思う。

 「じゃあさ、打ち上げあるから、また連絡するわ。じゃあね。」

 

 “また”という言葉の定義がいつまでなのか、もしかしたら私の出身地での使われ方とはちょっと違うんじゃないか、なんてことを何日も考えていた雨の日の夕方、四限が終わってスーパーの前の交差点でスマホの電源ボタンを押した。

 「今日家こない?」

 たった七文字。俳句よりもずっと少ないその文言で、私の心は宇宙に飛んでいくロケットのようにどこかへ行ってしまった。トイレットペーパーだったかボディソープだったか何かを買おうとしていたはずなのに、もうそれが何だったのかは覚えていなくて、地に足がついていない高揚感だけが私の心を満たしていた。


 

 いつも通り、二人とも裸になって彼が私の上に覆いかぶさってきたとき、彼の本棚の上にバンドのメンバーとの写真が飾ってあるのが目に入った。

 もう私には無理だった。きっと私は同じくらいの年の女の子に比べると、理性的で利口で落ち着いている方だとは思うし、男だったらモテると思うなんて誉め言葉なのかよくわからない言葉をかけられたりもするけれど、私はもうどうしようもなく、少女漫画の主人公でさえ真っ青になるくらい、女なのだということが唇に触れた涙の塩味を感じた時にわかった。

 「好きです。」

 はっきり発音できていたかどうかはわからない。きっと鼻声だったと思うし、メイクも崩れてみっともない姿だったと思う。

 彼は何も言わずに、私の涙の筋に優しく唇を付けた。私の勇気を励ましているように、微かにキャメルのメンソールの匂いがした。


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