プロローグ
「…歴史とは、面白いものだ」
暖炉の炎が、静かに揺らめいている。書斎に満ちた古い羊皮紙と革の匂いの中で、老人は深い椅子にその身を沈め、独り言のように呟いた。その皺の刻まれた視線は、膝の上で熱心に彼の言葉に耳を傾けている若者に向けられている。
「一つの時代の終わりは、いつも突然に、そして立て続けに訪れるものらしい。人々が『激動の年』と呼ぶ王国暦999年。あの一年は、まさにそうだった」
老人は、遠い過去をその目に映しながら、ゆっくりと語り始めた。その声は、分厚い歴史書の一節を読み上げるように、淡々として、それでいて確かな重みを持っていた。
「全ての始まりは、王国暦993年10月。大陸にその栄光を轟かせたルミナディア王国の国王、アラリールが、突如として暴君へと変貌したことに端を発する。かつては『賢王』とまで謳われた男が、何かに取り憑かれたかのように民を虐げ、重税を課し、諫言する忠臣を次々と処刑した。王国の栄光は、彼の狂気によって急速に色褪せていったのだ」
老人の指が、古びた地図の上で、かつて広大だった王国の版図をなぞる。
「その圧政に、最初に反旗を翻したのが、王国軍事長官であったアリスガイア・アドラステアだ。王国暦995年2月、彼は北方の領地で独立を宣言し、アドラステア帝国を建国した。アラリール討伐という大義名分を掲げた帝国は、王国の混乱に乗じて破竹の勢いでその勢力を拡大していった」
「そして翌年、王国暦996年1月。今度は南の、交易で栄えるカミラ領の領主、エルンスト・アルヴェインが立ち上がった。王国政務長官としてアラリールの変貌を間近で見てきた彼は、民を守るために独立を決意。その決意に、圧政に苦しむ周辺の十七人の諸侯が呼応し、カーサ諸侯連合が発足した。彼らは二大国の争いには加わらず、自治と中立を掲げ、大陸の南西部に確固たる地盤を築き上げた」
老人は一度言葉を切り、暖炉の薪がぱちりと音を立てて爆ぜるのを待った。
「かくして大陸は、王国、帝国、諸侯連合の三つに分かたれた。そして時は流れ、王国暦999年。まるで堰を切ったかのように、歴史は再び動き出す。その年、全てが変わったのだ」
「10月、暴君アラリールが、帝国討伐の進軍中に、その命を落とした。毒殺だったという。王国の圧政に苦しむ民にとっては、それは解放の福音であったかもしれん。だがな、指揮官を失った王国軍は、まさに死の淵に立たされた。敵地で、帝国軍という猛獣を前に、指導者を失った羊の群れ…。だが、その絶望の中から、一人の若き王が生まれた。アラリールの息子、アラン・ルミナディアだ。父の罪という、あまりにも重い十字架を背負った王子は、混乱の極みにあった軍を見事に統率し、王都への撤退を成功させ、民のために生きる王となることを宣言した。こうして、ルミナディア王国は、最も暗き夜の底で、かろうじて新たな夜明けを迎えたのだ」
老人の指は、王国の首都をゆっくりと撫でた。そして、今度は北の帝国へと滑る。
「だが、一つの光が灯れば、もう一方では、より濃い影が生まれる。その翌月、11月のことだ。北のアドラステア帝国で、血塗られた権力の移譲が行われた。暴君アラリール討伐という大義名分を失い、覇気をなくした皇帝アリスガイアに、息子の皇子、アリストロスは牙を剥いたのだ。彼は戦を求める武断派の将軍たちを味方につけ、父と兄を牢獄へ幽閉し、自らが帝国第二代皇帝として即位した。彼の即位は、帝国に再び戦の炎を燃え上がらせる狼煙に他ならなかった」
そして、老人の指は、大陸の南西部、豊かな港が連なる地へと戻った。
「そして、年の瀬も迫る12月。南のカーサ諸侯連合にも、新たな風が吹いた。連合をまとめ上げてきた名君、エルンスト・アルヴェインが、老いと病を理由に、その座を退いたのだ。そして、彼が後継者として指名したのは、彼の一人娘、サーシャ・アルヴェイン。まだ25歳の若き女性だった。荒くれ者の諸侯たちを前に、彼女はその生まれ持った人望と、父譲りの思慮深さを示して見せ、連合の新たな盟主として、二つの大国に挟まれた小国の舵取りという、あまりにも困難な役目をその若き肩に背負うことを決意したのだ」
老人は、そこで話を終え、深く息を吐いた。暖炉の炎が、彼の顔に深い影を落としている。
「王国暦999年。それは、古い時代が死に絶えた年だ。そして、王国暦1000年という新たな時代の幕開けと共に、大陸の運命は、三人の若き指導者の手に委ねられることになった。皮肉なものだ。かつて、同じ学院で学び、未来を語り合った三人の旧友が、今や、それぞれの国の王として、皇帝として、そして盟主として、互いに睨み合っている。彼らの友情は、遠い過去の幻。これから始まるのは、三者がそれぞれの正義と野望を掲げ、大陸の覇権を賭けて争う、血で血を洗う物語なのだよ」
老人はそう言って、静かに目を閉じた。書斎には、ただ、燃え盛る炎の音だけが響いていた。




