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エルディア戦記 ~王国編~  作者: 山城守


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序章3 【帝国編】失われた大義 

夕食の食卓は、まるで墓場のように静まり返っていた。俺、アリストロス・アドラステアの目の前には、帝国皇帝である父アリスガイアが、まるで抜け殻のように座っている。その隣には、病弱な兄アリストリアが、時折か細い咳を漏らしながら、ほとんど手も付けられていない皿をぼんやりと見つめていた。向かいには、末の妹アリシアナが、人形のように無表情で、ただ静かに銀の匙を動かしている。豪華絢爛であるはずの皇帝一家の食事が、これほどまでに味気なく、息苦しいものだとは誰が想像できるだろうか。


「……」


父は、まただ。その目は宙を彷徨い、俺たちのことなどまるで映っていないかのようだ。先日の戦で王国軍との間に目立った戦果を挙げられなかったことへの不満か、あるいは、ただ単に、俺の顔を見るのが不愉快なのか。どちらにせよ、この男が俺ではなく、武芸の才も覇気もないアリストリア兄上を次期皇帝にと考えている事実は、俺の腹の底で暗い炎を燻らせ続けていた。強き者こそが国を治めるべきだ。それが俺の揺るぎない信念だというのに、この父にはそれがまるで分かっていないらしい。


兄上がまた、小さく咳き込んだ。その音に、父はハッと我に返ったように視線を向け、その声には皇帝の威厳など微塵もなく、ただの父親としての心配だけが滲んでいた。


「アリストリア、無理をするな。もう部屋に戻って休むといい」


「いえ、父上。まだ大丈夫です…」


弱々しく答える兄の声が、俺の神経を逆撫でする。こんな男に、この帝国を背負えるというのか。王国との終わりの見えない戦いを、勝ち抜くことができるというのか。馬鹿げている。俺の鬱屈した思いを知ってか知らずか、アリシアナがその赤い瞳で、じっと俺の顔を見つめていた。その視線だけが、この息の詰まる食卓で、唯一の慰めだった。


その時だった。広間の重厚な扉が、慌ただしく開かれた。衛兵の制止を振り切るようにして姿を現したのは、帝国の騎士団長ゴルドアその人だった。呼び出しも受けていないはずの彼の突然の帰還に、父は驚愕の表情を浮かべた。ゴルドアの筋骨隆々とした体は泥と血に汚れ、肩には包帯が痛々しく巻かれている。明らかに、激戦を潜り抜けてきた男の姿だった。


「陛下!緊急のご報告が!」


ゴルドアは、俺たち兄妹のことなど目に入らぬように、真っ直ぐ父の元へと進み出て、その場に膝をついた。そのただならぬ様子に、食卓の冷え切った空気は、一瞬で張り詰めたものへと変わった。


「ゴルドア、何事だ。そなたは王国軍の追撃部隊を率いていたはずではなかったのか。その傷はどうした」


父の声には、驚きと共に、戦況への苛立ちが見て取れた。このところ、王国との戦いは一進一退を繰り返し、父の掲げる「暴君アラリール討伐」という大義名分も、民衆の間では色褪せ始めていた。


「はっ…面目次第もございません。敵の殿軍を率いていた老将、グリューネの罠にかかり、多大な損害を被りました。ですが、それ以上に重大な報せが…」


ゴルドアは一度言葉を切り、深く息を吸った。そして、絞り出すような声で告げた。


「ルミナディア国王アラリールが、進軍の最中に崩御いたしました。死因は、毒殺とのこと」


その言葉は、まるで静かな水面に投じられた巨石のように、重い衝撃となって俺たちを襲った。アラリールが、死んだ…?あの、父が憎み、打倒を掲げ続けた暴君が?


「なんだと…?」


父の口から、呆然とした声が漏れた。その顔からは血の気が引き、尊大な皇帝の仮面が剥がれ落ちていくのが分かった。だが、ゴルドアの報告はまだ終わらない。


「そして、アラリールの死後、軍の指揮を引き継いだのは、息子の王子アラン。彼は見事な手腕で混乱した軍をまとめ上げ、王都へと撤退。そして、王都にて…第50代ルミナディア国王への即位を宣言したとの報にございます」


アランが、国王に。


その名を聞いた瞬間、俺の脳裏に、学院時代の光景が鮮やかに蘇った。俺が教師に叱られるたびに庇ってくれた、あの真面目で優しい優等生。俺が決して持たなかった、王族としての品格と慈愛を生まれながらに備えていた男。政務長官の娘サーシャとの婚約が決まった時も、心の底から祝福した、かけがえのない親友。そのアランが、今や一国の王として、俺の前に立ちはだかろうとしている。


「そうか…アランが…」


俺が呆然と呟く一方で、父はまるで抜け殻のようになっていた。その赤い瞳は焦点を失い、虚空を見つめている。


「アラリールが…死んだか……」


その声は、ひどく弱々しく、そして空虚だった。それは、長年の宿敵を失った者の声ではなかった。己の存在意義そのものを、根底から覆された男の、絶望的な呟きだった。父は、ゆっくりと立ち上がると、窓辺へと歩いていった。その背中は、先程までとは比べ物にならないほど、小さく、そして老いて見えた。


「アリストロス…」


父は、俺の名を呼んだ。だが、その視線は窓の外、遥か彼方の王国の空に向けられたままだった。


「わしが、まだ王国の軍事長官であった頃…アラリールは、まごうことなき賢王だった。政務長官であるエルンストと共に、民のために奔走し、この大陸をより良き場所にするのだと、固く誓い合ったものだ。だが…あの男は変わってしまった。狂気に取り憑かれ、民をないがしろにし、国を私物化した。わしは、そんなアラリールを見限った。断腸の思いで、王国に反旗を翻した。教皇サラクドア聖下が、わしの大義を認め、資金を援助してくださったおかげで、この帝国は生まれたのだ」


父の言葉は、まるで夢うつつに語りかけるようだった。それは、息子である俺に言い聞かせているというより、失われた過去を辿り、自分自身の行動の正当性を確かめようとしているかのようだった。


「わしの掲げた大義は、あくまで暴君アラリールの討伐にあった。民を苦しめる王を打ち倒し、大陸に真の正義を取り戻すことこそが、わしの戦う理由だった。だが…そのアラリールが死んだ。そして、王位を継いだのは、賢王と呼ばれた頃の面影を持つアラン王子…。これでは、まるで…」


父の言葉が途切れた。まるで、何を言おうとしているのか、自分でも分からなくなったかのように。俺には、その先の言葉が痛いほど分かった。これでは、まるで、俺たちがただの侵略者ではないか、と。大義名分を失い、ただ領土的野心のために戦を続ける、醜悪な反逆者ではないか、と。


ふざけるな。俺は心の中で毒づいた。今更、何を感傷に浸っている。あんたが始めた戦だろう。あんたが、王国を捨て、帝国を興したんだろう。だというのに、敵の王が死んだくらいで、全てが終わったような顔をするな。


アランは王になった。自らの手で国を立て直し、父の罪を償うために、これから茨の道を歩むのだろう。それに比べて、俺はどうだ。帝国の皇子でありながら、後継者ですらなく、ただ父の気まぐれに振り回されるだけの存在。アランが王として国を背負っているというのに、俺はこんな息の詰まる食卓で、老人の繰り言を聞かされている。


カタン、と。俺は、荒々しく椅子を蹴立てて立ち上がった。父も、兄も、妹も、そしてゴルドアも、驚いたように俺の顔を見た。だが、俺はもう、この場所に一秒たりとも留まっていることなどできなかった。


「……失礼する」


俺はそれだけを吐き捨てると、彼らに背を向けた。背後で、父が俺の名を呼ぶ声が聞こえたが、振り返りはしなかった。


アラン、お前は王になったのか。ならば俺も、いつまでもこんな場所に甘んじているわけにはいかない。俺は、俺のやり方で、俺の力を証明する。この手で、帝国の、いや、この大陸全ての頂点に立ってみせる。そのためならば、親だろうと、兄だろうと、容赦はしない。


廊下を歩く俺の胸のうちでは、アランへの嫉妬と、何もできない自分への憤りが、黒い炎となって激しく燃え盛っていた。

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