序章2 【王国編】 王の帰還
父の死を悼む感傷も、己の無力さを嘆く時間も、もはや私には許されなかった。一歩天幕の外へ踏み出した瞬間、私を包んだのは、死という静寂とは真逆の、制御を失った混乱の渦だった。
「王が死んだぞ!」
「帝国軍がすぐそこまで来ている!」
「我々はここで終わりか……」
兵士たちの間に絶望的な叫びが伝播し、それは瞬く間に軍全体を覆う恐慌へと変わっていく。指揮官の喪失は、統率された軍隊を、ただの烏合の衆へと変貌させる。誰もが武器を放り出し、故郷の方角を向いて逃げ出しかねない、そんな危険な空気が満ちていた。
このままでは、帝国軍が攻めてくるまでもなく、この軍は内側から崩壊するだろう。
「――静粛に!」
腹の底から絞り出した声は、我ながら驚くほど低く、そして強く響いた。それは、これまで父の影に隠れてきた、か細い王子の声ではなかった。恐慌の騒音を切り裂く、王の言葉だった。ざわめきが、まるで波が引くように収まっていく。兵士たちが、将軍たちが、訝しげな視線を私に集中させた。
「父王アラリール陛下は崩御された。だが、ルミナディア王国は終わらぬ。私が、アラン・ルミナディアが、父の跡を継ぎ、これより全軍の指揮を執る」
私の宣言に、場は再び静寂に包まれた。しかし、先ほどまでの恐慌とは質の違う、疑念と値踏みの沈黙だった。数秒後、古参の将軍の一人が、おずおずと口を開いた。
「殿下…いえ、陛下。指揮権を継がれることに異論はございません。ですが、この状況で、我々はいったいどうすれば……」
「まさか、このまま帝国軍との決戦を、とお考えでは?」
「無謀です!兵の士気は地に落ち、もはや戦える状態ではありませぬ!」
堰を切ったように、将軍たちから心配と非難の入り混じった声が上がる。彼らの目は、私を試している。この若造に、我らの命を預ける価値があるのかと。父のように、己の虚栄心のために我々を死地に追いやるのではないかと。
私は彼らの言葉を、最後まで黙って聞いていた。そして、全ての声が途切れたのを見計らい、彼らの不安を、一刀両断にするかのように、告げた。
「撤退する」
その一言は、絶対的な力を持っていた。将軍たちの顔に浮かんでいた不安と疑念の表情が、驚き、そしてすぐに純粋な安堵へと変わっていくのが、手に取るように分かった。そうだ。彼らが欲していたのは、英雄的な死ではない。生き残るための、現実的な判断だ。
「これより全軍、王都エリュシオンに向け、撤退を開始する。これは敗走ではない。王国を立て直すための、戦略的後退である」
私の言葉に、将軍たちの間に明らかな安堵の空気が広がった。数人が無言で頷き合い、強張っていた肩の力が抜けるのが見えた。彼らは、私が父とは違うと、この一瞬で理解したのだ。
「グリューネ伯」
私がその名を呼ぶと、将軍たちの輪の中から、白銀の鎧に身を包んだ老将が進み出た。私の幼き頃の養育係であり、父に疎まれ辺境に追いやられていた「王国の盾」。その威厳に満ちた紫の瞳は、この混乱の中にあってなお、揺るぎない光を宿していた。
「はっ。ここに」
「そなたに、殿を命じる。全軍が撤退するまでの間、帝国軍の追撃を食い止めてもらいたい。この撤退戦の成否は、そなたの双肩にかかっている。王国で最も困難な役目、引き受けてくれるか」
グリューネ伯は、私の前に進み出て、恭しく片膝をついた。その揺るぎない忠誠心に、私は胸の内で深く感謝した。
「御意。このグリューネ、命に代えましても、陛下と王国軍をお守りいたします」
迷いなき返答。その力強い声が、周りの将軍たちの心に突き刺さる。グリューネ伯が私に忠誠を誓った。その事実が、何よりの証明となった。
「全軍に告ぐ!直ちに撤退準備を整えよ!目指すは王都エリュシオン!生きて故郷の土を踏むぞ!」
私の号令一下、先ほどまでの混乱が嘘のように、軍は統制を取り戻し始めた。兵士たちが慌ただしく動き出し、天幕が次々と畳まれていく。背後で、グリューネ伯が殿軍の兵士たちに檄を飛ばす声が聞こえる。どうか、ご無事で。そう祈りながら、私は前だけを見据えた。
撤退行は、我々の予想通り、血塗られたものとなった。背後を向けた我々に対し、帝国軍が好機を逃すはずがない。地平線の彼方から、土煙が巻き上がる。真紅の鎧に身を固めた帝国の重騎兵部隊が、鬨の声と共に我々の背後に迫る。率いるのは、帝国騎士団長ゴルドア。その巨体と大斧は、遠目からでもはっきりと分かった。
「グリューネ伯は無事か!」
本隊を進ませながら、私は焦燥に駆られて叫んだ。伝令の兵士が、息を切らしながら駆け込んでくる。
「申し上げます!グリューネ伯、寡兵ながらも、巧みな遅滞戦術で敵の足止めに成功しております!ですが、敵の猛攻激しく、損害も甚大とのことにございます!」
歯噛みしながら、私は振り返った。遠くの丘陵地帯で、剣戟の閃光が明滅し、黒煙が上がっているのが見える。グリューネ伯が、そして彼に従う兵士たちが、命を賭して我々のための時間を稼いでくれているのだ。王である私が、ここで感傷に浸ることは許されない。彼らの犠牲を無駄にしないためにも、ただ前へ進むしかない。
「構わぬ、進め!速度を落とすな!」
数時間に及ぶ死闘の末、グリューネ伯の殿軍は、ゴルドアの猛追を遮ることに成功した。多大な犠牲と引き換えに、我々は生き残るための時間を稼いだのだ。
数日後、泥と血にまみれた我々の軍勢は、ようやく王都エリュシオンの壮麗な城門へとたどり着いた。民衆が不安げな顔でこちらを見ている。王の不在と、敗残兵のような我々の姿に、彼らが何を思っているかは痛いほど分かった。
私は、城門前の広場で馬を降りた。そして、集まってきた民衆の前に、一人で進み出る。生き残った兵士たちが見守っている。一瞬、父の暴政に苦しんだ彼らの視線が、刃のように私に突き刺さるのを感じた。
「王都の民よ!私は、アラン・ルミナディアだ!皆に、伝えねばならぬことがある」
私の声に、広場を埋め尽くした民衆の囁き声がぴたりと止んだ。私は、一度大きく息を吸い込み、そして、残酷な真実を告げた。
「我が父、国王アラリール陛下は、帝国との戦の最中、崩御された」
民衆の間に、衝撃と動揺が走った。暴君の死を喜ぶ者、王国の先行きを案じて嘆く者、その反応は様々だった。だが、そのどれもが、未来への不安に彩られている。
「父の治世が、民に多くの苦しみを与えたことは、私も知っている。失われた信頼は、容易に取り戻せるものではないだろう。だが!私は、父の罪から目を背けない。このアラン・ルミナディアが、ルミナディア王国第50代国王として、この国を立て直すことを、ここに誓う!」
私は、民衆一人ひとりの顔を見つめながら、言葉を続けた。私の言葉が、彼らの心に届くように、と願いながら。
「重税に苦しむ民を救い、法の下の正義を取り戻す!もはや、民が王の犠牲となる時代は終わったのだ。これからは、王が民のために全てを捧げる時代なのだ!」
しばしの沈黙の後、広場のどこかから、ぽつりと拍手が起こった。それは、一人、また一人と伝播し、やがて割れんばかりの大歓声となって、王都の空を震わせた。
私は、その歓声の中心に立ちながら、民衆の顔を見渡した。彼らの目に宿るのは、もう、ただの不安だけではなかった。そこには、疑いと、ほんのわずかな、しかし確かな期待の光が混じり合っていた。
将軍たちが最初に私に向けた、あの眼差しと同じように。私がこの国を背負うに値する王であるのか、彼らはこれから、その目で確かめていくのだろう。その重い視線を受け止めながら、私の、本当の戦いが始まったことを悟った。
民からの歓声がまだ耳の奥で鳴り響く中、私は城内へと続く道を進んだ。兵士たちが、疲弊しきった身体を引きずりながら、私の後ろに続く。その時、人垣が割れ、私の視界の先に信じがたい光景が広がった。
「グリューネ伯……!」
そこに立っていたのは、血と泥にまみれ、白銀であったはずの鎧を無残に歪ませたグリューネ伯だった。彼の周りには、わずか数十名まで数を減らした殿軍の兵士たちが、同じように息も絶え絶えの様子で立っている。その誰もが、満身創痍という言葉ですら生ぬるいほどの姿だった。
私は、王としての威厳も何もかも忘れ、駆け出した。彼の前にたどり着くと、その壮絶な姿に言葉を失う。兜は失われ、額からは血が流れ、あの威厳に満ちた顔には深い疲労の色が刻まれていた。だが、その紫の瞳だけは、まだ確かな光を宿し、私をまっすぐに見つめていた。
「陛下……ご無事で、何よりにございます。殿軍の役目、なんとか、果たしましたぞ」
掠れた声でそう報告するグリューネ伯の姿に、私の目から熱いものが溢れ出した。この人は、私のために、この国のために、文字通り死線を越えてきたのだ。
「伯爵……!よく、よくぞ、戻ってきてくれた……!」
涙で視界が滲む。私は彼の両肩を掴んだ。その鎧の冷たさと、その下に伝わる確かな体温が、彼の生還を実感させた。感謝の言葉を続けようとしたが、声にならなかった。代わりに、ただ嗚咽が漏れる。
「すぐに、休んでくれ。最高の治療を約束する。本当に、ありがとう……!」
グリュー-ネ伯は、私の涙を見て、わずかに口元を緩めた。それは、誇らしさと安堵が入り混じった、優しい笑みだった。そして、彼の身体が、糸が切れたように私の方へ傾いだ。私は慌ててその巨体を支える。彼の命の重さが、私の腕にずしりとのしかかった。




