序章1 【王国編】暴君の死
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王国、帝国、連合の同時進行の三部作となります。国を背負う人間の心模様をお楽しみください。
王が、死んだ。
その報せは、逆賊である帝国を討つべく進軍していた王国の軍勢を、まるで冬の嵐のように駆け巡った。
死因は毒殺。昨夜、王が口にした葡萄酒に仕込まれていたのだという。
王であった父の亡骸が安置された天幕の前では、近衛の兵士たちが神妙な面持ちで立ち尽くし、遠巻きにする将軍たちは、一様に顔を曇らせて悲嘆に暮れている。だが、その悲しみは、どこか張りぼてのようだった。
彼らの目に宿る光は、安堵か、あるいは歓喜の色さえ帯びているように、私の目には映った。無理もない。
父、アラリール・ルミナディアは、もはや誰からも慕われてはいなかったのだから。
天幕の中は、死の匂いと、それを打ち消すための香油の匂いが混じり合って、息が詰まりそうだった。蝋燭の揺らめく光が、簡素な寝台に横たわる父の顔を不気味に照らし出している。
かつて「賢王」と謳われ、その威厳に満ちた声一つで王国全土を従わせた男は、今やただの冷たい肉塊と化していた。
その顔には苦悶の跡が深く刻まれ、半開きの唇は、最期の瞬間に何かを訴えようとしていたかのようだ。
「……父上」
絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。
私は、この男を憎んでいた。民から搾り取った富で自らを象った巨大な石像を建立し、諫言する忠臣を次々と処刑し、あまつさえ、俺の母である王妃ですら、その手にかけて殺めた暴君を。この死を、私自身も望んでいたはずだった。
だというのに、目の前に広がるこの絶対的な静寂は、憎しみとは異なる、もっと重く、冷たい感情を俺の胸に突きつけてくる。
俺の脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。まだ俺が幼かった頃、父はまさしく賢王だった。執務室の大きな椅子に座り、分厚い書類の山に目を通しながらも、俺が部屋に入っていくと、いつも優しい笑顔で手招きをしてくれた。
「アラン、よく来たな。王とはな、民のためにあるのだ。この国の誰一人として、飢えたり、涙したりすることのないように、心を砕くのが王の務めだぞ」
そう言って、父は私を膝の上に乗せた。その大きな手、温かい胸、そして民を語る時の誇りに満ちた碧眼。あの頃の俺にとって、父は世界の全てであり、揺るぎない正義の象徴だった。私は、いつか父のような立派な王になるのだと、固く信じていた。
その全てが狂い始めたのは、今から6年前の王国暦993年。父は突如、自らを「神の化身」であると宣言した。最初は誰もが、王の気まぐれな冗談だと思った。
だが、父は本気だった。自身の信仰するエルスト教の教義を捻じ曲げ、自身への崇拝を民に強要し始めた。
父の碧眼から、かつての慈愛に満ちた光は消え失せ、代わりに狂信的な熱が宿っていた。
「アラン、お前も見なさい。神である私に逆らう愚か者たちの、哀れな末路を」
広場に引き据えられたのは、増税に反対したとある領主だった。彼は最後まで父の非道を訴え続けたが、その声は処刑人の振り下ろした斧の音によって、無慈悲にかき消された。
血飛沫が、見物していた私の頬にまで飛んだ。その生温かい感触を、俺は今でも忘れることができない。あの瞬間、俺の中で、尊敬すべき父の姿は完全に死んだ。
それからは、坂道を転げ落ちる石のようだった。父は国庫を私物化し、贅を尽くした宮殿を次々と建てた。民は重税に喘ぎ、各地で反乱の炎が上がった。だが、父はそれを意にも介さず、反乱者を「神に背く者」として容赦なく弾圧した。
かつて父の側近として王国を支えていたアリスガイア殿やエルンスト殿といった忠臣たちも、愛想を尽かして王国を去り、それぞれが帝国と諸侯連合を旗揚げした。
かつて大陸を支配したルミナディア王国の栄光は、父一人の狂気によって、見る影もなく失われてしまったのだ。
「なぜ、こうなってしまったのですか……父上」
問いかけても、答えはない。ただ、蝋燭の炎がぱちりと音を立てて爆ぜただけだった。
俺はゆっくりと膝をつき、祈りを捧げた。敬虔なエルスト教徒である俺にとって、父の神への冒涜は、何よりも許しがたい罪だった。だが、目の前の亡骸は、神の化身でも暴君でもなく、ただの年老いた、哀れな一人の男にしか見えなかった。
父は本当に、狂ってしまっただけなのだろうか。それとも、誰かが父の心に何か得体の知れない毒を注ぎ込んだのだろうか。今となっては、確かめる術もない。
ふと、父の手が目に入った。かつて俺の頭を撫でてくれた、大きくて力強い手。その指が、硬直して何かを掴もうとするかのように、僅かに曲がっていた。まるで、失ってしまった何かを取り戻そうと、虚空を掻きむしったかのようだ。その痛々しい姿に、俺の胸の奥底から、熱いものがこみ上げてきた。
憎しみでも、悲しみでもない。それは、どうしようもない虚しさと、そして、一人の息子として、狂っていく父を止めることができなかった、深い無力感だった。
俺は立ち上がり、静かに父の瞼を閉じてやった。その顔は、ようやく安らかな眠りを得たように見えた。
もう、父はいない。賢王アラリールも、暴君アラリールも、この世から消え去った。残されたのは、分裂し、疲弊しきったこの王国と、その民、そして、唯一の王位継承者である俺だけだ。
父が壊したこの国を、私が立て直さなければならない。父の代で失われた民からの信頼を、私が取り戻さなければならない。
王国軍事長官であったアリスガイアの帝国、そして王国政務長官であったエルンストが率いる諸侯連合とも、いずれは対峙することになるだろう。その道のりが、どれほど険しく、茨に満ちたものであるかは、想像に難くない。
だが、私は逃げるわけにはいかない。
父の罪は、息子である私が、生涯をかけて償わなければならないのだ。それが、ルミナディア王家の血を引く者として、俺に課せられた宿命なのだから。
「……覚悟は、できています」
誰に言うでもなく、私はそう呟いた。それは、自分自身に言い聞かせる、誓いの言葉だった。天幕の外から、将軍たちのひそひそと話す声が聞こえてくる。彼らは、次の王となる私の器量を、値踏みしているのだろう。
私は、父の亡骸に最後の一瞥をくれると、きびすを返した。天幕の入り口に手をかけ、深呼吸を一つする。これから私が背負うものの重さに、足が震えそうになる。だが、それを気力でねじ伏せた。
幕を開け、外の光の中に足を踏み出す。そこにいた将軍たちが、一斉に私の方を向き、息を呑んだ。私は、彼ら一人一人の顔を、ゆっくりと見渡した。父の死を悼むふりをしていた男たちの、その腹の底まで見透かすような、冷徹な視線で。
「諸君。これより、私が軍の指揮を執る」
私の声は、自分でも驚くほど、静かで、そして重く響いた。もう、そこに優しいだけの王子アランの姿はなかった。父の死という絶対的な現実が、私を、一人の王へと変貌させたのだ。
最後までのご通読、誠にありがとうございました。
【王国編】の他、【帝国編】【連合編】も別作品として投稿予定となります。
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