第2話 16
「……なにをしているのか訊くべきか?」
助けを求めてアンネローゼ嬢に声をかければ、彼女は困ったように微笑んで頬を掻いた。
「――弟の! 頭を! 撫でて! あげようと! してるの!」
と、リリィがその小柄な身体を上下させながら、僕にそう訴えた。
「いや、僕はアンネローゼ嬢と同い年で、おまえより年上だからな!?」
「――良いから、黙って撫でられろ~っ!」
再度跳び上がったリリィが空中で身をひねり、フワリと舞い上がったスカートの向こうで華奢な脚が、信じられないほどの勢いで唸り声をあげるのが見えた。
――パチン、と。
室内に指を鳴らす音が響いて。
「――んん!? あれっ!? えい! うごけ~!!」
リリィの身体は今まさに回し蹴りを放とうという体勢のまま、空中に縫い留められていた。
「やれやれ、さすがに無意味な暴力は見過ごせないよ。リリィ……」
指を鳴らしたのはフェルノード公だったようだ。
――<念動>の魔法だ。
熟練の魔道士や騎士は、身体を介して発した音を喚起詞代わりに魔法を喚起する。
少なくともフェルノード公が秘めた魔道は、その域に達しているようだ。
「あ、ありがとうございます。助かりました……」
だから僕は素直に礼を告げ――公を侮っていた過去の自分を殴りつけたい気持ちでいっぱいになった。
「……昨日の件をこれっぽっちも反省してないようですね? リリィお嬢様……」
深々とため息をついて、それからリリィを睨むローザ。
「――殿下、重ねが重ね申し訳ありません……」
そして――僕の目の前で床に座り込み、床に頭を擦りつけるアンネローゼ嬢だ。
「――アンネ! だから君、それは止めてくれ!
なんかこっちが悪いことをしている気持ちになる!!」
そうきっぱりと告げてやり、僕は宙に貼り付けられたままのリリィを抱き上げた。
「――むぅ? お~?」
不思議そうな声をあげるリリィをよそに、僕がフェルノード公に<念動>を解除するように目線を送れば、彼はどうやら事態の収集を任せてくれるつもりのようで、もう一度指を鳴らしてリリィを解き放ってくれた。
「……むぅ。ごめんね、リオール。
でもね、さっきのリオールを見てたら……あたしね、なんとかリオールの頭を撫でてあげなくちゃって思ったの……」
「む? それはまたなぜ?」
「だって、すっごく寂しそうな顔してたもん。
お姉様もあたしがお屋敷に来たばかりの頃は、時々、あんな顔してたから知ってるの。
あたし、お姉様から教わったから知ってるよ。アレは寂しいって顔で、それを我慢してると涙が止まらなくなっちゃうんだよ」
「――リ、リリィ!?」
きっとアンネローゼ嬢にとっては、明かされたくない事だったのだろう。
やめろと言ったのに床に伏したままだった彼女は、途端に上体を起こして驚きの声をあげた。
「あたしもさ、お母さんが起きてくれなくなっちゃって、おんなじ顔してたみたいで、そんな時にお姉様が頭を撫でてくれて……それで寂しいはどっか行っちゃったんだ!」
よくわからないが、リリィは育て親であるハナ殿を亡くしているという事だろうか?
「だから、あたしもお姉様がひとりで寂しいを隠してる時は、おんなじようにしてあげたの。それで仲良しになれたんだ」
そうして、リリィは僕の腕の中で右手を伸ばして。
「どう? 寂しいはなくなった?」
そう言いながら、僕の頭を撫でたんだ。
目の奥が熱くなって、視界が揺らいだ。
……まさかこんな事で――こんな単純な事で、感情を揺さぶられるなんて……
それを悟られなくなくて、僕はリリィから顔を逸して、ぎゅっと両目をつむる。
その生い立ちも含めて、いろいろと破天荒すぎるこの娘は――それでも宮廷貴族なんかより、よっぽど高潔で優しく育って来たようだ。
「ああ。どっか行ったみたいだ」
鼻の奥のツンとしたものを無理やり呑み下してそう答え、僕はリリィの頭を撫でてやる。
「リリィ、おまえの弟になってやる事はできないが……」
「ええ……むぅ、だよ! リオールはあたしと仲良しになりたくないの!?」
「まあ、最後まで聞け。おまえは知らないようだから教えてやろう。
別に兄弟姉妹にならなくても、仲良しにはなれるんだ」
ローザが語った話が真実ならば、リリィは<廃棄谷>の奥深くで育ち、それから一昨年、フェルノード公爵家の養女に迎えられた事になる。
となれば、これまでに触れ合った事のある同年代はアンネローゼ嬢しか居なかったわけで、《《それ》》を知らなくても仕方ないのだろう。
「――友達、という」
「ともだち?」
「ああ、そうだ。幸いな事に<能力検査>の儀式を終えるまで、僕はこの城に滞在する予定となっている。
……その間、おまえに友達を教えてやろう!」
「おお~!」
意味がわかっているのか、いないのか。
ともかくリリィは、手袋に覆われた小さな両手を打ち鳴らして、感嘆の声をあげた。
「――まあ、よかったわね。リリィ」
ようやく立ち上がってくれたアンネローゼ嬢が、我が事のように嬉しそうに頬を緩めながら、リリィの頭を撫でた。
「――なにを言っている、アンネよ」
「へ?」
「君ももう、僕の友達だ」
驚くアンネローゼ嬢――いやアンネに、僕は抱き上げていたリリィを床に降ろしてそっと耳打ちする。
「この破天荒――いや、ローザが良い言葉を言っていたな……たしか――」
先程聞いた言葉を記憶から掘り起こす。
ローザが守護竜を指して使っていた言葉だ。
「そう、トンデモ娘を僕ひとりに相手させるつもりか?」
「――まあっ! 殿下ったら」
僕の言葉に、アンネが噴き出す。
「殿下もなしだ! リリィのように名前で呼んでくれ。君なら公私の区別は付けられるだろう?」
「ええ。わかったわ。これから友人としてよろしく」
そうして差し出された手を僕は握り返して。
「――絶対に逃さないからな? 僕ひとりでリリィの相手をさせてみろ……絶対に死んでしまうからな? 冗談抜きだぞ!」
自分でも情けない事を言っているのはわかっているが、こればかりはどうしようもない。
……現に昨日は本当に危なかったんだ。
アンネが止めてくれなければ、あの巨大な騎甲の腕にぺしゃんこにされていただろう。
「……そういえば――」
僕は視線を降ろして、リリィに向ける。
「昨日は衝撃的な事がありすぎて、すっかり忘れていたが、昨日のアレ――あの巨大な腕はなんだったんだ?」
――僕の問いかけに。
「えっと、アレはねぇ……お父様、ローザ。リオールに見せて良い?」
と、リリィはふたりに左手を振って見せながら、そう訊ねた。
「ああ、それが良いかもね」
「リリィお嬢様が<万能騎>――リリステラの末裔なのだと知ってもらう、なのよりの証でしょうからね」
ふたりの応えにリリィは嬉しそうにうなずき、それからいそいそと左手の手袋を取り去った。
「じゃじゃ~ん! 量子転換炉~!」
そう言って彼女が見せた左手の甲には――蒼いひし形の結晶体が輝いていた。




