第2話 4
迫る恐怖に耐えきれず、固く目を閉じたのと、身体を包み込むような感触があったのがほぼ同時。
――激しい金属音。
目を閉じていてもわかる、激しい火花が散った。
「……え?」
けれど、いつまで経っても衝撃はやって来ず、僕は不思議に思って目を開いた。
……そして僕は、信じられないものを見たんだ。
僕を庇うように覆いかぶさっているのは、一緒に離宮から来た侍女だ。
――そういえば僕は彼女の名前すら知らない……
「……ヒッ……ひぃ……」
侍女はブルブル震えて嗚咽しながらも、全身で僕を守ろうとしてくれていた。
そんな彼女の頭の向こうに、巻き起こった風になびく、白いスカートが見えた。
視線をあげると、それは純白のドレスと結い上げた真紅の髪を風に揺らし、反りのある片刃剣を携えたアンネローゼだった。
頭上に柄を握る右手を掲げ、左手は峰に沿わせて。
彼女のすぐ横では、リリィが喚起した六メートルもある、巨大な金属の右腕が地面に突き刺さっていて――あの巨腕を、アンネローゼが防いでくれたのは誰の目にも明らかだった。
「――お姉ちゃんどいて! そいつぶっ殺せない!」
物騒なコトを叫ぶリリィに、アンネローゼは剣を降ろして首を振る。
「――ダメよ、リリィ。どれだけ無知で傲慢な子供でも、彼は王族なんだから!」
まるでそれだけが僕の価値であるかのように……事実として、アンネローゼの中での僕がその程度だというのが、その言葉ではっきりとわかった。
「むぅ~……むーっ!」
納得できてはいないのだろうが、リリィは頬を膨らませながらも右手を振るい、地面に突き刺さった巨腕を精霊へと解いて転化する。
そんなリリィにアンネローゼは静かに歩み寄り、その頬を撫でた。
「……そう。良い子ね。リリィは賢いんだから、今後はもうちょっと良く後先を考える事を覚えてね」
――静かにそう告げて。
彼女はようやく上体を起こした僕の前まで来て、地面に両脚を折って座り込んだ。
「――殿下、このたびは義妹が申し訳ありませんでした」
と、アンネローゼが見せたそれは、それは跪礼よりさらに低投身だった。
地面に着いた両手に収めるように頭を降ろし、額を地面に擦り付けている。
ひどく無様な姿勢なはずなのに、僕はなぜかその姿を美しいとさえ思ってしまった。
「……あ、ああ……」
絞り出すように、応答とも取れる声を発すると、アンネローゼは地面に額をこすりつけたその姿勢そのままに続ける。
「……本来であれば、殿下に手をあげるなどあってはならぬ事――一族郎党が根切りになっても仕方ない事だと存じております」
と、そこでアンネローゼは顔だけを上げて、僕の目を見た。
「しかし義妹はまだ幼く、物事の道理も良し悪しも不明だったのです!
ご覧頂いた通り、義妹には魔物を凌駕する異能の才もあります! それを失うことは、ロムマーク王国にとっても、多大なる損失となることでしょう!」
「お、おまえなにを……?」
アンネローゼの言っている言葉の意味が理解できず、僕は腫れて痛み始めた頬をさすりながらそう漏らす。
「――わかっております! とはいえ、王族である殿下に手をあげてお咎めなしと行かないことは、よくわかっているのです!」
アンネローゼはそう告げて――流れるように、手にした剣でドレスの前を引き裂いて、肌着をあらわにした。
さらに斬り裂いたドレスの切れ端を刃に巻きつけて持ち手とし、上体を起こして切っ先を腹にあてがう。
「すべての不明は、義妹の側に居ながら止められなかった、わたくしに責があります。
どうかこの一命をけじめとして捧げますゆえ、それにてご容赦くださいませ!」
止める間どころか、声をかける暇すらなかった。
「――ぐふっ!」
僕のすぐ目の前で、アンネローゼは腹を斬り裂いて見せたのだ。
「――ヒッ!?」
生暖かい鮮血が飛んで来て、僕と僕を庇って抱き締めたままの侍女の頬を紅に染めた。
「ギィイイ……」
真横に刃が滑らされ、地面にアンネローゼの腸がこぼれ落ちる。
「――お姉ちゃんッ!!」
「アンネ――ッ!!」
リリィとフェルノード公が叫んで駆け寄る中、アンネローゼは激痛に苛まれているだろうに、僕を真っ向から見据えて、鮮烈な笑みを浮かべて見せたんだ。
「……ご容赦の件、お約束でございますよ……」
そこまではっきりと言い切って、アンネローゼの細い身体は前のめりに――自らの腹から溢れた臓物の中に倒れ込んだ。
「あ、あう……」
衝撃的な光景過ぎて、なにも考えられない。
――なんで、こんな事になったんだ!?
「――マツリ先生! 治療を早く!」
フェルノード公の悲痛な叫びに、館門の前に立って成り行きを見守っていた、ローブ姿の小柄な女性が動き出す。
「――す~げえすげえ。アレがマジモンの切腹かよ! アンなん見せられたら、確かに大抵の事は赦さざるを得ねえわな」
小走りでやってくるその女性に、黒い礼服姿の仮面の男が隣を駆けながら、うなずいた。
「オレも知識としてしか知らなかったが……あれを成し遂げられるだけの精神力――やはり戦闘民族というのは、根本からオレ達とはありようが違うようだな……」
そうしてふたりは血の海に沈んだアンネローゼの元までやってくる。
「――お姉ちゃん! お姉ちゃんッ!!」
血に塗れる事も厭わず、アンネローゼを抱き締めて泣き叫ぶリリィに。
「――どいてろ、リリィ! 手遅れになる!」
と、仮面の赤毛男はリリィをアンネローゼから引き剥がし、彼女を中心にローブ姿の女を巻き込んで結界を張った。
その間にも、ローブ姿の女はまとっていたローブを脱ぎ去り、腕まくりをして魔法を喚起――両手を丁寧に洗い、アンネローゼを仰向けに寝かせて傷口を確認する。
「――チッ! 助かるつもりがなかったね? 念入りに腸を傷つけてるじゃないか!
――ローザ! おまえの躯体延命用の極小万能素材が必要だ!」
結界の中から女が叫ぶと、結界のすぐ横に魔芒陣が描き出され――
「そう思い、緊急治療キットを取って参りました。極小万能素材も輸血用の組成液も持ってきてます!」
――転移魔法だろうか。
魔芒陣が燐光を放って像を結び、先程まで門前にいた侍女が金属ケース片手に現れた。
「よし! アンタはそのままアンネローゼのローカル・スフィアの保護を! 一滴たりとも霊脈にこぼすんじゃないよ!」
侍女から受け取ったケースを開きながら、女は早口でそう告げる。
女は見たこともない器具を手に、アンネローゼの腹から溢れた臓物を恐ろしい速度で――なにをしているのかよくわからないが、治療処置をしているのだと思う。
そうして一分も経たないうちに、そこらに溢れていたアンネローゼの臓物はすっかり彼女の腹に戻され、最後に女が虹色に輝く小瓶の中身を振りかけると、その斬り裂かれた腹すら傷痕なく再生した。
「……ふぅ……」
女が、横たわる血まみれのアンネローゼを見下ろしながら、安堵の息を吐いた事で、僕は治療がうまく行った事を悟る。
「――ドクトル、汗を……」
地面に落としたローブを拾い上げて羽織る女に寄り添って、侍女がハンカチで彼女の顔いっぱいに浮かんだ汗を拭った。
「――よし、応急処置は終わりだな? じゃあ、オレはこのお転婆を再生治療器に放り込んでくる」
と、仮面の男がアンネローゼを横抱きに抱えあげて歩き出すと。
「――うわぁ~、おねえちゃー……」
リリィが号泣しながら、その後を追った。
「ふう……」
という安堵の声と共に、指を弾く音がして。
見ると、僕のすぐ横でしゃがみ込んだフェルノード公が、紙巻たばこを咥え、魔法で火を着けていた。
「……あの子が助かってよかったよ……」
彼は一息に紫煙を吸い込み、公は静かにそう告げる。
「あ、ああ……」
僕が反射的に応じると、彼はゆっくりと顔をあげて僕を見た。
その目は無能などとは程遠い――失態を犯した部下を叱責する時の父上のそれより、さらに遥かに冷たい色を浮かべていて……僕の身体が、知らずブルブルと震えだす。
「――もしあの子が死んでたらなぁ、小僧……」
伸ばされた公の右手がゆっくりと僕の方へと伸びてきて、僕の喉を鷲掴みにした。
「……てめえら兄弟王子と……ライオス――てめえの親父を殺して、王なんて面倒事を引き受けなきゃならんかったところだ……」
その声色は明らかに本気で――わずかに加えられた指に喉を締め付けられた僕は、リリィに巨腕を向けられた時以上の恐怖を感じ……
「……ア、アアア……」
ズボンに生暖かい感触が広がっていくのを感じながら、ただただフェルノード公の目を見つめ返すしかできなかった。




