第1話 1
――ウチの義妹はちょっとおかしい。
その日も、わたくしは西庭園の東屋で読書をしながら午後のお茶を愉しんでいたわ。
七歳の誕生日を機に始めた淑女教育ももう二年目となり、すっかりと生活習慣の一部となっているわね。
午前を家庭教師の先生との学習に当てて、昼食のあとは復習と自由学習の時間。
お父様は「子供なんだから、もっと遊ぶべき」なんて言うのだけれど、わたくしは可能な限り、わたくし自身を磨き上げなくてはならないの。
……来たるべきその日に、力不足だったなんて目も当てられないもの。
今も先生に取り寄せてもらった、統一帝国時代初期の統治・法整備記録に目を通しているところよ。
「――アンネローゼお嬢様。そろそろお時間です」
と、そばに控えていた侍女長のローザがそう教えてくれる。
波打つ金髪に青い瞳の彼女は見た目こそ二十代半ばなのだけれど、実際は我がフェルノード家に代々――それこそ統一帝国時代まで遡れるほどに大昔から仕えてくれている機属だ。
長命種である彼女は文字通り我が家の生き字引で、お父様もお仕事で行き詰まった時はその知恵を頼りにするほどだわ。
「あら、もう? 夢中になっちゃってたわ」
本を閉じて、カップに残っていたお茶を飲み干す。
「始祖女帝がお隠れになった後の帝政から共和制への速やかな移行。
――特に平民からも広く議員を選出するなんて、今の王宮に見習って欲しいくらいだわ」
そう告げると、ローザはティーセットを片付けながら苦笑する。
「……あの頃は今と違い、民が学ぶ事も義務とされていましたからね」
この世界にあって――しかも三百年以上も昔に、たった三十年の施行だったとはいえ義務教育を普及させていた女帝は、恐ろしく先進的な考えを持った人だったんだと思うわ。
長い内乱を経て、各州が独立して王国を打ち立てた現在では、平民は統一帝国以前のようによっぽど優れている者でもない限り、高等教育は受けられない体制になっている。
それは我がロムマーク王国でも同様で――要するにかつて自分達が体制側にそうしたのと同じ事を、今度は自分達がされないようにと民が知恵を持つ事を制限しているのよね。
「さて、それじゃ行こうかしら」
テーブルに掛けた長剣を手に、わたくしは立ち上がる。
最近のわたくしは、午後はもっぱら騎士団の訓練所で戦闘訓練を受けている。
お父様は初めはあまりいい顔をしなかったのだけれど、ゴネにゴネ倒したら渋々了承してくれたわ。
「アンネローゼお嬢様には、ディアス先生仕込みの魔道があるのですから、剣まで覚える必要はないでしょうに……」
と、お父様同様に了承はしていても納得していないローザは、不満げにそう漏らす。
「あら、先生も魔術や魔法が使えない状況で頼れるのは、身体に刻み込んだ武だけって仰ってたわ」
「……あの脳筋め……自分の肩書き忘れてんじゃねえですよ……」
わたくしの答えに、ローザは忌々しげにそう呟いて舌打ちをひとつ。
ローザは家庭教師をしてくれているディアス先生と旧知の仲なのだそうで、先生の事を話す時だけは、こんな風に素が見え隠れしたりするのよね。
いつも淑女の見本のように振る舞っているローザだから、余計に可笑しく感じてしまうのよ。
と、その時――
「――アンネおね~ちゃ~ん!!」
舌っ足らずな甲高い声に視線を向けると、西庭園の入り口から駆けて来る義妹――リリィの姿が見えたわ。
腰の辺りで切りそろえられた銀髪は、端を淡い紫のリボンでまとめられていて、まるで尻尾みたい。
身にまとった空色のワンピースは、今朝、わたくしが選んであげたもの。
その上に着けた白いエプロンは、やたら活動的なあの子があまりにも洋服を汚すもので、ローザが苦肉の策として用意したものよ。
手袋をしたちっちゃな右手を振りたくりながら、一生懸命に駆けて来る義妹の姿にわたくしもローザも思わず頬を綻ばせたわ。
――その左手に握られたモノ――彼女の背後にあるモノを見るまでは……
「――リ、リリィ!?」
「――お嬢様っ!?」
わたくし達は悲鳴じみた声をあげてしまったわ。
すぐにローザが駆け出して、わたくしも長剣を抜いてその後を追う。
「――お姉ちゃん、ローザ、見てみて! これ見て!」
けれど、慌てて駆け寄ったわたくし達に、リリィは動じた様子も見せずに左手に握ったそれを、自慢気にわたくし達に披露したわ。
「――ヒィンヒィン……」
――魔狼だったわ。
それも二メートルを超える白毛赤眼の……
魔境<廃棄谷>に隣接する我がフェルノード領では、魔獣は決して珍しい存在じゃない。
魔鹿や魔猪による食害に対抗する為、農村では百姓が定期的に魔獣狩りの為に山に分け入ってるほどだわ。
けれど、彼らが狩れるのは普通の――という言い方もおかしいのだけれど――魔獣までだわ。
赤眼や金眼にまで成った上位魔獣を討伐するには、完全武装の騎士小隊が必要となるのよ。
「…………」
わたくしとローザは視線を交わし合わせて、互いに幻覚を見ているわけではないのを確認し、うなずきあってもう一度リリィが握るそれに視線を向ける。
「……くぅん……」
リリィの小さな左手に鼻先を握られた魔狼は、わたくし達の視線に気づいて哀れみを誘う声で鳴いて見せたわ。
――魔狼とは。
魔獣の中でも、獅子や虎、熊と並ぶ危険種で、赤眼ともなれば亜竜でさえ単独で狩りうる強力な存在だと――わたくしは騎士のみんなから教わっているわ。
その性質は高潔にして孤高。
だから、武家は魔獅子と並んで家紋に魔狼を採用しているほど。
……だというのに。
「ハッハッハッ……くぅんくぅん」
リリィのかたわらで鼻を鳴らす魔狼は、その赤い眼に涙を浮かべ、ついにはゴロリと身を捻ってお腹さえ見せたわ。
……完全な服従の姿勢。
まるで仔犬から育てて人に慣らした飼い犬のよう。
「ね、ねえ、リリィ? この子どうしたの?」
驚き過ぎたからか、かすれた声がまるで自分の声とは思えなかったわ。
「え? お姉ちゃん、この前、自由になる強いわんこが欲しいって言ってたでしょ?」
紅玉のような綺麗な赤い瞳をきらきらと輝かせて、リリィは満面の笑みで応えたわ。
「……アンネお嬢様?」
ローザがジト目でわたくしを見下ろしてくる。
「え? わたくし、そんな事……ねえ、リリィ。それっていつの事?」
「んとね、お姉ちゃんと一緒におやすみした日だから、昨日の昨日の――」
考え込む時の癖で、リリィは人差し指を唇に当てながら小首を傾げる。
「一昨日、ですね」
律儀にローザが訂正する。
「そう、それ! 一昨日の夜にね、お姉ちゃんが机でなにか書き物しながら言ってたの!」
「……ええと――」
わたくしは必死に記憶を辿ったわ。
「……お嬢様?」
ああ、もう! いま思い出してるから、ローザはその目をやめて!
一昨日の晩は、確かにリリィと一緒にベッドに入ったわ。
いつまでもひとりで眠れないのは、よくないって事で最近は週に一度しか一緒に寝られなくなっちゃったのよね。
わたくしはリリィが言い出すまでは、ずっと一緒に寝ても良いと思ってるのに!
――ああ、そうじゃなくて!
いつもなら三冊は絵本の音読をせがむリリィだったけど、一昨日は珍しく一冊目の途中でうとうとし始めたのよね。
だからわたくしはリリィが寝入ったのを見計らって、ベッドから抜け出して日記を掻き始めて――
ついでに予定表にも目を通して、行動指標をチェックしてたのよね。
それで……公爵令嬢とはいえ、わずか九歳のわたくしにはあまりに世の中の出来事を知る機会が少ない事に絶望して……
――ああ、ジャックはいつ出てくるのよ!
卓上晶明だけの薄暗い室内で、わたくしは頭を掻きながらぼやいたわ。
ジャックというのは、いずれわたくしの専属執事となって、手足のように働いてくれる人物の名前。
特に情報収集能力に優れているから、できるだけ早く出会っておきたい人物なのよ。
そう、だから……
――早く自由に動かせる強い狗が欲しい!
あまりにも空白の多い現在の周辺状況の項目を見つめながら、わたくしは確かに――
「――言ってたあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
普段かぶってる淑女の仮面なんて剥がれ落ち、わたくしは思わず頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまったわ。
「……わふん」
そんなわたくしに、なにか悟りを開いたみたいな穏やかな目をした魔狼が、まるで同志でも見つけたかのようにすり寄ってきて、肩に前足を乗せてきたわ。
「ね? だからリリィ、ちょっと<淵森>まで行って捕まえてきたの!」
むふーと鼻息荒く、自慢気に胸を張るリリィ。
<淵森>というのは、魔境<廃棄谷>を覆うように広がっている森林の事で、魔境から魔獣が彷徨い出て来るのを防いでくれている天然の要害。
「……そう言えば危険種の目撃情報があって、騎士団が討伐に動いてたはずですね」
「それ! 騎士のみんなに着いてって捕まえてきたの!」
ローザの呟きに、こともなさげに返すリリィ。
「ねね、お姉ちゃん。わんこだよ? しかもちゃんと強いやつ! 嬉しい?」
しゃがみ込んだわたくしに、きらきらした目でそう尋ねてくるリリィは、すぐ隣でうなずいている魔狼同様に、尻尾を振りたくっているよう。
完全に褒められ待ちの体勢だわ。
「――あ~っ、もう! 可愛いなぁ!」
危ない事をしちゃダメだとか、いろいろと言いたい事はあったけれど、わたくしの為というリリィの気持ちが嬉しくて。
「ぎゅーっ!」
「むふ~!」
わたくしはいつものように義妹を抱き締めて、サラサラの銀髪を撫でたわ。
森と土とひだまりの香りを胸いっぱいに吸い込む。
――そう。どんなにズレてて変わっていても、わたくしはこの可愛らしい義妹が大好きなのよ!