吸血鬼アスカリアーリオ家の花婿
Assume, at starting, a territory perfectly free from that pest.
How does it begin, and how does it multiply itself?
I will tell you.
A person, more or less wicked, puts an end to himself.
A suicide, under certain circumstances, becomes a vampire.
That spectre visits living people in their slumbers; they die, and almost invariably, in the grave, develope into vampires.
「まず仮に害虫が完璧に存在しない地域があったとします。
どのようにそれは、発生し、どのようにそれは、増殖するでしょうか?
教えてあげましょう。
ある人間が、極悪人か小悪党か関係なく、自殺したとします。
自殺した者は、特定の状況下で吸血鬼に変貌するのです。
その吸血鬼が睡眠中の生者を訪れると彼らが死に、そして必ずといっていいほど墓の中で吸血鬼に成長するのです。」
『Carmilla』
(吸血鬼カーミラ)
―――シェリダン・レ・ファニュ
吸血鬼。
ヴァリッミニ伯アストリッド・アヴ・アスカリアーリオは、その一人だ。
その昔、妖魔や悪霊、領民が恐れる怪異。
それらを退治するのは、領主の役目であった。
地上で目覚めた最初の人間、アルス。
この英雄神の血を濃く継ぐ者だけが怪異と戦うことができるという。
周囲を深い森に囲まれ、灯かりも疎らな農村。
忍び寄る夜の恐怖から民を守るのは、勇壮な血族の戦士たち。
特に吸血鬼と綽名される貴族は、強い力を持つ。
表向き吸血鬼は、鬼籍に入っている。
だが彼らは、秘密の儀式により他者の血を受けることで長命を得ていた。
すべては、邪悪な闇の勢力から人類を守るため。
しかし血の神性───血質というのだが吸血鬼は、それを保つため近親婚を繰り返して来た。
父と娘が、さらにその娘と、またさらにと言った風にである。
庶民からすれば寒気がするような話だ。
そのため狂ってしまう一族が多い。
そこで衰え捻じれ、枯れ果てた高貴の血筋とは、別に庶民を家系に挟むことで一族の命脈を保つという伝統があった。
私のようなごく平凡な男がヴァリッミニ伯の夫に選ばれたのは、こちらのケースである。
(ウルス教世界では、女も複数の夫を持つことが認められた)
いつ、どこで伯爵が私を見初めたのか。
ある日、真っ黒な封筒が届き、私が吸血鬼の種馬に選ばれたことを家族は、驚いた。
「ああ、ひいっ!
うわ、あああッ!!」
声をあげて床に崩れ落ちたのは、私の兄だ。
母と父も土色の顔で黙り込んでいた。
「………可哀そうなベオルト。」
半日経って母が発したのは、それだけだった。
吸血鬼に関わってろくなことはない。
いまでこそ輸血液がある───これも貧しい人たちから金で血を買い上げているのだが庶民の吸血鬼に対する怖れは、根深いものがある。
しかも連中は、Chevalic Order du Chassar(COC:狩人の騎士団)を立ち上げ、これまで妖怪狩りに参加しなかった庶民からも血質の優れた者を選び、彼らに狩り道具を持たせて狩りと殺しを始めさせた。
それほど吸血鬼が数を減らし、妖怪退治に手古摺っているらしい。
だが狩人は、怪しげな身分の血に飢えた殺人鬼集団だ。
どの街でも住人は、狩人を恐れ、家の中で震えている。
しかも莫大な税金が民衆の両肩に圧し掛かっていた。
みんな、狩人は、吸血鬼が民衆を弾圧する尖兵と噂している。
その上、花嫁、花婿狩りだ。
病的に奇形化した家系を繋ぐため、若い男女が城に連れていかれる。
家族にとって悲劇の上の悲劇だ。
「狩りが絶えれば人類は、魔に滅ぼされる。」
そう答える馬鹿どももいる。
だが私に言わせればこのままでは、吸血鬼に国が滅ぼされるだろう!
「君がベオルトリッチ君か。」
黒髪の貴族が私に声をかけて来た。
私は、ヴァリッミニ伯のガラー城に連れて来られた。
中庭を一望できる部屋で待たされていると若い男がやって来る。
伯爵には、すでに夫があった。
いわゆる高貴な血筋を残すための夫だ。
彼の家名は知らされていないがエグバートと呼ばれていた。
「は、初めまして…。
いや、どういう挨拶をすればええのかも分からんもので。」
「何も気にすることはない。
君は、アーティの正式な夫なのだから。
ここでは、自由に過ごし、召使たちも自由に使い給え。」
エグバートは、そう言いながらテーブルに就く。
豪華な菓子と茶が私と彼の前に饗された。
どれも世界中の植民地から集められている最上の品だ。
何もかも見たことがない上流の世界に私は、足を踏み入れた。
「ああ。
訂正しよう。
私の墓とアーティの墓には、近づかぬこと。」
エグバートは、そう言って低く笑った。
「…殿様と伯爵様のお墓があるんですかい?」
私は、遠慮がちにそう言った。
エグバートは、深く頷く。
「そうだよ。
なんてね、冗談だよ!」
と笑ってエグバートは、肩を揺すった。
だが笑えない私は、困って背中を丸めるしかなかった。
「いいかい、ベオルト君。
アストリッドのことは、アーティと呼び給え。
御領主様とか御屋形様なんて呼んじゃいけない。」
「へ、へい、殿様。」
「アーティは、午後からしか起きてこない。」
「昼間に起きられるので?」
私が質問するとエグバートは、菓子を食べてながら答える。
「ん、君も食べなさい。
そうだ。
吸血鬼は、太陽が嫌いだが物語のように一瞬で灰になったりはしない。
むしろ大抵の吸血鬼は、散歩なんかしたりする。
アーティ以外の吸血鬼も昼間に出歩くのを好む。
まあ、5分も歩くと気分が悪くなって日陰に逃げ込むんだがね。」
「気分が悪う?」
「うむ。
ほら、私がここにいるじゃないか。」
エグバートは、そう言いながら召使に合図した。
「寝室に行ってアーティの機嫌を。
ベオルト君を待たせているからと。」
「はい、テッド卿。」
召使は、一礼して部屋を出て行った。
エグバートは、それを見届けて話を再開する。
「それと獣狩りだ。
月に一度ぐらい狩人は、獣、つまり化け物狩りに出る。
彼女が帰って来たら3日は、会わないこと。」
「3日?
テッド卿、そいは、どういう理由でやすか?」
「獣を狩った後は、興奮している。
血と殺しにだ。
痛い思いがしたくないなら近づかぬことだよ、ベオルト君。」
「そ、そんなにでやすか!?」
私は、ギョッとした。
そんな猛獣と一緒に暮らすことになるとは、覚悟していない。
「安心し給え。
アーティは、面白半分に領民を傷つけたりしない。
私もホラ、指一本無くしちゃいない。」
といってエグバートは、右手を広げる。
だが彼の表情は、危険を楽しんでいた。
「とにかく気楽に構えることだ。
まともに反応してたら身が持たない。
狩人は………。」
エグバートと話していると部屋に伯爵が入って来た。
私は、妻となる女の姿を見ようと目を皿のようにした。
「ごきげんよう。」
伯爵は、透き通った青い瞳に艶やかな金髪をしている。
年齢は、14歳前後に見えた。
少女である。
だがそんなはずはない。
彼女は、200歳以上の老人のハズだ。
「初めましてベオルトリッチ。
余がアーティ。」
「は、初めまして伯爵様。」
私は、席を立って伯爵に深く頭を下げる。
彼女は、領主の椅子に腰を下ろした。
「ベオルト、最初にお尋ねするのだけど。
貴方の子供が狩人になることは、同意できて?」
「ええっ!?
私の子供は、安全に暮らせると!!」
私は、事前の話と違う伯爵の質問に飛び上がって驚いた。
私の子供は、アスカリアーリオの血を残すのが役目のハズだ。
「そんな話、聞いておりやせん!」
「ふふ、安心なさい。
別に貴方の子を危険な目に合せたりする気はない。
ただ獣を狩る名誉ある騎士団に加わる気はないかと聞いたのよ。」
伯爵にそう言われて私は、青くなった。
「えっ、い、いや…。
私は、獣狩りの栄誉を厭うつもりはありやせん!
…た、ただ前に聞いていた話と違って驚いただけでやして…。」
「あら、いやなの?
騎士団に伍することは、名誉ではなくって。」
と伯爵は、残酷な問いかけをする。
私は、じっとりと汗を浮かべた。
「そ、そんなら恐ろしい事…。
自分の息子が化け物と戦うなんて…。」
「良いのよ。
庶民が臆病でも。」
といって伯爵は、凶暴な笑顔を作った。
ここで、ふと私は、思い出したのだ。
「あ、ああっ!!」
私は、伯爵に会ったことがある。
そう、村祭りで…。
「まさか、あの時の…!?」
なんて間抜けな台詞だろう。
今どきこんな台詞は、三文芝居にも出てこない。
だが実際、この場に立たされると他の言葉が出てこなかった。
「ふふふ…。
思い出していただけたかしら。」
伯爵は、うっとりしたように微笑んだ。
2ヶ月ぐらい前のことだ。
収穫祭で声をかけた女が伯爵だったのだ。
あの時は、夜で顔も良く分からなかった。
私と彼女は、一夜を共にした。
それっきりの関係だったのに。
「あの時に貴方が余に訴えた愛情は、一夜限りの妄言だったのかしら?」
獲物を追い詰めた猫のように私を見据えて伯爵は、そう言った。
血が凍り付きそうだ。
「お、お許しくだせえ、御領主様っ!
あれは……あれは、そのっ!」
「良いのよ、分かっているわ。」
目を細めて伯爵は、話し始めた。
「あの場は、下賤なお前たちが相手を探す遊興の場。
男女が一夜限りの遊びを楽しむ場であろう。
けれど余は、貴方との秘め事を忘れずに心に留め置いた。
それが無粋なことなのは、承知している。
けれど貴方が私を覚えていてくれて素直に嬉しい。
できれば余は、貴方とこれからも睦言を遂げたいと思っている。」
私にとって意外だったのは、伯爵が私を選んだのが気紛れではないということ。
だが嬉しいという気持ちより、恐ろしさが勝る。
それでも彼女の見た目は、少女だが年齢は、200歳を越えている。
夫婦生活も慣れたものだ。
彼女の愛らしい仕種や誘惑は、私に彼女が恐ろしい怪物だと忘れさせる。
私も彼女を怖がっていると知られないように彼女の前では、あらゆる物事を頭の片隅に押しやって狂った猫のように、あるいは種馬のように役目を果たした。
彼女の危険な牙が見える艶唇に接吻し、闇に光る眼を避けて舌を吸う。
震えを隠して愛撫を重ね、偽りの愛を演じる。
「ねえ、ベオルト。」
「ふう、えっ?
もう?」
夫婦の閨で伯爵が改まった態度で私に声をかけて来た。
私が寝台の上で上半身を起こすと彼女は、首を左右に振った。
「ふふ、違うわ。
貴方、吸血鬼に興味はない?」
伯爵は、そう言って私の手を取る。
「人がどうやって吸血鬼になるか知りたくない?
貴方は、自分も吸血鬼になりたいと思ったことはない?
私は、その経験がしてみたいの。」
「アーティ、私は………。」
断ろうとする私の言葉を伯爵は、遮った。
「いいえ。
貴方は、死ぬのよ。
人間は、いつか死んでしまうくだらない生き物じゃない。
だから私は、貴方を殺す。
そして貴方が誰かを殺す瞬間に立ち会いたいわ。
とても楽しみじゃなくって!?」
吸血鬼は、血に酔った目で私を見て、そう言った。
気狂いめ。
狂人め。
正直言って2年ほど彼女と一緒にいて不快な思いをしばしばした。
―――私には、知りようもないが吸血鬼には、人の心を魅了し、支配する術があるらしく相手が不快感を覚えても一瞬のちには、取り去ることができるのだ。
時折、彼女は、発作のように殺しとか狩りについて口にする。
そうなると凶暴な狩人の本性を見せる。
胸が悪くなる悪趣味を吐露し、家来や私を混乱させた。
だが不思議と皆、すっとそのことを忘れてしまう。
まるで夢と現が入れ替わるように。
普段、私の生活は、思ったより普通だった。
想像していたような嫌がらせもなく穏やかなものだ。
何故なら私の周りにも私と同じ境遇の男女がいた。
彼らは、互いに話の分かる相手だ。
吸血鬼に気に入られ、無理やり、城館に連れ去られた者は、例外として。
私たちは、貴族でもない。
だが嘘の肩書きで古い貴族の末裔ということになっている。
訛った言葉や無作法も誰も指摘しない。
ああ、私にも仲間がいる。
何の心配もないな。
そう思っていた矢先だ。
ある事件があった。
いや、事件とも違う。
吸血鬼たちの集まる夜会だった。
血質の特に低い人間を余興として痛めつける見世物があった。
親族から獣が出た者などに鞭打ち、焼き鏝を当て、熱湯をかける。
私たち庶出の花嫁、花婿にとって血も凍りつく場面だった。
だが吸血鬼は、それらを平気で見ていたのだ。
本当に平凡な出来事だったのだろう。
血と狩りと美に生きる彼らにとって狩りのない期間は、退屈過ぎるのだろう。
人間の悲鳴や意味のない暴力が彼らの人生の彩なのだ。
やがて失神したり嘔吐する庶民たちの腰に吸血鬼は、腕を回す。
そしてその夜は、一層、凶暴な愛の一幕を開けるのだ。
鮮血の光景を目にし、恐怖に震える伴侶。
そこへ興奮した吸血鬼たちが覆いかぶさり、情欲のままに肌を重ねる。
そして囁く。
弱いお前たちを守ってやるのは、自分だけだと。
さあ、もっと猥らに身体をくねらせて愉しませるのだ。
殴り、叩き、爪を立て、嚙みつき。
満足したのちに吸血鬼は、術を施して忘れさせる。
しかし不思議と次に彼女が発作を起こす時は、全員そろって思い出すのだ。
本当に不思議な物だった。
「もちろん下賤な庶民の貴方が狩りに参加することはないわ。
狩人としての呪われた運命は、貴方に受け継がせない。
安心して良いの。
吸血鬼の持つ不死性だけを抽出して血の雫に精製できるの。
若いままで生きられるのよ、ベオルト。」
「永遠の命…。
…若さか。」
私は、その甘美な申し出に傾き始めていた。
人の血を啜る化け物の仲間入りは、御免だが死の恐怖には、代えられない。
「そうよ。
どうせ生きるに値しないカスみたいな人間ばかりじゃない。
それが貴方の命を延ばす糧になるの。」
そんな話をしていると扉を叩く者があった。
「閣下、失礼いたします。」
「あら?」
吸血鬼として超常の能力を持つ彼女が人が近づくのを気付かないとは。
こんなことは、滅多にあるものじゃない。
よほど私を説得するのに夢中だったのだろう。
私は、少し驚いた。
吸血鬼は、というか狩人は、とんでもなく勘が鋭い。
視覚や嗅覚のような五感も人間の数段上だ。
だが他にも説明のつかない勘が働くことがある。
「良い。
そこで話しなさい。」
伯爵が扉の向こうの相手にそう言った。
家来が許しを得て答える。
「騎士団より狩りの指令が参っております。
お部屋に書簡をお届けしましたのでお目を…。」
「急ぎ?」
「………”大鹿”に関するものかと。」
その言葉で伯爵の表情が厳しくなった。
これも滅多に見たことがない。
「ベオルト、ごめんなさい。
また可愛がってくださる?」
「もちろんだよ、アーティ。
誰が君を拒むもんか。」
私たちは、熱い抱擁を交わした。
これが術なのか自然的なものか分からない。
だが私は、伯爵を愛していると実感していた───さっきまでの恐怖も嫌悪も忘れ去って
伯爵は、寝台を降りる。
そしてスーッと影のように扉に吸い込まれていった。
最初の説明通り伯爵が月に一度、狩りに出る以外、私たちは、幸せな夫婦だった。
3年目には、待望の子供も生まれ、喜びも倍になった。
しかし見えてくるものもあった。
なんとエグバートと伯爵の子供は、地下牢に繋がれていることを知ったのだ。
エグバートの子は、大切に養育されていると私は、思っていた。
貴族同士の正統な世継ぎであるからだ。
「そ、そんなこと初めて聞いたよ!」
私は、城の中でエグバートを捕まえて、その事を訊ねた。
それに彼は、実に乾いた他人事のような口振りで答える。
「ふふ…。
私の素性を君に明かしていないことで薄々、察しは着いているだろう。」
「察しって…。
私は、貴族のことは何も分からない。
…君と伯爵の子供たちが監禁されてることに驚いてる。」
エグバートは、寂しそうに首を振る。
そして淡々と話すのだ。
「私とアーティの関係を聞けば君は、気分を悪くするよ。
いや、なんと説明したらいいか私も一言ではね。
兄弟といえばいいのか…。
それとも孫というべきか、いや、従兄弟でもある。
もう人間の言葉では、吸血鬼の血縁関係を説明できないんだよ。
我々は、獣に対抗する血を維持するために長命を得た。
その上で複雑に絡み合う近親交配を繰り返し、血質を高めるために血の呪いを重ねて来た。」
これも何度も聞かされた話だ。
だが私は、初めて本当に怖くなった。
エグバートの子らが牢に繋がれていると聞き、ようやく本当に理解したのだ。
「戦場から戻った兵士が時に戦闘を思い出して暴れたり悪夢を見るだろう?
狩人、その中でも吸血鬼が血と共に継承する悪夢は、濃厚で深淵だ。
幸いにして吸血鬼には、時間がある。
狂った血族が生まれても治療に時間を割けば問題ない。」
「………正気に戻ると信じて地下に?」
私が意を決して訊ねるとエグバートは、小さく頷いた。
「君が気にすることではない。
君は、アーティに温かい家庭を作ってやってくれ。」
私は、寒気がした。
いや、今まで考えないようにして来ただけだ。
この城に悍ましい吸血鬼の秘密があることを知っていたのに。
伯爵との結婚生活に新しい不安が生まれた。
ある時、狩りから戻った伯爵がギョッとした顔で立ち止まった。
「それは、なんだ。」
「何って、アーティ。
ふ、ふざけないでくれ。」
彼女が驚いたのは、私たちの子供、小さなアストリッドだ。
もう5歳になる。
「………あ。
あ、ああっ!
ああっ、そうだ!」
伯爵は、目を泳がせながら何度も頷く。
彼女の中では、数百年分の記憶を手繰り寄せる難作業なのだろう。
「娘だ!
私と貴方の…!
は、ははは…。」
歪んだ笑いを浮かべて伯爵は、頭を振る。
「そ、そう…アストリッドだ。
そう、そうだろう!?」
「そ、そうだよ…。」
私は、青褪めた顔で彼女を見ていた。
彼女も気まずそうに床を見下ろして凍り付いている。
「…そう、そうよね…。」
そしてしばらくしてから手で口元を抑えて言った。
「ご、ごめんなさい…。
ちょっと気分が悪いから誰も来ないで!」
伯爵は、それだけ言って自室に引き籠った。
それから3日は、出てこなかった。
「この前は、驚かせてごめんなさい。
吸血鬼は、何百年も生きてるから仕方ないの。」
「大丈夫。
私もそれぐらいは、分かってるよ。」
私がそう言うと幾分か伯爵の表情が和らぐ。
彼女は、ホットチョコレートを口にする。
吸血鬼は、ほとんど食べ物を口にしない。
いつか彼女の同類が開いたガーデンパーティは、異様だった。
山のように御馳走が並ぶが誰一人、手を付けない。
目が飛び出すような豪華な食事は、貧民に提げ下ろす。
路上に集まった貧者目掛けてスコップで掬って撒き散らす。
目を背けたくなる光景だ。
「貴方は、食べても良いのよ。」
伯爵は、私にそう声をかけて来た。
彼女をはじめ吸血鬼たちは、日の光でぐったりしている。
数歩歩くと日陰に入り、元気なるとまた出てくる。
これも異様な光景だった。
彼女が口にするのは、ワインとチョコレートだけだ。
そして私は、見たことがないが主食は、血なのだろう。
だから今回も3日間、彼女が部屋から出て来なくても誰も心配しなかった。
吸血鬼は、人間の計りが通用しない生命だ。
しかし時間の流れに違いがあっても肉親は、例外だと信じたかったのに。
結婚6年目。
三人目の子供が生まれた。
だがこの子は、血族の影響が出たらしい。
私は、この子と引き合わせて貰えなかった。
「アーティ、ビルギットは、生きてるんだろう?
一度でいい。
娘に私も会わせてくれ。」
「ダメよ。」
伯爵は、領主の椅子に座って陰鬱な表情でそう答えた。
「あの子は、狩人の血が濃く出てしまった。
それにもう赤ん坊だと思わないことね。」
「どうして…。」
「仕方ない。
あの子は、狩りの神に見初められてしまったのよ。」
「違う。
…なぜ娘に会っちゃいけないんだ?」
私が一日中訴えると伯爵は、根負けしたように溜息を吐く。
「はあ。
………何十年かかるか分からないのよ?」
「どういうことだ?」
「あの子は、狩人の夢に微睡んでいる。
目覚めの世界に夢が溶け合い、次元と時間が淀んでいるの。
夢での数年の出来事もこちらでは、0.8秒しか経ってない。
地下牢は、貴方が思うような冷たい石の空間ではないわ。
きっともうあの子は、大人になってる。
時間の流れが地上とは違うのよ。
そうでもしないとこの世の終わりまで悪夢に囚われたままだから。」
伯爵は、魔法で私に奇怪な景色を見せる。
それは、雪吹き荒ぶ荒涼の大地。
あるいは、言葉で説明できない見たこともない穢れた空間だ。
そこを不気味な怪物―――獣が走り回っている。
そして獣と同じぐらい狂ったように人影が走り回っている。
「うっ!」
血走った目の男が獣を殺し、生肉を食らっている。
別の場所では、女が獣の内臓を自分に巻き付けて恍惚の表情を浮かべる。
あるいは、狩人同士が素手で互いの皮膚を剥ぎ、血塗れで転げまわっていた。
修羅の地獄だ。
終わることのない殺戮と暴力が犇めいていた。
「どう?
ここに入ってビルギットを探す?」
「い、行っても良いんだろう!?」
私が勇気をもって宣言するが伯爵は、相手にしなかった。
彼女は、烈火のように怒り出した。
「はっ、馬鹿ね。
そんなこと許可を出すと思って?
ただの人間が狩人の血に狂った夢に入って我が子を探すなんて。
―――なんて馬鹿な男!
目を覚ましなさい!!」
伯爵と結婚して15年が過ぎた。
すっかり周囲は、私をヴァリッミニ伯だと信じて疑わない。
私自身、貴族としての振る舞いが板について来た。
「御領主様。
閣下が所有する株式が………。」
「閣下。
次の選挙に関してスークバロ伯の………。」
「ブラン伯が亡くなられ、5日後に葬儀が………。」
若い家来たちは、もう私が最初から貴族だと思っている。
「もう何の心配も要らないな。」
エグバートが私に声をかけて来た。
私は、ボタンをいじりながら答える。
「いや、化けの皮がすぐ剥がれるよ。
今日は、何の御用向きかな。」
「…ううん。」
エグバートは、かなりしんどそうに席に着いた。
身体を椅子に沈め、しばらく黙っている。
「………アーティが新しい花婿を見つけた。」
「む。」
その報せは、私にとって一瞬、脳が空白になるものだった。
だが貴族を装う生活の中で身に着いた自制心が動揺を抑え込んだ。
「私は、どうなる?
子供たちは?」
「もちろんこれまで通りに暮らせる。
心配は要らない。」
「母親が家庭に寄り付かなくなってこれまで通りにはならぬよ!」
思わず私が怒鳴ってもエグバートは、静かに答える。
「アーティは、君たちのところに欠かさず顔を出す。」
エグバートがそう答えてから私は、ハッとした。
彼の子供たちは、恐ろしい悪夢に囚われていることを思い出したからだ。
「悪かった、エグバート。
………だが、いったい………。」
「君が悪い訳ではない。
竜騎士団の意向だ。」
竜騎士団は、吸血鬼たちが所属する友愛組織―――相互扶助を目的とした貴族の社交クラブのようなもので何かしらの目的に基づいて活動を行う組織のことだ。
もちろん獣と戦う本来の騎士団に近い集団でもある。
だが今や数を減らす吸血鬼にとっては、繁殖研究機関めいた色調を帯びていた。
「同じ男と子供を作り続けても血が濃くなるのを防ぐことにはならない。
君とアーティは、十分に子を為した。」
エグバートは、沈痛な面持ちで話す。
だが彼にとって何度か経験した出来事なのだろう。
確かに私と伯爵の間には、6人の子供が生まれた。
その上、ここ数年、新しい子供も生まれていない。
私は、種馬としての役目を終えたようだ。
「私は、新しい夫に挨拶するべきかな?」
「…したいか?」
エグバートは、私の方ではなく庭を眺めてそう言った。
丁度、私の子供のうち一番下の子が遊んでいる。
「人間か?
吸血鬼か?」
「………吸血鬼だ。」
エグバートは、かなり間をあけてそう答える。
それは、また肉親との近親相姦を意味していた。
「ふう………。
…わ……私と彼女の息子だ。」
遂に耐え切れなくなったのかエグバートは、そう溢してしまった。
私は、目を大きく見開いた。
「先日、地下から戻って来た。
悪夢の霧を抜けて………隠し通せなかった。
…騎士団に知られれば、こうなることは、分かって……。」
エグバートは、両手で顔を抑える。
こみ上げる酸っぱい物を私は、飲み下した。
身体の芯から来る震えが止まらない。
私の人生は、何だったのだろう。
いや、なんと人生は、滑稽で皮肉な宿業の塊なのだろうか。
妻を愛そう、妻を愛そう。
その一念で暮らして来たが伯爵にとってそれは、過去のものになった。
他人に自慢できる人生の方が少ないだろう。
世の中には、成功者と負け犬なら後者の方が多い。
だが多少の成功も過去になってしまえば同じことだ。
私は、伯爵のために6人を授けてやった男ということになった。
彼女を喜ばせもしたし、夫としてうまくやったと思っていた。
だがそんなものは、終わったのだ。
しかも伯爵の術が次第に薄れて来た。
暴力や恐怖の光景が目に浮かぶ。
それでいて強いられた彼女への愛が裏切られた苦しみもしっかり残っている。
愛と憎悪の相反する二つの感情に押しつぶされる。
この苦しみから逃れる方法は、潔い死だ。
「父上。」
「……アーティ。」
追い詰められた私が自殺という決断を頭から振り払えたのは、娘のアストリッドが声をかけてくれたからだった。
「どうした?」
私は、恐ろしい考えを娘に知られまいと普段通りに努める。
だが娘に父親の異変を隠し通すことはできなかった。
「最近の父上は、様子がおかしいと弟たちも心配しています。
何か私たちに隠していることがあるのでしょうか?」
娘たちも吸血鬼のことは知っている。
だがすべての貴族の家に吸血鬼―――表向きに死んだことになっている当主がいる訳ではない。
彼女たちは、自分たちの母親が普通の母親と思っている。
それにアストリッドの偽物、老いて死んでいく生者の母も宛がわれた。
子供たちにとって父親と母親の夫婦仲は、依然変わらない。
そのように術で暗示をかけられているらしい。
もし仮に私と子供たちの会話に食い違いがあってもなかったことになる。
私の術だけが弱まっているのは、伯爵が私に自殺を望んでいるのだ。
私が恐怖と屈辱、怒り、そんな感情の中で潰れていくことを楽しんでいる。
「ふうう……ううっ!」
そんなことを考えていると涙が浮かんで来た。
伯爵の20年費やした遊びは、佳境を迎えた。
「ぐう……ふ、ううっ!」
「ち、父上!?
どうかなさったのですか!?
本当に何か……。」
娘は、そう言って私に近づいた。
思わず私は、彼女の腕を掴む。
自分でも思わぬほど強い力が入ってしまった。
「お、お前たちは………!」
心が楽になるのならここで全てを話してしまいたい。
私が庶民に過ぎず、お前たちも半端者だということ。
それを貴族たちが薄ら笑いを浮かべて見ていること。
悍ましい血の継承、呪わしい近親婚。
そしてガラー城の地下にお前たちの妹が幽閉されていることを!
伯爵は、どうせ術で人の心などどうとでもできる。
でも、もし伯爵が私の望むようにしてくれなければ?
子供たちにも苦しみを背負わせてしまう。
「………ふう。
な、何でもない。」
私は、そう言って娘の腕を放した。
早く死んでしまおう!
この悲しみや苦しみは、私だけが抱えて隠しておけばいい!!
子供たちに知られる前に、早く!!