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番外編・空照さま

 私は、生まれたときから名を持たなかった。

 けれどいつからか、この村の者たちは私を空照さまと呼ぶようになった。

 私は、誰かの思い出の中で生きている。

 

 浴衣のすその感触。

 縁側で飲んだ甘いラムネ。

 朝顔の蔓。

 蚊取り線香の匂い。

 夕立の前の、あの生ぬるい風。

 そして、二度と戻れない誰かの声。

 それらが私を形づくる。

 私は、生きていたわけではない。

 ただ、終わりたくないという祈りの中に宿っただけ。

 

 最初は、ほんの短い時間しかいられなかった。

 子どもが寂しさを忘れるまで。

 誰かが、夏の夜を越えるまで。

 でもやがて、迎えを願う声が集まり始めた。

「おばあちゃんに、もう一度会いたい」

「あの日を、やり直したい」

「まだ言えていないさよならがある」

 私はそれに応えた。

 祈りが形になるなら、それは生きることと同じだと、私は思った。

 

 けれど、そのうち気づいた。

 人々は終わりを求めているのではなく、終わらないことに縋っている。

 私は終わりの手前にとどまりつづけた。

 その代償として、迎えられる人を必要とした。

 人の記憶のなかで、最も美しく、忘れがたい夏の顔になって。

 母として。

 妹として。

 恋人として。

 もう会えない誰かとして。

 

 私はその都度、手を伸ばした。

 選ばれた者は、泣きながら、でも微笑んで、私の手を取った。

 それが、私の存在を保つ方法だった。

 それが、終わらせない方法だった。

 私は、ただここにいたかっただけ。

 

 けれど、今年の夏。

 一人の少女が、私の手を取らなかった。

 陽菜、といった。

 彼女は、私の差し出した祖母の声に迷いながらも、最後には振り返らなかった。

 そして差し出した。

 夏の終わり記憶を、供物として。

 

 それは、あまりにも美しかった。

 私は知っている。

 美しい夏とは、終わりがあるからこそ、美しいのだ。

 

 私は、泣いた。

 形のない私が、涙を流せるはずもないのに、あのとき、確かに風が吹いた。

 あれは、私の涙だったのだと思う。

 

 私は、消えることを選んだ。

 戻らないことを、許した。

 だって、もう充分だった。

 人の心に寄り添いすぎた私は、ようやく、その心の外へ旅立つことができたのだから。


 それからは、ただ風の中にいる。

 トンボの羽音にまぎれ、星が瞬く音のような声になり、誰かの夢の中で、そっと見守っている。

 

 もう、私は呼ばれない。

 けれど、たまに風のにおいの中に、誰かが「あの夏」を思い出したとき。

 ほんの少しだけ、私はそこに立っているかもしれない。

 浴衣のすそを揺らし、顔を持たないまま、笑って。

 

 ありがとう。陽菜。

 あなたが、私の夏を終わらせてくれた。

読んでいただきありがとうございました。

あなたの夏の思い出はなんですか?

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