番外編・千葉悟
夏が嫌いだった。
照りつける陽の光も、蝉の声も、青すぎる空も。
全部が、あの日を思い出させるから。
妹が、いなくなったあの日。
空照村の夏は、他の場所と違う。それに最初に気づいたのは、俺が小学生のときだった。
妹の美咲が、夢を見たと言った。
「お父さんがね、迎えに来たの。白い道の向こうで手を振ってたよ」
父はその前の年、事故で亡くなっていた。山の仕事中、崩れた岩にのまれた。
葬式のとき、母は泣きながら言っていた。
「こんなに夏のまっただ中に逝くなんて……この人、いつまで夏が好きなのかしらね」
美咲は、その夢を何度も見るようになった。
「森の奥にお父さんがいてね、私のことおいでって呼ぶの」
美咲は嬉しそうに言っていたが、俺は不安でたまらなかった。
それはただの夢じゃない。空照さまの呼び声だと気づいたから。
俺自身、幼いころ、忘れかけていたが、同じ夢を見たことがある。でも俺は、手を取らなかった。
理由はただ一つ。
「おばあちゃんの声じゃなかったから」
でも、美咲は違った。父の声が、父の姿が、彼女にとっては、すべてだった。
「私ね、明日、お父さんのところに行ってみる」
その言葉が最後だった。
翌朝、彼女は布団の中にいなかった。母と俺が探し回っても、どこにもいなかった。
警察も来た。山も捜索された。でも何も見つからなかった。
ただ一つ、俺だけが見つけたものがある。
境の森の入り口に落ちていた、小さな草履。
そのときから、俺はこの村の夏の呪いについて調べ始めた。
夢、繰り返される日付、迎え、そして空照さま。
全てが、止まった時間の中に埋もれていた。
だが、あの夏。転校生の陽菜が来て、初めて、終わりが近づいた。
彼女は、誰かに呼ばれかけていた。
夢の中で。
セミの声の中で。
記憶の中で。
でも、彼女は手を取らなかった。
「……あれは、おばあちゃんじゃない」
彼女はそれを見抜いた。空照さまの優しさのふりをした誘いに、負けなかった。
そのとき、俺は少し泣いた。
そして心の中で、美咲に謝った。
「……俺、止められなかった。美咲が呼ばれるのを、ただ、見ていただけだった」
けれど、空照さまが消えて、社の前に立つ白い人影たちが風に溶けていったあの日。
そのなかに、あの子がいた。
白い浴衣。濡れた裾。寂しそうに、でも優しく微笑んでいた。
俺は、思わず言った。
「……うん。ありがとう。もう、大丈夫だよ」
彼女は、小さくうなずいた気がした。
あの日から、俺はもう夏が嫌いじゃなくなった。
蝉の声が静まった空照村の朝。
風がやさしく吹く夏の終わりの匂い。
ああ、これは本当に、美しい季節だったのだと。
ありがとう、陽菜。
君が終わりをくれた。
そして、俺に次の季節を教えてくれたんだ。