終わった夏に残されたもの
八月十七日。止まっていた時計の針が、ようやく次の日を指した。
朝の空は、どこか秋の気配を含んでいた。雲の形が丸くなり、風が肌にやさしく吹いている。
そして、あれだけ響いていたセミの声が、もう全く聞こえなかった。
空照村は、変わっていた。
少しずつ、静かに。けれど、確かに。
悟と境の森の入口で再び会った。彼は、昨日よりもずっと穏やかな顔をしていた。
「陽菜のおかげで、ちゃんと終わったよ。夏も、あの人たちも」
「悟のおかげでもあるよ……妹さん、笑ってたね」
「うん。あれ、ほんとうに、あの子だったと思う。でも、たぶんもう、夢には出てこないな」
私はうなずいた。もう、誰も迎えに来ない。誰の記憶のなかにも、空照さまはいない。
悟がぽつりと呟いた。
「でも……ちょっとだけ、寂しいね。だって、もうあの夏には戻れない」
私はそれを聞いて、思わず笑った。
「それが夏の終わりでしょ? 二度と戻れないってこと」
悟も優しく笑った。
「そうだね。陽菜、ありがとう。君が来てくれなかったら、きっと俺、諦めてた」
「私も。悟がいてくれたから、ちゃんと終わりを見つけられた」
二人で、しばらく森の方を見つめた。
その奥にあった社も、白い浴衣の人々も、空照さまも。
何も、もう、見えなかった。
八月十七日の午後、私は母と一緒に村の商店へ行った。
「今日は、暑くないのね。風が涼しいわ」
母の頬には、少し赤みが戻っていた。長く続いた夢から、ようやく目覚めたような顔だった。
「カレンダー、めくったわよ。忘れずにちゃんと。八月十七日、って大きく書いてある。……不思議ね。わからないけどなんだか嬉しくて」
私は笑って、「うん」とだけ答えた。
夜になって、窓を開けた。
風がすっと吹き抜ける。セミの声はない。代わりに、どこかで草の音と、小さな虫の声がした。
私は窓辺に座って、星空を見上げた。
そして、そっと目を閉じた。
ありがとう。あの夏を、忘れません。
でも、私は前に進みます。ちゃんと、次の季節へ。
風が頬を撫でた気がした。
まるで、誰かが笑ってくれたような気がした。
翌朝。私は村の道をひとりで歩いた。蝉の声の代わりに、小さなトンボが飛んでいた。
空は、青く高く広がっていた。
空照村に、本当の夏の終わりが来た日。
それは、きっとこの村の新しい始まりでもあった。