夏の願いと引き換えに
境の森は、今日も空を隠していた。午後の陽射しが続いているはずなのに、木々の隙間には光が落ちず、空気はしんと静まりかえっていた。
いや、静かじゃない。耳をすませば、いつものあの声がする。
カナカナカナ……カナカナ……
ヒグラシの声。でも今はそれが、ただの自然の音には思えなかった。この森そのものが、蝉の声を通してこちらを見ているような気がする。
悟が私の隣を歩いていた。手には、小さな箱がある。中には、私が書いた記憶が入っていた。
「これが、君の供物?」
私はうなずいた。
「うん。……あの花火の夜のこと。おばあちゃんと、最後に見た大事な思い出」
短冊のような紙に、できるだけ丁寧に書いた。思い出すたびに、泣きたくなるような、でもあたたかい記憶。
夕暮れの川べりで、手をつないで見た花火。打ち上がった瞬間の光に、祖母の横顔が照らされた。それが、私の中での夏の終わりだった。
「空照さまは、差し出された記憶を食べることで、自分を保ってる。でも、それが本当の夏の終わりだったなら、きっと……何かが変わる」
悟の声は、どこか祈るようだった。
社の前まで来ると、あのときと同じように、白い浴衣の人々が並んでいた。顔が見えない。うつむいていて、何も言わない。ただ、そこにいる。
その奥に、鳥居。しばらくすると社の中から、それは現れた。
人の形をしている。けれど顔はない。顔の位置には、無数の蝉の抜け殻が張りついている。歩くたびに、殻がかすかにカラカラと鳴った。
悟が言う。
「空照さま……!」
私は、胸の中で自分の記憶を思い浮かべながら、一歩、前へ出た。
「……空照さま。これが、私の夏の終わりです」
差し出した箱を開けると、風が吹いた。風は紙をすくい上げ、そのまま社の方へと運んでいった。
空照さまがそれを受け取ると、周囲の空気が変わった。
セミの声が、ぴたりと止んだ。
そして、耳の奥に直接語りかけられるような声が聞こえた。
「……これは、美しい夏」
「こんなに、終わらせたくない夏……」
「けれど、終わるべきものは、終わらねばならない」
空照さまが、ゆっくりと手を上げた。
社の周囲を囲んでいた人々の姿が、次々と霧のように消えていった。浴衣の袖が風に舞い、名前もわからない顔も、空に溶けていく。
「……悟、あれ……」
「空照さまに迎えられた人たちだ。……解放されてる」
最後に、一人の小さな女の子の姿が残った。白い浴衣。濡れた裾。それは、悟の妹だった。
彼女は、兄の方へゆっくりと微笑んで、そして、口を動かした。
声は聞こえなかった。でも、悟は泣きながらうなずいた。
「……うん。ありがとう。もう、大丈夫だよ」
少女は光になり、夏の空へと還っていった。
空照さまが、一歩、こちらへと近づいてくる。
悟が一瞬、私の前に出ようとしたが、私はそれを制した。
そして、小さく呟いた。
「……この夏を、終わらせてください」
その瞬間、空照さまの姿が、風に吹かれて崩れた。
顔を覆っていた蝉の殻が、ばらばらと地に落ち、その中にいた輪郭だけの何かが、空へと消えていく。
空に雲が広がり、遠くでゴロゴロと雷の音が鳴った。
悟がぽつりと言った。
「……本物の、夕立だ」
大粒の雨が降り始めた。村に、初めての変化が訪れていた。
次の日。
私は、目を覚ました。
外から聞こえるのは、小さな虫の声と、風の音だけだった。
カレンダーを見る。日付は八月十七日。
「……夏が、終わった」
私は呟いた。
その瞬間、涙がこぼれた。
止まっていた時が、また動き出したのだ。