空照さまの願い
目を覚ましたとき、私は家の布団の中にいた。
天井には見慣れた木の梁。外からは、いつものようにカナカナカナ……と、ヒグラシの声が絶え間なく響いている。
「……夢?」
そう思った。でも、体が重かった。腕を動かすと、誰かに手を握られていた。
「……よかった、戻ってきた」
悟だった。
額に小さな擦り傷があって、頬は泣いたあとのように赤くなっていた。
「君、空照さまに呼ばれかけてた。もう一歩でも近づいてたら……君も、あそこにいた人たちと同じになってたよ」
私は小さくうなずいて、声をしぼり出した。
「……あのとき、私の名前を呼んだ声……おばあちゃんの声だった」
悟は静かに言った。
「それは、空照さまの願いなんだよ。あの存在は、夏の終わりを拒んで、誰かの記憶に姿を変える。その人の一番、会いたい人になるんだ。……だから、引き込まれる。抵抗できない」
私は唇を噛んだ。
祖母の声。懐かしくて、泣きそうになるほど優しい声。
「でも、違う……あれはおばあちゃんじゃない。そう、思いたい」
悟はそっと目を伏せて、つぶやいた。
「そうじゃないと、俺も……やってられないよ」
彼の言葉の意味に気づくまで、私は少し時間がかかった。
「悟……妹が消えたって言ってたよね」
「うん」
「そのとき、妹も……呼ばれたの?」
悟は黙ってうなずいた。
「夢の中で、俺の妹はお父さんに呼ばれたって言ってた。亡くなった父さんが、森の中で帰っておいでって。着いて行ったら、そのままいなくなったんだ。あの子、ずっと寂しかったから……」
そのとき、私は確信した。
空照さまは、寂しさに入り込む。
終わりを拒む心。季節の終わりを認めたくない気持ち。大切な人を失った痛み。そこに、夏の影はやってくる。
「悟……私、もう逃げたくない」
「……え?」
「このまま、繰り返される夏をただ避けるだけじゃ、意味がない。空照さまと向き合わなきゃ。……終わらせなきゃ、この夏を」
悟は目を見開いたまま、少しだけ口元をほころばせた。
「……そうだね。じゃあ、準備しよう」
「準備?」
「空照さまに、願いを聞いてもらう方法があるんだ。でも、それには供物が必要なんだよ」
「供物って……?」
「夏の記憶を、一つ差し出すこと。それも、強くて、忘れたくない記憶。そうしないと、空照さまは相手にしてくれない」
私は少しだけ考えてから、答えた。
「……わかった。ひとつ、あるよ。おばあちゃんと見た、最後の花火。忘れたくない。でも、あれを渡す」
悟はゆっくりうなずいて、立ち上がった。
「じゃあ、明日の夕方、境の森にもう一度行こう。そのとき、もし空照さまが出てきたらお願いするんだ。この夏を、終わらせてくださいって」
私は深く息を吸った。蝉の声が、また少し大きくなっていた。
その夜、私は夢を見なかった。
でも、朝起きるとまた、八月十六日だった。
テレビのアナウンサーが、まったく同じセリフを繰り返していた。
朝の空も、雲の形も、蝉の声の高さも、昨日とまったく同じだった。
「……これが、最後の八月十六日にしたい」
私は呟いた。
そして、もう一度、境の森へと向かった。