夏を終わらせない存在
悟に手を引かれて、その場から逃げるように離れた。
私の後ろにはまだ、あの白い浴衣の女の子が立っていた。けれど途中で、ふと気づく。
蝉の声が、まったく聞こえなくなっていた。
代わりに、どこからともなく水の流れる音がする。
「……ここ、どこ?」
気づけば、知らない小道に立っていた。周囲の木々は鬱蒼と茂り、空が見えない。湿気が重く、空気がぬるい。
悟が小さく息を呑んで言った。
「まずい、村の外の道に入り込んだ……ここ、境の森だ」
「境?」
「空照村と、向こうを隔ててる場所。普段は入れないはずなんだけど……」
「向こうって、なに?」
悟は、答えなかった。代わりに早足で森の奥を指さした。
「とにかく、ここに長くいちゃいけない。もうすぐ夕立が来る」
「晴れてるけど……」
「この村では、夕立が来るとき、空は晴れてるんだよ」
まるで意味がわからなかった。
でも、信じるしかなかった。
私たちは木々の間を抜け、森の奥にある石段を見つけた。それはどこかで見たような、忘れかけていた記憶を呼び起こすような石段だった。
そして、そこに、一匹のセミの抜け殻が、ぴくりと動いた。
「ひっ……!」
私は思わず後ずさった。セミの抜け殻が動くはずがない。
でも、それは小さく震え、殻の中から目のようなものが見えた気がした。
悟が私の前に立ちふさがる。
「見ちゃだめだ。あれは、夏の核のひとつだ」
「核って……!」
「この村の夏を終わらせないものは、いくつもある。音、夢、記憶、そしてかつて村にいた人。でも全部の中心にあるのが、あれなんだ。空照さまって呼ばれてる」
私は聞いた。
「それに会えば、この夏を終わらせられるの?」
「……もしかしたら。でも、代わりに何かを差し出さなきゃならない。夏って、本当はとても儚い季節だろ? 一番強く輝いて、一番早く消える。それを無理に閉じ込めてるんだから……代償がいるんだよ」
悟の目が、悲しそうに揺れた。
「俺の妹は、それを差し出したんだ。迎えが来たのは、たぶん、空照さまのためだったんだと思う」
私は足元の抜け殻を見つめた。
それは今、動かなくなっていた。ただの殻に戻ったように見えた。
だけど私には、わかっていた。
それは、見ていた。
私たちを。
その夜、私はまた夢を見た。
前と同じ、森の中。でも今度はもっと深い。木の隙間から光が入らず、地面も湿っていた。
そこにいたのは、あの白い浴衣の女の子と、もうひとつの影。
まるで、人の形を模した何か。顔がなく、輪郭だけが人間のように動いている。
私を見つめる影が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
「……ひなちゃん」
浴衣の女の子が私の名前を呼ぶ。その声は優しかったし、どこか懐かしかった。
でも、その後ろの影の中から、無数のセミの声が響いた。
カナカナカナ……
カナカナカナカナ……
私は、逃げた。
夢の中で、必死に逃げた。足がもつれ、転びそうになりながらも、あの影の手が私に届くより先に……
目が覚めた。
息が苦しい。胸がドキドキしている。
そして、部屋の隅に、セミの抜け殻が、ひとつ、落ちていた。